第6話 はじまり
「……時田さん?どうかしましたか?」
長谷部に心配そうに声をかけられて、遥子は過去への回想から引き戻された。
「あ……ごめんなさい…」
遥子は苦笑いを浮かべ、白状する。
「昔のことを……長々と思い出してしまいました。こんな風に、長谷部さんに独立のご報告をする日がくるなんて、想像も出来なかったので……」
「たしかに……半年前に偶然お会いした時には、私もこんな嬉しい報告を受ける日が来るとは思いませんでしたよ」
長谷部は嬉しそうに笑った。
「でも、あの本屋で声をかけていただかなかったら、今日のご報告はなかったかもしれません、本当に。」
「おや、では私は“ エディットT”の創設のきっかけになれたのですね?」
新品の名刺をしげしげと眺めながら長谷部はやはり嬉しそうに笑った。
「もちろんです。ただ、創設などと言ってもらうにはまだあまりにもお粗末な状態ですけど。その名刺も、今日、長谷部さんにお渡しするのが初めてです」
「初めてを貰えるなんて、光栄ですよ。あ、うちは“ 光永 ”ですがね」
長谷部のオヤジギャグのような突然のジョークに、一瞬の間を開けて遥子は吹き出した。
なんだか無性に笑えた。久しく笑ってなかったかのように笑えた。
長谷部はそんな遥子につられて笑いながらも、安堵を込めて頷いた。
「よく、頑張りましたね。独立なんて、誰でも出来ることじゃない」
「あら!長谷部さんが勧めて下さったんじゃないですか!道端の石ころでも切っ掛けになるからって」
遥子は笑いながら、長谷部を睨む真似をした。
「んー、そうでしたか?私が焚き付けたんでしたっけ?」
とぼけた振りをする長谷部に遥子はまた吹き出した。
「なので、長谷部さんにも独立の片棒を担いで頂こうとご連絡させてもらいました」
「片棒を担ぐとは……穏やかではないですが、何をお手伝いすればいいですか?」
遥子はあらためて背筋を伸ばすと、話を始めた。
「独立といっても、一応立ち上げて申請を出しただけで、まだ人員も経理兼秘書的な人しか雇えてないんです。仕事が特殊なので、募集をかけてもなかなか適任者が居なくて……」
「どんな人員をお探しですか?」
遥子は、鞄からファイルを取り出し、色々なサイトや職安へ依頼している募集要項を長谷部に渡した。
編集者は速読が癖になっているせいで、長谷部は一瞬にして内容を読み取った。
「なるほど、編集者ですね。おそらく、校閲にも長けている方が良いと?」
遥子は流石と微笑む。
「そうなんです。もちろん主な編集は私がやりますけど、営業や交渉、その他諸々全部一人で出来るほど私は器用ではないので。それに……」
長谷部は先を促すようにプリントを手に首を傾けて遥子を見た。
「実は、独立と同時にライターにも挑戦してみようかと……」
長谷部は、遥子の遠慮がちな言葉に感心するように驚いた。
「凄いなぁ!いや、そうか。独立とはそういった挑戦も出来る選択肢が生まれるんですね」
「そんな大袈裟なことではないです。まだ海の物とも山の物ともわからないですから」
長谷部は、軽く腕を組みながら思案を始めた。
「そうですねぇ……心当たりがないわけでもないんですが……フリーのベテラン編集者の知り合いがいるにはいます」
「なんだか……紹介は難しい感じですか?」
遥子がニュアンスを察して聞くと、長谷部は苦笑いした。
「いえ、とても優秀な先輩なんですよ。ただ、ちょっとばかり気難しいというか、変わり者というか……」
遥子は黙って先を促した。
「とても腕が立つ職人気質の編集者で、そもそもは同じ社の先輩だったんです。ただ、組織の部品の1つとしてこき使われるが嫌だという理由で、 四年前に辞めてしまったんです。そこからはフリーランスで気ままに仕事してるそうなんですがね」
「そうなんですね、定職はなかなか難しいでしょうか?もちろん、フリーランスの方でも助かるには助かるんですが……ある程度軌道に乗るまでは一緒に頑張って頂ける方をと考えていまして」
長谷部は、ちょっと思案しながら小さく頷いた。
「少し、時間をもらえますか?いえ、そんなには掛けません。彼は、新しい事を始めたりすることに興味を抱くタイプなので、時田さんのように新しく立ち上げる為の協力要員なら乗ってくれるかもしれない。」
遥子は少し期待を込めて頭を下げた。
「よろしくお願いします!最小限の人数でのスタートになるので、会社組織のように堅苦しくしないつもりです。その代わり、最初のうちはあれやこれやと多業務になるかもしれません」
「何人でスタートされるつもりですか?」
「私を含め、今のところ四人でスタートしようかと。もちろん、あと一人望む人材が応募してくれれば、ですけど」
「時田さんが統括されるとして、秘書や経理の方はもういらっしゃって、ベテラン編集者と、あと一人はどんな人材を?」
遥子は少し考えながら、少しいたずらっぽく笑った。
「カメラが扱えて…編集の知識もあって…フットワークが軽い……まぁ、後は直感的に選ぼうかと」
長谷部は、ハハハと笑った。
「あと一人が1番難しそうですねぇ」
「私の直感、けっこう働くんですよ」
以前のような自信を取り戻しつつある遥子の快活さに、長谷部は内心、心底ホッとしていた。
あの当時苦しんだ人達の中で、遥子だけが歩みを止めていたことが気掛かりだった。
そして、いつの日か、彼女が本来の輝きを取り戻せたら……美月にも会わせてやりたいと思った。
「あの……もう一つだけ、お聞きしてもいいですか?」
全ての話が終わり、お互いに書類などを鞄に直した時に、遥子が少し控え目に口を開いた。
「はい、どうかしましたか?追加の要項がありますか?」
「あ、いえ……募集要項のことではないんですけど……」
さっきまでと打って変わった遥子の雰囲気に、長谷部は可笑しそうに笑った。
「何でもお答えしますよ。今、担当している作家の連載作の次週掲載内容以外は。」
相変わらずユーモラスな長谷部につられて笑いながらも、遥子は迷いながらポツリと聞いた。
「……美月ちゃん…元気ですか?」
長谷部は、遥子のその問い掛けに一瞬、真顔で彼女を見つめた。
適当に、さらりとかわすことも出来る問い掛けではあったが、長谷部は真っ向から受けることにした。
「元気ですよ。もちろん、江上先生も。ここ最近の二人の近況もお伝えしましょうか?」
ストレートでシンプルな長谷部の答えに、遥子も真っ直ぐに頷いた。
遥子の迷いの取れた様子に長谷部の表情も優しくなる。
「確か、11月に二人で軽井沢に引っ越すと聞いています。静かな環境で暮らしたいと結婚当初から二人で決めていたそうです。彼女はうちの委託社員として江上先生の専属の担当、校閲、編集を任せています。」
「そうですか。幸せなんですね、二人とも。」
そう囁くように言った遥子の顔はとても優しげだった。
「今は、たまにしか会えていませんが、彼女は相変わらず元気の塊ですし、江上先生はとても穏やかな良い顔をされています。」
おそらくは、遥子が一番聞きたかった答えを長谷部は口にした。
二人が幸せであること。
そして、何より、かつて愛した江上が幸せであることを。
遥子は、満足気に微笑みながら会釈をした。
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