第5話 罪と罰
結局は、七年もの長い片思いに破れただけのことなのだ。
恋人関係になることもない、ましてや男女の関係になったこともない、ただ一方的に愛していただけの七年間だったのだ。
だが、彼を救う為に心血を注いだ月日だった。
思い返せば、絶望して酔いつぶれていた彼を救いたいと思った時から、この片思いは始まっていたのかもしれない。
あの後、すぐに江上の担当を降り、後輩の編集者に無理やり押し付けた。
体調不良を理由に仕事も休みがちになり、酒と眠剤に頼らなければ眠れなくなった。
七年間の江上との日々を振り返っては酔って泣き、江上と美月のこれから始まるであろう幸福な時間を考えると、激しい痛みのような憎悪に襲われた。
その焼けるような憎悪は、日に日に遥子の心までも蝕んでいき……こんなに尽くしてきた自分が、こんな惨めな思いをして、あの二人だけが幸せになるなど、許せるはずがないと思うようになっていった。
どんな手を使ってでも二人の関係を、二人の幸せを壊したいとも。
それはとても危険な思考だったが、遥子の失恋も、心の状態も、誰一人知る者がいない現状では止めてくれる者もいなかった。
どうすれば二人を引き離せるか、どうすればこの惨めな思いを江上に思い知らせることが出来るか……もはやその妬けつくような感情は、二人への復讐にすり替わってしまっていた。
おそらくは、その時の遥子は心の病に侵されたが故の別人格だったのだろう。
遥子は七年前に本人から聞いた江上のドーピング事件の詳細を、記憶を頼りに思い起こした。
当時の、由希子というマネージャーが彼を陥れるために使用した違反薬物を調べ上げ、探し集め、手に入れた。
江上がドーピング事件をきっかけとして、薬の一切を受け付けなくなっていたことは遥子が誰よりも知っていた。
それこそ市販の風邪薬、頭痛薬ですら遠ざけていた。
一種の精神的トラウマだったのだろう、ビタミン剤ですらその体調に変調をきたす様な体になってしまっていた。
それらの事情全てを知った上で、遥子はその薬を使って二人に復讐する計画を立てたのだ。
完璧な仮面を被り、それらの薬を手に、遥子は江上ではなく、美月に会いに行った。
まず、彼女にそれまでの失礼を丁寧に詫びた。
そして江上とのパートナーとしての関係を解消し、自らの彼への想いを諦め、全ての舞台から降りることを決心したことを告げた。
そして、江上の事は美月に託すと告げた。
素直で心優しい美月は、遥子の突然の告白に当然動揺し、戸惑い、到底受け入れられる状態ではなかった。
むしろ美月も悩んでいた。
自分の江上への押し殺している想いが実は、江上と遥子二人の気まずさになってしまっているのではないかと。
自分の存在自体が遥子を苦しめてしまっているのではないかと。
遥子は、内心「その通りよ」と苦々しく呟きながらも、ニッコリ微笑んで美月を説得にかかった。
江上が本当に必要としているのは、私ではなく貴女なのだと。
それがはっきりとわかったから、こうして二人で話をする決心がついたのだと。
美月だから、彼を任せられるのだと。
これからは、貴女が江上に寄り添い、彼を守っていってほしいと。
純粋な美月は、遥子の発した“ 守る ”という言葉に敏感に反応した。
それこそが、遥子の最大の狙いだった。
遥子は、出会った当時の江上の体調や精神状態、立ち直った今も尚続く体調不良の原因を、有ること無いことを並べ立て、丁寧に説明をした。
そして、長年に渡り、密かにその体調管理をしてきたのも、自分だったのだという噓をでっち上げた。
江上を純粋に想い、彼の為ならどんなことも
遥子は、かつて江上に地獄を見せた数種類の薬の入ったポーチを美月に渡した。
そして、各々のピルケースの使用方法を丁寧に説明する。
徹夜明けには、この粉末ビタミン剤をスープなどで。
偏頭痛を起こしたら、この薬をコーヒーで。
書き続けることからくる目の疲れや肩凝りには、この錠剤を細かく砕いてミキサーで作るジュースなどで。
当然ながら、どれも真っ赤な嘘だった。
こんな子供だましの様な作り話で騙せるのか?
