只今満を持して餌食になりました

 ざらりとした安いシーツの上に座り込む。生活感のない部屋にぽつねんとして、工藤は壁に掛けられた時計を眺めている。


 時計の針は七時を回ったあたりで、工藤はのそのそとカーテンを開ける。そのまま申し訳程度に窓を開ければ温い夜気が入り込んできて、少なくとも今は冬ではないのだろうなとどうでもいいことを考える。そのままカーテンをいい加減に閉めてベッドに戻る。外の暗さと室内の時計の示す時刻から考えるに、時刻の基準に関しては恐らく工藤の知っているのとさほどかけ離れてはいないだろうと安堵して、それでも拭いきれない不安に膝を抱える。

 異世界から来た、などといううわごとを自分が言う日が来るだなんて工藤の短い人生の中で予想したことは一遍だって無かった。今日の朝だっていつものように通学のために栄参電鉄方仁池線富的行き七時十四分の電車を待とうとホームに立ち尽くしていた──本当にそれぐらいしかしていないのだ。なのに入線のアナウンスと警報機の喧しく鳴り響く音に重なるようにしてレールを電車が書ける轟音が聞こえてきたあたりでぶっつりと記憶は途切れて、次に目が覚めたときは玉砂利の敷かれた庭で道端に放り捨てられた動物の死骸のような格好で突っ伏していたのだから気の狂う余裕さえなかった。何が起きたのかがさっぱり理解できないのだから、困惑すれども混乱をする余地がないのだ。

 そうして砂利の上で呆然としていたところすぐ近くから短い悲鳴のような声が聞こえて、振り向けばだらしなく浴衣を着崩すというよりは巻き付けたような恰好の男性がこちらを和室を背負って立ち竦んだ縁側から見ているのと目が合った。工藤はその時点でやっと自分が人様の家の庭先で転がっていたのだと理解したのだ。


 羞恥とも困惑とも焦燥とも謝意ともつかぬ、諸々の感情が混然としたあの瞬間のことはあまり思い出したくない。


 そこからのことは本当によく分からないまま全てが進行していった。浴衣の男性と二言三言会話を交わし庭先から縁側にしばらく置かれているうちに、真っ黒な髪と目をした女が部屋の奥から現れて魂が抜けたようになっている工藤のことを上から下までじろじろと眺めてからぐいと顔を掴んで睫毛の絡まりそうな距離で呆けたように開きっぱなしになっていた眼を覗き込んだかと思うと、にっこりと眩いばかりの笑みを浮かべてまた来た方へと消えて行った。少し間を置いてから今度は見上げるほどの長身の男性を従えて来て、


「君ね、私の事務所で預かることになったから。安心しなさい」


 すぐに死なないようにはしてあげるよと言って笑ったその顔が何故だかひどく恐ろしくて、工藤は何を聞き返すことも問い詰めることもできなかった。そのままろくに抵抗も思いつかないまま年季の入ったバンに乗せられ呆然としているうちに妙に派手やかな濃紅の壁のビルディングの中で降ろされ、金文字で『各務実業社』と書かれたガラス戸を押し開けあれよあれよという間に応接室へと通される。そうして質問とも尋問ともただの好奇心による詮索とも見分け難い諸々を女──カガの言っていたカシラだ──から受けたのだ。


 工藤とカシラが然程のやりとりを交わしたわけでは無い。工藤は目まぐるしく変化する状況の中で十分に混乱していたし、カシラも真面目に聞いていた訳でも無い。悪ふざけと暇つぶしと必要最低限の業務的対応が、その時の質問のおよその内訳だ。だがそれでも最低限、どうしようもなく突きつけられた事実はいくつかあった。

 ここは日本ではあるが工藤の居たそれとは異なる有様の場所で、この地域では工藤のような『普通の高校生』は珍しいものであること。工藤が転がっていた場所は神社だということ。カシラが工藤の身元を『引き受けた』こと。それら少々の出来事だけはどうやら状況からして事実──というより工藤の身に実際に起きていること──として認めざるを得ないということが否応なしに分かった。よしんばこの女性や長身の男性、先程工藤を見て悲鳴を上げた浴衣の男の言っていることや対応が全てでたらめで、工藤を騙くらかして遊んでいるだけのドッキリのようなものかもしれない。そんなことを一瞬考えはしたが、そうだとしても工藤に対抗する手段が無い以上、そんなことはどうでもいいことだと気付いて止めた。


