三つ数えて目を逸らせ
「言葉が通じるんですね」
「異世界なのにな。日本語だろ? 少なくとも俺は日本語喋ってるって思ってっけど」
「はい。日本なんですよね、ここも」
「アカマルだけどな。日本の東北地域だってカシラが言ってた。どこから北かは分かんねえけど」
「アカマル?」
「そこは分かんねえのか。めんどくせえな……」
申し訳なさそうに眉根を寄せる工藤の顔をじっと見てから、カガはがりがりと頭を掻いてから馬鹿みたいに派手な柄シャツの胸元から煙草を取り出し咥え火をつけてから深々と息を吸い込み、天井に向けて盛大に煙を吹き上げてみせた。
昏倒した工藤を応接間の隅で物置と化していた長椅子に転がして、とりあえず構いもせずに放っておいたところ、飽きたらしいカシラは昨日の倉庫の鍵を返しに行くのだと事務所を出て行ってしまった。夕方には戻って来るとは言っていたが、普段なら事務所にたむろしている筈の他の人員も今日に限って来る気配が無い。余程カガもねぐらに戻ろうかとも思ったが、ひ弱な子供とはいえ部外者を事務所に一人きりにさせておくのもまずいだろうと思い至る。結果カガは全てをぶん投げて帰ることもできずに、介抱というより監視のような心持で、何故だかのんびりとした曲しか流さないラジオを聞き流しながら、蒼白な顔で長椅子に横たわったままの工藤の様子をぼんやりと眺めていたのだ。
長椅子に転がして一時間ほど経ったあたりで、ぽつぽつと工藤が口を聞き始めた。読みかけの本があっただの朝早かっただの脈絡があるのかないのかよく分からない内容ばかりで、カガからすればうわ言としか思えずに最初は放っておいた。だがどうやらカガに話しかけているらしいと気付いて、とりあえずカシラが拾ってきたものならさほど粗末にする訳にもいかない──何せ次の仕事でひとまとめにされてしまったのだから──と考えて、一応適当にでも話を聞いておいた方がいいだろう。そうチンピラなりに人間的な判断をして、柄の悪い大人と顔色の悪い子供の弾まない会話が始まったのだ。
「微妙に一緒ではあるんですよ。東北とか、そもそも日本語とか、カシラとか……カシラって偉い人の意味で使ってますよね?」
「所長だよあの
「じゃあ意味も大体通用するやつですね。ただアカマル、は分からないです。赤いんですか」
「部分的には合ってる」
カガは机の上に置きっぱなしだった客用茶碗を手に取り、工藤の目の前に突き出す。工藤はひどく驚いた顔をしてからゆっくりと身を起こして壁に凭れて、受け取った茶碗の中身をちびちびと啜った。
「成立ちとか大元とか、そういうのは俺だってちゃんと知らねえ。大昔に大き目の戦争やら大乱やらレティクル座やらの色々があって、どいつもこいつも生き延びようと群れたり盗んだり籠ったりしたんだと。で、お上の連中が収拾をつけようとした頃には大体のことが手遅れで、仕方がないから成り行きのまま、そこで生きてくことだけは許した……みたいなことをカシラは言ってた」
「よく分からないけど大変だったんですか」
「大変だったんじゃねえの。まだ大変だからこんな様なんだろうけど」
事務所の外からがしゃんと盛大な破砕音がして、工藤はびくりと身を竦める。カガは面白くもなさそうに空いた片手で煎弦茶の入った湯呑を掴んで、そのままぐいと一息で半ばほどまで干してから続けた。
「鳥小屋には鳥が入るだろ。で、鳥小屋に狐を放り込む間抜けはいねえ。鳥が齧られておしまいだ。鳥と狐、どっちも生かしておきたいのなら住んでる場所を分けた方が利口だ」
それを人間でやったってだけだよと言って、カガはもう一度咥え直した煙草から煙を吹く。工藤は目をしばたたかせながらも黙ったまま、煎弦茶をもう一口啜った。
「小屋を作ったなら名札が必要だろ? 地名、町名、それに加えて群れの名だ。表立って口にはしないが、クソガキからボケ老人までみんな知ってる。互いの縄張りを守ってる分には、万全じゃねえが危険は減る」
骨張った指が一本突き立てられる。口の端に煙草を咥えたまま、仏頂面のカガは言を続けた。
「ひとつ、フタマル。金持ちと賢いやつに偉いやつしかいられねえ。いる連中はみんな……選良?知識階級だってカシラは言ってた」