色々なことを疑ってかかる人間なら、すぐにばれるような嘘だ。
だが、遥子には確信があった。美月なら、疑わないであろうと。
なぜなら、彼女は私に負い目があるからだ。
自分が江上を奪ってしまったのではないか?と。
自分のせいで私を深く傷つけてしまったんではないか?と。
だから、この告白を疑わないと確信が持てたのだ。
迷いながら、戸惑いながら、遥子から渡されたポーチを鞄に大切にしまい、すまなさそうな、どこか泣きそうな顔でペコリと頭を下げて去っていく美月の背中を、能面のような無表情な顔で見送る遥子だった。
それから1ヶ月後……
遥子の放った罠は、功を奏したのだと、美月本人から知らされることとなった。
光永出版の名前で面会を申し込み、美月は自分を訪ねて会社にやって来た。
青ざめたというより、血の気の失せた青白い顔で、彼女は立っていた。
その眼は泣き腫らしたように虚ろで、自分の知る美月とは全くの別人だった。
「遥子さん……貴女の望んだ通りになりましたよ。私は、二度と江上先生とお会いすることはないでしょう。これで、満足ですか?」
美月は怒りを抑え込んだ低い声で、そう言った。
彼女の澄んだ瞳で真っ直ぐに睨むように見つめられて、遥子は思わず美月から目を逸らした。
こうなる為に、この結果を得る為に仕向けた罠だったのに、何故か胃が締め付けられるようにキリキリと痛んだ。
「……そう。残念だったわね……」
美月を見ることなくぼそぼそと答えた遥子だったが、次の瞬間、予想だにしなかったことに襲われた。
つかつかと詰め寄ってきた美月に、頬を力一杯引っ叩かれた。
余りにも突然の衝撃に、遥子は大きくよろめき近くにあったソファに倒れるようにつかまった。
呆然とする遥子に美月は尚も激しい怒りを泣きながら訴えた。
「どうして!?どうして、江上先生にあんな酷いことを!!彼の一番辛い時を知っていて……貴女が支えてきたはずなのに……」
美月はふたたび遥子に詰め寄り、上着を両手で掴んだ。
「どうして私じゃなかったんですか!?貴女が憎いのは私でしょう!?貴女は江上先生を愛しているんでしょう!?ならば、私に毒でもなんでも飲ませればよかったじゃないですか!!どうして……あの人に過去を思い出させるようなあんなことを!?」
しゃくりあげながら、ぼろぼろとこぼれ落ちる涙を拭うこともせずに美月は続ける。
「遥子さん!!お願いですから!お願いだから……本当の遥子さんに戻って……こんなの遥子さんじゃない……」
最後は懇願するように、遥子の胸に泣き崩れた美月だった。
遥子は、美月を抱きしめた。
わかっていた。
初めから、わかっていた。
こんな風に私に騙されても尚、一番に江上を想い、私を想うこの娘は、真っ直ぐな娘だ。
純粋で優しい娘だ。
だから、彼もこの娘を選んだのだ。
だから、彼はこの娘を愛したのだ。
遥子は痛みに泣いた。
それが美月に叩かれた頬の痛みなのか、ずっと抱えてきた心の痛みなのか……
「美月ちゃん……ごめんね……ごめんね……」
遥子は小柄な美月を抱きしめながら、声をあげて泣いた。
ずっと、ずっと、こんな風に誰かの前で泣きたかったのかもしれない。
そのプライドの高さ故、弱音は吐けず、沢山の事を呑み込む癖がついていた。我慢する分、許し認めることが出来なくなっていたのかもしれない。
そして、我を失い、一番大切なものを傷つけ陥れた。
もはやこれは犯罪であり、私は犯罪者になり下がったのだ。
いっそのこと、江上なり、美月なりが警察にでも訴えてくれれば、私は罪を償えたかもしれない。
実際に毒を盛ったわけでは無いにしても、彼を追い込む為の薬物ならば……それはやはり犯罪なのだから。
にも拘らず、誰ひとり私を訴える人はいなかったのだ。
美月においては、私に騙されたことも薬を渡されたことですら、誰にも言わずに、江上の前から姿を消したと……後に江上本人から聞かされた。
当の江上ですら、全てのあらましを説明して謝罪に行ったが、悲しそうな淋しそうな眼で見るだけで責める言葉は一言も発しなかった。
最後に彼が口にした言葉……
「残念だよ……」
それが“さよなら”だったのかもしれない。
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