第11話 揺れる心
たった一度の会食だったが、あれを切っ掛けに白岡の筆は、乗り出した。
色々な事を考慮して、三回に一回は土門も同行するようにした。
構成の打ち合わせや、意見出しは遥子が全般に引き受けたが、白岡は時々土門の意見も求めた。
土門の意見は時に白岡の感性を刺激するらしく、そうなると彼を同行させることが必然的に増えた。
ある時、土門と二人、白岡の仕事場で作業の合間の休憩中に、白岡がとんでもない話を始めた。
「今度、時田さんの古巣の冬影社さんで短編の読み切りを書かせて貰うことになりましてね。」
「それはおめでとうございます。ますますのご活躍ですね。」
にこやかに遥子が笑うと、
「冬影社の担当さんからお聞きしたんですが……あの江上龍也君を発掘して育てたのが時田さんって本当ですか?」
まさかの予想外の問いかけに、遥子は一瞬答えを失う。
「冬影社の文芸部では伝説になっているとか」
白岡が興味津々に続ける。
「………そんなこともありましたね。でも、伝説だなんてそんな大袈裟な事ではないですよ…」
苦笑いと共にどこか消極的な言い方になった遥子を土門が訝しげに見た。
「ご謙遜を。全くの素人をコラムニストに育て、最終的には人気作家にまでしたんですから、貴女の手腕がわかるというものです。時田さんが退社されるまでずっと専属だったとか……何年くらい組まれていたんですか?」
この話はどこまで続くのだろうか……内心うんざりしながらも、遥子は淡々と答えることに徹した。
「何年ですかね……五、六年だったでしょうか。なにせあの当時は、同時に三人掛け持ちしていたりもしたんで、殆ど記憶に残ってないんです。」
「現場の真っ只中の人間はそんな感じなのかもしれませんね。貴女が過去の栄光を振りかざすような人だとは思っていませんでしたがね。」
白岡は、納得顔で頷いてくれた。遥子は、ここぞとばかりに
「私は過去より未来を目指すタイプですので……今は先生の作品に夢中です。ミステリー大賞など狙われてはいかがですか?」
遥子の誘いに白岡は、大笑いした。
「いやぁ!休憩中でも尻を叩かれるとは!」
遥子もふふふと笑う。
「先生、叩くなんて!これでも背中を目一杯押させて頂いてるつもりですのに!」
ようやく切り抜けられたと安堵していたところで、突然爆弾を落とされる。
「参考までに……それだけ長く組んでいたら、ロマンスの一つも生まれなかったんですか?」
遥子はわからないように浅く息を吐いてから、微笑んだ。
「編集者と作家の現場は常に戦場みたいなものですから、ロマンスなんて無縁ですよ。私はどちらかというと、書き手より作品の方に夢中になってしまうので……」
こちらをじっと見ている土門の視線も意識しながら、顔が引き吊っていないことを願った。
まだ何かを言いたそうにしていた白岡だったが、遥子が話を切り上げた。
「先生、そろそろ再開しませんか?今の勢いなら、ミステリー大賞も夢ではありませんよ!」
「先生!ミステリー大賞受賞の暁には、取材の写真は僕に撮らせて下さいね!」
土門がカメラを構えるゼスチャーをして追い打ちをかけると、白岡は大袈裟に耳を塞いだ。
「二人で追い込むとは!とんでもないスパルタ編集者に依頼をしてしまったかもしれないなぁ……」
とりあえず、その場は笑いに包まれた。
その日、白岡の筆の滑りは順調で、予定通りに仕上がったので、次回までに揃える資料を纏める作業にとりかかるよう土門は指示を受けた。
事務所に帰ると、土門はパソコンを開いて真っ先に検索をする。
“ 江上龍也 ”………作品名、ウィキペディア、取材記事、画像……
「……ヒット!白岡先生ナイス情報!」
その数少ない画像を目にした途端に、土門の表情はみるみるうちにこわばった。
自分で見てもわかるほど、画面に表れた画像は自分に似ていた。
「……亡霊…発見……」
経歴を読み込むと、デビューは八年前となっている。
先程の話では、遥子は五、六年だったと濁していた。だが、白岡の言っていた“辞めるまで”というのが事実なら嘘になる。
江上は、既婚者で、昨年結婚となっている。
関連記事を引っ張ると、その当時の担当編集者との結婚を発表している。
土門は自分の知り得る情報の中で、時系列を整理してみたが、空白の時間が多すぎて上手く並べられないことに気付く。