二本目の指が立つ。中指の先端が歪に欠けているのに気付いて、工藤は指からカガの顔へと視線を移した。
「次、クロマル。そこそこに働けて、学べて、動けるやつは大体そこだ。運と出来が良くてフタマルになるやつもたまにいるし、こっちに来るやつらもそこそこいる」
三本目の指。真っ直ぐ立ち切らない薬指に舌打ちして、カガは親指を立ててみせた。
「最後、アカマル」
途端凄まじい破壊音と何語とも判断できない怒号が響いて、工藤は椅子に掛けたまま飛び上がった。
「今──今のは」
「おっきい音しただけだろ。外出るなよ」
「外で何か起きてるんですか」
「だから出るなって言ってんだよ……気になんのか」
さっきみたいな目に遭いてえかと言えば、見る間に工藤の表情が青ざめる。その様に苛立ったように舌打ちをして、カガは話を続ける。
「大方紅鳥屋台のババアの発作だ。刃物飛んでくるから、怪我したくねえなら部屋ん中にいるのがお利口だ」
「警察とか呼ばないんですか」
「この程度で?」
カガの言葉にぎょっとしたように工藤が目を剥いて、カガは仏頂面のままそれを正面から見返す。吸い切って短くなった煙草を灰皿に押し付けて、もう一本を咥えて火を点けた。
悠然と紫煙を燻らす最中にも、ひっきりなしに怒号と喚声は事務所の室内にまで聞こえてくる。騒々しいそれに加えて集団のものらしい野次に歓声まで聞こえてくるのは、表では相当な騒ぎになっているのだろう。どごんと鈍重な殴打の音が響き、わぁっと一斉に悲鳴とも嬌声ともつかない盛大な
「ババアのヒステリーぐらいじゃ呼んだって来ねえよ、サツどもだって一応忙しいからな」
「すごい音してますけど」
「こっちに向かって来ねえならどうだっていい。よくあることだ」
なんせそういう場所だと呟いて、カガはもう一度三本指を立てた右手をこちらに向けてみせた。
「妙なものもロクでもねえもんも、ひとまとめにアカマルに流れ着く。ここはそういう場所だ」
分かったかと平坦な調子で投げ掛けられた確認と共に表から凄まじい絶叫が響いたきりぴたりと静かになる。工藤は少しだけ何かを飲み込もうとでもするように胸を張ろうとして、がくりと俯くように頷いてみせた。
「異世界かどうかはよく分からねえが、お前のいたとこってこういうんじゃなかったろ」
「はい。こういうのはその、都会の悪所なんかだと思ってました。俺には関係がないなって、ずっと」
「残念だけどよ、これからしばらく真っ只中だ。慣れろ」
「俺どうなるんですかね」
「将来とかそういうのは知らねえ。カシラに聞け」
「あの人怖いじゃないですか……聞いたところで、どうしたらいいのか、もう」
工藤の顔がくしゃりと歪む。途端につかつかと歩み寄ったカガが思い切りその短い髪をわし掴みにして、眉間の寸前に火の点いたままの煙草を翳す。
「愚図るな、めんどくせえ。ぶん殴るぞ」
半眼になったカガの表情と目の前の火種を見て、工藤がぎゅうと唇を噛む。カガが頭から手を放した途端に、へなへなとソファに沈み込んだ。必死で口元を押さえながら泣き出すまいと堪える表情を眺めて、カガは続けた。
「先のことは俺は知らねえ。ただ、これからお前とマンション住まいをしなきゃならねえ。とりあえず当面の予定はそこからだ」
「マンション住まいって……何をするんですか。俺が何の役に立つんですか」
「知らねえがお前も連れてけってのがカシラの指示だ。部屋の鍵も二部屋分貰ってる」
言ってカガが机の上からキーリングを摘み上げて、ちゃりちゃりと揺らしてみせた。
「カシラが戻ってきたら、入れ替わりでマンションに移動する。嫌だってんならカシラに言え。俺に駄々こねられたってどうしようもねえ」
「言ったってどうにもならないじゃないですか。せめて何をするかだけ教えてもらえませんか」
今にも泣き出しそうな顔で必死に食い下がる工藤に、鬱陶しそうに一瞥をくれてから、
「事故物件のロンダリングだよ」
住むだけで用が済むなら楽な話だろと言い捨てて、カガはもう一度盛大に紫煙を吹き上げた。
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