 児童小説や娯楽作品で見た異世界のような華やかさも異質さも無く、チンピラやバケモノや当たり屋がほいほいと跳梁しているような、工藤の生きていた日常から治安と柄だけが飛び抜けて悪化した世界とでも言うべきだろうか。言語と時刻基準がそのままなのは助かったけども、夢も希望も無い異世界だと工藤は己の現況を自嘲する。隣室に居るだろうチンピラ──カガは今のところ敵意は無いだろうが、それでもこれまでの対応からして迂闊に苛つかせるような真似をするのも得策ではないのは火を見るより明らかだ。怒鳴りつけられ、煙草の火を向けられ、嚇しつけられた。ぎりぎり暴力を振るわれていないだけで、あの手の人間は有効だと判断したら暴力を行使することにいささかの躊躇も葛藤もしない類だと工藤は確信している。


 隣室にはチンピラ。マンションには化け物。この世界にとっては異邦人である工藤。思いつく事柄にひとつとしてまともなものがなく、工藤は投げやりにベッドの上に横たわる。考えることしかできない状況で考えれば考えるだけ混乱していくのは何の罰なのだろうなと思いついて、工藤は深々と溜息をついた。


※   ※   ※


 どんどんと玄関ドアを殴りつける音と、ひっきりなしに鳴るチャイムの音。ひやりとした手先の感覚にぎょっとしながら工藤は跳ね起きた。いつの間にかうとうとと眠り込んでいたのだろう。

 手の違和感は何故だろうと寝ぼけた頭で考える。眠気で体温が上がったところに布団をかぶり損ねて寝たので外気に肌がひりつくのだろうと思いついて、工藤は布団の中に手を引き込もうと腕に力を込める。


 その腕をぐいと引き直されて、一斉に背中に汗が噴き出す。どぐんと一際強く心臓が跳ねたのが分かった。

 挟まれている。何に? 引っ掛かっている。何処に? 記憶を辿っても、ベッドの周りには何もない筈だ。


 掴まれている。誰に?


 疑問が脳内に溢れ出して混乱と恐怖がみるみる湧き上がり暴れ出す。開けたくないのに閉じたままだともっと恐ろしいことになるという確信に近い予感があって、工藤は強く瞑っていた瞼を無理矢理に持ち上げる。


 祈るように愛おしむように嬲るように絡められた白い手。互いに指を組み合わせた掌を挟んで目の前、皿のように見開かれた点のような黒目と目が合った。


 叫べもせずに息を詰めて、工藤は握られた手とその白々とした目を交互に見やる。ベッド横のその頭はずるりと伸び上がり、隠れていたものが露わになっていく。


 尖った鼻。肉色の唇。筋の浮き出た首筋。膨らんだ胸元から恐らく女なのだろうと判断できる。胸元を押さえる右手は暈けたような白色で、その指先の爪だけが可憐な薄桃色。


 その爪を見た途端に、工藤は直観した。カガに見せられた凄惨な被害者の傷跡──あの無残の肌や痛々しく剥き出しになった肉の悍ましい有り様は、この爪によってもたらされたものだということを、反射的かつ発作的に理解してしまった。


 女の胸元の手がゆるゆると工藤の顔面に向かって伸ばされ、爪先が顎の下に触れる。見開かれていた双眸がぎゅうと糸のように細まるのと同時に、工藤はようやく絶叫する。


 そのまま猛烈な勢いで女が横にすっ飛んで、繋がれたままの手が勢いよく引っ張られて工藤は悲鳴を上げる。盛大な舌打ちが聞こえたかと思うと絡まっていた女の手に火の点いた煙草が押し付けられて、跳ね上がるように離れていった。


「剥げてねえなら叫ぶなよ。うるせえから」


 馬鹿みたいな赤の柄シャツ。不機嫌そうな表情。片腕には金属バットを下げた、総合して柄の悪いチンピラ。火の消えた煙草をフローリングに放り捨て、女を踏みつけにしたままこちらを見下ろして、カガは怠そうに言い放った。

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