だいたい、遥子がいつ冬影社を辞めたのかも知らない。
独立するにあたってどのくらいの月日を要したのかも。
今わかっていることは、遥子が江上龍也なる作家を発掘、長年に渡り育て上げ、世に出したという事実。
その江上に自分の顔がとても似ているという事実。
そして、何より遥子が彼に似ている自分を見ることを嫌悪し、苦手としている事実。
おそらくは……江上との間に何かしらのことがあって、それを今も亡霊として引きずっているという……これは、予測。
「聞いたとしても……言うわけないよなぁ……」
土門は検索画面を閉じると、椅子の背もたれにドカッと寄りかかり、天を仰ぐようにして目を閉じた。
土門を先に事務所に帰し、自分は他の契約先にテキストデータを持参しての帰り道、遥子は白岡から落とされた爆弾話を思い出していた。
冬影社の元同僚がどんな情報を流したのかはわからないが、独立したての自分を応援する意味での事だったには違いなかった。
だが、要らぬ情報だったなと思う。
ましてや、土門の前で江上の話はしたくなかった。
あの残業中のビンタ事件の夜以来、土門は一定の距離を空けて接してくれている気がする。
優秀なアシスタントに徹して同行し、事務所でも健さんに負けないくらいの仕事量をこなしてくれている。
お陰で楽に仕事が出来ていた。
彼の顔もだいぶ見慣れてきたし、彼と一緒に過ごす時間にも苦手意識はかなり薄れてきた。
あの時、間近で見た彼の顔は江上に似ているというより、土門の顔が自分の中に焼きついたという印象だった。
土門は土門、徐々にそういう認識が生まれていることを感じていた。これが彼の言う“ 亡霊退治 ”なのだとしたら……成功なのかな、と思わず笑みが漏れた遥子だった。
「時田DR!!ヤバそうです!」
午前中から白岡の元へ行く予定の朝、土門が遥子の部屋に飛び込んできた。
「な、何事なの!?」
ただならぬ様子の土門に遥子は立ち上がった。
「たった今、ネットニュース速報で山手線で大きな人身事故があったみたいです!」
土門は手にしていたタブレットでニュースを見せた。
一般からの投稿された画像が映し出されていて、小型トラックと乗用車が線路内で衝突しているものだった。山手線全線と関連の線もストップしているらしい。
「うわぁ……これはまずいわねぇ……」
岩橋も心配そうに入ってきた。
「電車は使えそうにないですね。かといってタクシーもすでに手配が難しそうです……」
こういう事故が起こると人口過多の東京は直ちに混乱する。
何万人もの人が行き場を失いバス、タクシーに押し寄せる。
そろそろ脱稿も近付いてきているクライマックスに、遅刻はともかく欠席だけは有り得ない。
すると土門がニンマリと笑い、眉を上げて両手でバイクのハンドルを持つ真似をした。
「こういう事態にこそ、バイクですよ!」
遥子は一瞬苦虫を噛み潰したように顔をしかめたが、思い直す。
「……仕方ないわね。緊急事態といえばそうだし……」
途端にヒュー!という口笛と共に土門が親指を立て、
「すぐに準備します!」
と言って部屋を飛び出した。
土門のあまりの上機嫌に、岩橋が目を丸くした。
「そんなにバイクで行きたかったんですかねぇ?」
「らしいわね。あ、岩橋女史、白岡先生に私達が出たら連絡を入れて事情を説明しておいてくれる?」
「了解しました。土門君を信用しないわけではないですが……大丈夫ですか?」
岩橋の心配そうな言葉に遥子も苦笑いで答える。
「彼がどのくらいの運転技術なのか、私も知らないわ。でも、こんな事情じゃ乗らざるを得ないしね…」
下に降りて外に出ると、ビル横の駐車場に向かう。
8台程停められる駐車場の一角に駐輪場があり、土門がそこから愛車をこちらに押し歩いて来る。
深い紺色のバイクだった。
手入れが行き届いているらしく、ピカピカに輝いてるのがなんとなく彼らしかった。
「どうです?僕の相棒!」
「どうって聞かれても……私、バイクの知識が無いのよ。でも大きいわね、何CCあるの?」
「400です。はい、メット。」
黒いヘルメットを受け取り、肩より少し長いウェーブのかかった髪を揺すって後ろに纏めると顔を少し前に倒しゆっくり被る。
「……バイク初めてですか?」
「そうよ、ちゃんと被れてる?」
土門は頭のてっぺんから爪先まで眺め、目を丸くして微笑む。
「カッコいいですよ!ライダースーツ着せたい!」
「着ないわよ!いいから早く出発するわよ!」
遥子は軽く睨む真似をしながら急かせた。
足をかけるところを教えてもらいながら股がる。
生まれて初めて乗るバイクの後ろに、居心地の悪さを感じながらどこに掴まればいいのか分からずに土門が座るシートの後ろを両手で掴んでみる。
「……何してるんですか?振り落とされるつもりですか?」
土門が体を起こしてメット越しに振り返る。
「何って……初めてなんだから、掴まり方がわからないのよ……」
土門が笑いながら後ろ手に遥子の両手を掴むと、ぐいっと引っ張り自分の腰に回させた。
「バイクは、こうですよ。死んでも離しちゃ駄目ですよ!」
土門に後ろからピタッと抱きつく形になり、遥子は心拍が跳ね上がった。
「こ、こんなに掴まらないといけないの?」
「走り出したらわかりますよ。体ごと前に持っていかれるから嫌でも僕に抱きつくことになるんでね!」
そういうものなのか?と疑問視しながらも、遥子は言われた通りに回した腕に力を入れた。
ボタンダウンシャツ越しでも彼の筋肉質な背中がわかった。
まぁまぁな音量のエンジン音と共にバイク全体が振動する。
昔、遊園地で絶叫マシンに乗った時の緊張感に似ている。
「なんか、すげぇ幸せです!」
土門が誰に言うともなく大きな声を出した。
遥子は妙な緊張感とドキドキ感で赤くなった。
「……バカ!早く出発する!」
土門の選択は正しかった。
いつもより溢れかえるかなりの渋滞の流れの中を、バイクなら間をすり抜けて進めた。
走り始めるとなぜしっかり掴まらないといけないのかも、身をもって知った。
スピードが出れば出るほど体が前へ押し出される様なGを受け必然的に土門の背中に抱きつく形になってしまう。
土門の背中の温もりと微かなコロンの香りは、決して嫌ではなかった。むしろ妙な安心感のようなものに包まれた。
彼の運転は、荒くはなく、正確で丁寧だった。無理な車と車のすり抜けはせず、だが確実に車を抜き去り渋滞をかわした。
約束の時間よりは多少遅れたものの、この突発的な状況を踏まえてなら許容範囲だった。
「どうでした?バイク、」
土門が遥子からメットを受け取りながら得意気に聞いた。
「それは、初めてバイクに乗った感想?それとも貴方の運転技術に対する感想?」
いつものニンマリ顔で土門は
「当然、両方共に決まってるじゃないですか!」
遥子は同じようなニンマリ顔で
「それは後でね。白岡先生をこれ以上お待たせ出来ないから…」
そう言って鞄を肩にかけ直してバイクから歩き始めると、土門の不満げなため息が聞こえてきた。
「……バイクのお礼に後でお昼奢るわ!だから早く来る!」
前を向いたままそう投げると、土門が口笛吹きながらダッシュしてくる気配を感じて、遥子はクスクス笑った。
白岡は、ここにきて最終のクライマックス展開に迷いが生じ、急にペンが遅くなっていた。
こうなると作家というものは厄介ゾーンに入る。
迷いの答えを探すために最初から何度も内容を洗い直してみたり、プロット(あらすじ)の組み立てを変えてみたりと……まぁまぁ編集者も振り回される。
この日も急ブレーキの掛かった白岡の為にヒントになるような提案をしたり、書き起こしてある章ごとに整理して打ち出してみたりしたが 、なかなかピンとはこなかったらしい。
結局この日は、殆ど進まずに一週間の時間を置くこととなった。
「なんか……嫌な予感がするんですけど……遥子さんはどう見てます?」
バイクを降りた時に約束したランチを取るために、二人は土門の提案したカレー専門店に居た。
ランチのはずが、白岡の所で思わぬ時間を強いられ、すでに三時を回っていた。
話題はもっぱら白岡の突然の急ブレーキに及んだ。
「そうねぇ……私もちょっとそんな予感がしてるかなぁ…」
「ベテランの遥子さんが感じてるんなら、ヤバいかもですねぇ。何か対策とかあります?もしもの時の為に用意しておく物とか」
遥子は思わずフフッと笑う。
「なんか、考えることがいっぱしの編集者みたいになってきたわね?」
土門はちょっとおどけながらニッコリ笑った。
「そりゃぁね、これでも一応、伝説の編集者のアシスタントなんで!」
「伝説なんかじゃないわよ!」
遥子が軽くたしなめると、そこへ頼んでいたカレーが運ばれてきた。
初めての店だったので、素直に土門のお勧めに従って遥子はチキンカレーにした。普通のチキンカレーと違って、ルーの上にローストされたチキンが細長くカットされて並んでいる。
「いただきます」をしてから、チキンをスプーンでカットしてルーとライスを口に運ぶと、複雑なスパイスと芳しい香りが口に広がった。
「美味しい!」
目を丸くしながらカレーを眺めて遥子は素直に感嘆した。
そんな遥子に土門は嬉しそうに笑った。
「でしょ!ここはルーにも鶏のミンチと玉ねぎが細かく煮込まれていて、キーマ程わからないけど舌に微妙に残る感じが絶妙なんです。」
土門の説明に、遥子は確かめるように二口目を運び、なるほど、と何回も頷いた。
「お勧めしてくれただけあるわね、本当に絶妙だわ。タウン誌の取材か何かで知ったの?」
遥子に遅れまいと、カレーをパクつきながら、土門は親指を立てた。
「ご名答!以前、この辺りを特集したときに口コミで取材に来ました。良かった、味覚が一緒で!」
「味覚が一緒って、大袈裟ね…」
遥子が苦笑いすると、土門はスプーンをカチンと置いてムキになった。
「そこは大事ですよ!長く一緒に居るには味覚や好みは似ている方がいい」
長く一緒に居る……というフレーズに何故か感情が反応した。
口に運びかけたスプーンが一瞬止まり、カレーがブラウスの襟元に垂れてしまった。
「あっ……」
慌てて遥子がおしぼりで拭き取ろうとすると、土門が止めた。
「駄目です!そのまま!」
土門の動きは素早かった。横に置いていた斜め掛けショルダーから小さなポーチを取り出すと遥子の座る左側に滑り込むように座った。
「はい、こっち向いて」
「え?い、いいわよ!自分で出来るから……」
「いいから、言うこと聞く!」
戸惑う遥子に有無を言わさずに、土門は体の向きを自分に向かせると、ポーチの中から小さな金属製のヘラのような物を取り出し襟元のカレーを慎重にこそげ取った。その後紙ナプキンを襟元の下に当て、染みの上から小さいボトルに入った透明の液体を浸み込ませると乾いたガーゼでトントンと叩く。
その手際の良さに感心しながらも、自分の襟元に真剣な顔を近づけている距離感に戸惑い、体を寄せているが為に密着している彼の脚を意識した。
「……はい!オッケーです!これで染みにならなくて済む」
すぐ真横でニッコリ微笑まれ、思わず頬が上気した。
「……あ、ありがとう……」
あっという間に向かいの席に戻った土門を目で追いながら、もごもごと呟いた。
「これ、便利でしょ?」
「……何でも持ち歩いているのね。器用ね…」
「僕も、便利でしょ?」
ちょっと意味有り気に笑った後、種明かしを始めた。
「カメアシの頃に学んだんです。モデルさんて撮影の合間に食べ物を摘まんだりするし、ルージュが服に付いたりとかのアクシデントが多かったんで、染み抜きなんかも見習いの時はやらされたんでね」
遥子はなるほど、と頷いた。
土門とは、かれこれ二ヶ月半程仕事や行動を共にしているが、呑み込みも早く基本的に何をさせても器用な印象が強い。
おそらく、カメラマンとしてもいずれ成功しただろう。
「貴方なら、カメラマンでも成功したような気がするわ」
遥子は思ったままを口にした。
「それは、僕には編集の仕事は向いてないということですか?」
「え?……」
才能が豊富だと、褒めたつもりの言葉だったのだが、予想外の不機嫌な返しに遥子は慌てた。
「違う違う!褒めたのよ?器用だし才能も豊富だから、何にでもなれたんじゃない?ってことよ」
だが、土門は少し考えるようにしながら首を傾けた。
「遥子さんは、いつ頃冬影社を辞めたんですか?」
「……なぜ?」
突然の会話の変化に一瞬戸惑った。
「だって、遥子さん程の優秀な編集者が辞めるってことは、独立を考えてでしょう?なら、独立するまでどのくらいの時間がかかったのかなぁ?って。」
「……いずれ独立しようと考えているの?」
土門はブンブンと頭を降った。
「まさか!まだ始めたばかりですよ!この先何年修行を積めばいいんだか……」
「そんなにかからないと思うわよ、君なら。」
「何言ってるんですか!」
土門は驚いたように笑った。
「独立には、絶対的な実績が要るのは遥子さんが一番知ってるじゃないですか。どんなに能力高めても独立は成り立たないでしょ?」
「まぁ……コネはあった方がいいのは間違いないけどね」
彼は、何を聞きたくてこの会話を始めたのだろうと訝しげに顔を傾けた。
「で、退社してから独立までどのくらいかかったんですか?」
遥子は敢えてカレーを口に運ぶことに注意を払いながら、土門を見ずに答える。
「そうねぇ……一年半位かしら。経営の勉強もしないといけなかったしね。」
実際には、半年で事務所を立ち上げたのだが。
「やっぱり、こういう仕事を突き詰めると独立を考えるものですか?」
「さぁ……人それぞれなんじゃない?むしろ、独立を考える人の方が少ない気はするけど。」
遥子はカレーを綺麗に食べ終わると紙ナプキンで口を押え拭く。
「遅ればせながら、遥子さんが育てたという作家、江上龍也の処女作品読みました。……良い本でした。」
「……そう。」
遥子は相変わらず土門を見ずに、水の入ったグラスを手に取りゴクリと飲んだ。
土門が真っ直ぐこちらを見ているのは視線でわかった。
「七年もペアを組んだ、自分が発掘して育て上げた作家とペアを解消した原因も、独立の為ですか?」
「ねぇ!」
とうとう遥子は痺れを切らした。
「私は一体、何の取り調べを受けているの?」
ようやく土門を正面から睨みつけた。
「事務所に入って三カ月の貴方が、年明けにでも独立を考えているんでなければ、この話は意味を成さないわ。」
「意味は、ありますよ。」
土門の目が少しだけ細められた。
「亡霊の正体……江上龍也、ですよね?」
ゆっくりとした動作で、遥子は再びグラスから水を飲んだ。
そして、もう一度土門を見た。
白岡に爆弾を落とされた日から、いずれこの件については話さなければならない日が来るだろうとは頭の隅で考えていた。
遥子は覚悟を決めて、口を開く。
「そもそも、貴方が言う“亡霊”って何?貴方の顔が実は江上龍也に似ているという点なら、否定はしないわ。他人の空似レベルなのも認める。だけど、そこに意味はないわ。とても似ている、それ以上でもそれ以下でも無い。」
土門は、軽く目を閉じると小さく溜息をついた。
遥子の答えが余りに予想通りだったからだ。
彼女がそうやすやすと自分の過去を話すはずがないのもわかっていた。
「……すみませんでした。今する話ではありませんでした。こんなカレー屋ではね。」
突然、丁寧に頭を下げる土門に遥子はちょっと面喰った。
だが、すぐに顔を上げた土門の眼差しはとても強いものだった。
「前にもはっきり言いましたが、あの時の事も、僕の気持ちも、亡霊の正体の事も、無かったことにする気はありませんから。いつか、必ず、僕と話して下さい。」
きっぱりとした迷いのない彼の言葉は、何故か遥子の心に響き、揺さぶられた。
即座に否定しようとしたのに、まったく言葉が出てこなかった。
そして、その遥子に関しての話題は、その日事務所に帰ってからも二度と土門の口に上がることは無かった。
皆が帰った後も、遥子は白岡の迷いの点を探りながら、妙案はないかと原稿のデータを読み返していた。
何点か、思いついた事をワードにまとめると、取り敢えずパソコンを閉めた。
回転椅子をくるんとデスクに背を向けて窓の外を眺める。
「いつか、必ず、僕と話して下さい……」
土門が最後に言った言葉が甦る。
彼の真っ直ぐな気持ちは、さすがに届いている。
嬉しくないと言えば、嘘になる。
そもそも、こんな風に誰かに想われたり、こんな風に個人的に距離を詰められるのも何年振りだろうか?
亡霊呼ばわりされている江上とだって、慎重に距離を置きながら勝手に片想いをしていただけだ。
かれこれ、十年近く恋愛関係とは無縁な日々を送ってきたんではないだろうか?
女盛りを仕事に捧げ、勢いで事務所まで立ち上げた。
遥子はクククと自嘲する。
恋愛………この、心が揺れるような気持ちは、恋なのだろうか?
昔好きだった男にそっくりだという理由で遠ざけてはきたが、似ていようがいまいが、土門駿平という年下の男の存在が自分の中で大きくなっていることは、もう無視は出来ないという自覚はある。
だが……。
彼が真っ直ぐに想いを寄せてくれている女が、実は、犯罪者のようなことが出来てしまう残酷な女だと知れたら……
遥子は両手で髪を後ろへかきあげ、固く目を閉じた。
もう二度と、何かを失うのも、傷つくのもご免なのだ。
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