悪夢の他に何もない部屋
事務所からタクシーで十分。走った距離はそれだけなのに二回も人を轢きそうになったのはどういったことなのだろうと聞こうとして、聞いたところでまともな答えは返ってこないことに気付いて、工藤は目を伏せる。信号待ちで止まっていたところに纏わりついてきたやつを引き摺って発進したのはまだしも、歩道の端にいた青年が素晴らしいタイミングで飛び込んできたときは流石に驚いて、工藤は悲鳴を上げて両手で顔を覆ってしまった。あれは奇跡的にブレーキが間に合ったと同時に飛び出すように降りていったカガが何やら打撃音と共に怒号を上げていたような気がするが、工藤はあまりの恐ろしさに後部座席で事務所を出るときに持たされた金属バットを抱えて丸まって震えていたので、何が起きていたのかを一つも知らない。
それでもタクシーを降りた先の建物は何の変哲もないマンションそのもので、小奇麗な玄関を開錠して入った先はそれなりに近代的なエントランスホールだった。集合玄関──無機質な金属製の扉だ──の傍ら、いやに頑強そうなボックスの中に張り付けられた操作盤越しに何者かとカガがぼそぼそと会話してから少しの間が有って、がしゃんと鍵の外れる音がした。
そのままずんずんと突き進んでいくカガの後を小走りになりながら工藤が追いかけ、ボタンを押すなり開いたエレベーターの箱内で黙って回数表示を見つめる。気まずい沈黙はいやに長い上昇時間とそれなりの駆動音で塗り潰されて、上部の案内板が三階を表示してからすぐにぽぉんと妙に澄んだ音と共に扉が開いた。
廊下は一面薄暗く、申し訳程度の電灯がぽつぽつと灯っているばかりだった。照らされる各部屋に通じるであろう没個性な濃臙脂色の扉は鬱々と翳り、工藤はふと古びた血のようだなと不要なことを思いついてから、げんなりとした顔をした。
手前から二番目の扉の前、カガは手にしていた鍵を躊躇なく差し込み開いた部屋に踏み込んでいき、工藤は恐る恐るその後に続いた。
※ ※ ※
ありふれた単身者用の一部屋だろう。台所と居間との切り換えは薄い青色のカーテンで仕切られて、居間には凡庸な灰色の敷布と簡素な小机が置かれている。傍らには何の変哲もないベッドの上に薄緑色の寝具を積まれて、南側の窓には無地の淡水色のカーテンが掛けられていた。
生活感はあまり無い。そのせいだろうか、どことはなしにうすら寒い印象がある。けれども全く普通のマンションの一室だ。工藤は状況の変化にまたもどうしていいのかひとしきりうろたえて、ベッドに背を預けて床に座り込んだ。カガは部屋に入った途端に工藤からバットを取り上げ、そのまま台所の換気扇を点け、真下に陣取ったまま無心に煙草を吹かしている。
「ここに住むんですか」
「事故物件だからな。アリバイ作りだよ」
「何でなんですかそれ」
「一応なんだ、義務みてえなのがあるんだとよ。直前で死んでると、次に入る奴に説明をしねえといけねえ」
ふと先程のタクシーでの出来事を思い出して、工藤は黙り込む。少し前にカガが教えてくれたように、『妙なものもロクでもねえもんもひとまとめに流れ着く』ような──ちょっとした移動で当たり屋がぼろぼろ出てくる──治安の土地なのだとすれば、部屋で人が死んだくらいでは問題にならないのではないだろうか。
カガはそんな工藤の思考を読み取ったように、煙の合間から言葉を続けた。
「ここはアカマルの中でも金持ち狙いの物件なんだよ。貧乏人相手なら過去に死んでようが現在進行形で隣室で殺してようがそんなに問題にはならねえが、余裕のあるやつ相手にすると細かいことも気にしなきゃなんねえんだと」
あとここは実害があるからなと言って、面白くもなさそうに舌打ちをする。存外に派手に響いた音に身を強張らせながら、工藤はその一言を反芻する。
「実害」
「死人が出た記録はねえんだよ。死んだ方がマシみてえな目に遭ったやつが……四人だったか」
「死んだ方がマシ」
「何だオウムみてえだなお前」
どこから取り出したのか、カガは咥え煙草で手元の
「グロ画像じゃないですか!」
「死体画像じゃねえからいいだろ。お嬢さんかお前」
「痛いのとか……痛そうなのとか嫌じゃないですか」
「手前が痛え訳でもないだろうによ」
赤剥けの肌。擂られたように濡れて毛羽立った肉。体の各部が湯剥きのトマトのようになった人間の写真が映った端末を平然と眺めながら、カガは再び換気扇の下へと戻る。工藤は埋まった布団から顔を引き剥がしはしたがまだ悲痛な表情のまま、時折ぎゅうと目を
「今のが資料な。字面延々見るよか絵なら馬鹿でも一発で分かる……ワンフロア五室なんだがな、この階の四室で入居者がこのザマだ。二人目まではギリギリ誤魔化せてたんだが、三人目が動転して飛び降りちまったから騒ぎが大きくなって……苦情と罵倒が馬鹿みてえな量になって、今や上階に好き者と訳ありしか住みゃしねえ」
そういうやつらは足元まで見てくるからなと何故かそこで愉快そうに笑って、カガは手品のように取り出した携帯灰皿にすっかり短くなった煙草を突っ込む。工藤はその様をぽかんと眺めてから。
「灰皿持ち歩いてるんですか」
「はあ?」
「いや……意外で……」
「……足が付くかもしれねえから、仕事中はな、まあ」
どうでもいいことを気にすんじゃねえと八つ当たりのように吠えられて、工藤は文字通り飛び上がってからごめんなさいと小さな声で答える。妙な沈黙を挟んでから、カガが次の煙草に火を点ける微かな音がした。
「さっきの写真はその、被害者の方々なんですよね」
「おう。ツラ分かんねえのは女だってよ。えげつねえことするよなあ」
「誰がこんなことしたんですか」
「分かんねえ」
予想だにしない回答に工藤は信じがたいとでも言いたげな表情で、カガの方を向く。カガは何故かその反応に楽しげに笑ってから、噎せ込んだように小さく咳をした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます