第4話  心壊れて


彼を絶望から救いたい……

なぜそう思ったのかは追求しないまま、思いつきのような言葉で江上を仕事に誘っていた。

特別、案があったわけでもなく、企画を立ち上げたわけでもなく、気が付いたらいつもの如く走り出していた。


まず、ペンを持たせてみた。

その日、その時の時事ネタに対する感想や意見をノートに書かせてみた。

時には政治、時には事故や事件。

スポーツ関連のニュースに対しての彼の個人的な見解。

ある意味、バスケットしかしてこなかった彼にとって、自分の見解や意見、感想を文字に表すことはとても新鮮であり、毎日時間をもて余していたが故にあっという間にはまりこんだ。

そして、何よりも遥子を驚かせたのは、江上に思わぬ文才があったことだった。

彼がこれまで受けてきた苦難のせいなのか、その文章はオブラートに包まれること無く、ストレートに物事の本質を独自の見解で射貫くようなダイナミックさがあった。

このまま埋もれさせるべきではないと判断した遥子は、スポーツ雑誌の編集部に掛け合い、小さなコラムを設けてもらった。

一旦はオリンピック選手候補にまで登り詰めた彼のスポーツに対する知識はとても豊富で、トレーニング方法や体の作り方など、読者からの質問にも的確な答えを導いた。

時に寄せられる甘い考え方などには断罪するような厳しい意見を返すことで、読み手に好き嫌いは生まれたが、全体的には受け入れられた。


江上が媒体に出るようになると、遥子は細心の注意を払った。

事件から一年以上経っていたとしても、彼がかつての“ 堕ちたプリンス ”だと知れれば、またマスコミの餌食になる可能性は大だ。

素性を知られないように架空の人物を作り上げ、ペンネームも持たせた。

担当も遥子が一手に引き受け、誰も江上に近づけなかった。

二人がBar で出会って半年後、二人の関係は原稿を書く者とそれを編集する者として、新たなスタートを切った。


「ねぇ、小説に挑戦する気はない?」

コラム連載も定着し、そこそこ安定した人気も出た頃、遥子がそう提案したのは、二人が仕事のパートナーを組んで一年半経った時だった。

江上の自宅に専用の仕事場を設け、原稿作成や打ち合わせ、編集作業ももっぱらここで詰めてやっていた。

「小説か……。こんな素人が踏み込めるような世界じゃないだろ?」

「何を仰いますやら!」

遥子は、笑いを噛み殺しながら

「今や、立派なコラムニストじゃないの!」

「興味は、あるよ。物を書くということに、これ程自分が打ち込めるとは想像もしていなかったからね」

向かい合ったソファの向こうから、髪をかきあげながら、少し照れくさそうにくしゃっと笑う江上に、遥子は胸を踊らせた。

あのカウンターの隅で絶望していた男とはまるで別人だ。

なかなかの男前で、男気に溢れ、ユーモアのセンスも心地よい。

本来の江上龍也という男性に、遥子はいつの間にか魅せられていた。

彼の文才の高さや、いつか有名作家を育て上げたいという編集者としての野望も、彼と共に歩くことで叶えられるような気がしていた。

色々な意味を含めて遥子は江上にぞっこんだった。


自分でやると決めたことは、なにがなんでもやり抜く。

その為に必要なことなら決して手を抜かずどんな努力をしてでも身に付ける。江上という男はそういう男だった。

もちろん遥子の全面的な協力と指導が無ければ道は拓けなかったが、それでも彼女の重荷にはならぬよう、物を書く時の文脈や言葉の羅列方法、表現力を学び、多くの他の作品を読み漁り、寝る間も惜しんで書くことを習得した。


かつて、遥子は言った。

「貴方を騙し、陥れ、絶望まで追い込んだ全ての人を見返してやればいい。その当時の事を蒸し返して犯人捜しをしてもバスケット界には戻れないのなら……新たな世界で成功すればいいわ。」

江上は、遥子の後押しを受け、彼女との二人三脚で、出会ってから三年の後、その成功を掴みとったのだ。


遥子は、江上を心底愛していた。

彼が全てを失う原因が「由希子 」という女性だったことを配慮して、作家と編集者というパートナーに徹してはきたが、その想いはいつか彼が過去を絶ちきれた時に叶うものだと信じていた。

そう、砂原美月……彼女が現れるまでは。


江上の処女作は、中学生の野球部少年3人の高校進学までのそれぞれの成長を描く群像劇で、細かい心の葛藤や友情、それぞれの選ぶ進路の行方を丁寧に書き上げた作品だった。

ベストセラーとまではいかなかったがかなりの高評価作品として話題になり、売れた。

他の出版社からの連載希望や、出版依頼が来始め、遥子のマネージメント的な戦略も功を奏して、江上は新進気鋭の作家としてその地位を確立していった。

小説家としてのデビューは、「 江上龍也 」 本名でいくと本人の意思で決めた。

それでも遥子は細心の注意を払い、人気コラムニストが本名で作家デビューをする、という方向性での宣伝に徹底した。

だが、遥子の心配をよそに、あの事件から三年以上の月日が流れた世間からは“ 堕ちたプリンス ”の異名も忘れ去られ、もう彼の遠い昔の過去をほじくり返されるようなことも無かった。

むしろ、人気コラムニストが人気作家として成功をおさめたことを雑誌で取り上げられることもあったが、マスコミ嫌いな体質は当時のままの江上が、一切の関心を示すことはなかった。


光永出版との新たな連載が決まり、当時の江上担当編集者であった長谷部が、砂原美月を連れて現れたのはその二年後だった。

女性嫌いで通っていた江上が、長谷部に頼み込まれて、美月を編集アシスタントとして受け入れた。

出版社に作家の個人的アシスタントを依頼する、それ自体が異例でもあった。


澄んだ眼差しの小さな娘だった。

元気の塊のような、ひた向きで真っ直ぐな娘だった。

長谷部の元、編集者見習いになって二年目のまだ何も知らない娘だった。

仕事では、気難しく容赦無しの江上にはね除けられても、叱り飛ばされても、諦めず喰い下がりながら頑張り抜く娘だった。

自分にも尊敬の念と真っ直ぐな憧れを持って懐いてくれていた。

今時珍しいほど純粋な娘だった。

遥子にとっても、妹のように可愛がっていた娘だったのだ。


だが……最初から違和感があった。

あれ程仕事で女性と組むことを嫌がっていた彼が、なぜ美月をアシスタントとして手元に置いたのか?

そのくせ、なぜ美月にだけ異常なほど厳しく接していたのか?

時に、感情的なまでに厳しく、自分が間に入って彼女を庇うことも何度かあった。

後になって思えば、無意識に美月に惹かれることを避ける為だったのかもしれない。

だが、それでも頑張り続ける美月を見るその江上の眼差しが、次第に変わっていったことが、じわじわ遥子を追い詰めていった。

愛おしむような、包み込むような……それはこの七年間、只の一度も見せたことのない、遥子の知らない江上の一面だったのだ。


おそらくそれは、生まれて初めての嫉妬だった。

モデルのような体型と美しさを持ち合わせた遥子だったが、その容姿が想像させるような派手な恋愛とは無縁だった。

特にこの業界に入ってからは恋愛をする暇もないくらい仕事に没頭してきたのだ。

そして、江上に出会ってからは仕事のパートナーに徹しながらも、ずっと彼を愛してきた。

仕事上の困難なら、乗り越えられる経験値はある。少々のトラブルだって何てことはない。

だが、自分の乱れる感情を律することが出来ない自分に混乱した。

どんどん美月に惹かれていく江上を見ているのがどうしようもなく辛かった。

自分には決して見せたことのなかった彼の男性としての感情を目の当たりにするのがとても嫌だった。

動揺、苛立ち、混乱、嫌悪……生まれて初めて抱く感情に、遥子は身を焼き尽くし、心を蝕んでいった。


江上と美月の間にどんな事があったのかは、わからない。

二人の間に自分の知らない、知るよしもない時間が流れていたのだろう。

ある時期から急に二人の間の空気感が変わった。

まず、あれだけピリピリ神経質に江上の顔色を伺いながら必死に仕事をしていた美月が、本来の明るさと元気を取り戻した。と同時に、美月を見る江上の表情が穏やかに優しくなった。

それは決して自分には向けたことのない優しさだったことが、遥子の気持ちを余計に逆撫でした。


そして、的は美月に向いた。

彼女が何かをしたわけではないし、どちらかといえば、江上の方から美月に対して感情が動いたのだとも思う。

だが、理屈ではなかった。

女の敵は女なのだ。

例えば、自分の彼氏や夫が浮気をするとする。そうすると恨みが向くのは浮気をした彼氏ではなく、その相手の女に向くのだ。

その女が彼氏、夫をたぶらかしたに違いないと、思い込む。

誘惑に負けた男も悪いが、1番悪いのは、誘惑した女だ……これは女性特有の感情論なのかもしれない。


江上邸で自分と会うと、顔を綻ばせて満面の笑顔で迎えてくれた美月への態度が変わった。

ぎこちなく、他人行儀になった。

なんなら嫌味で冷たい言葉も投げた。

自分の態度や言葉によって美月の笑顔がぎこちなく失われていく度に、自己嫌悪に陥り江上邸を後にすることが増えた。


そしてある雪の日、決定的な2人を目にした。

庭の東屋の下で江上が美月を後ろからマントで包み込むように抱きしめながら雪を見上げていた2人。

まるで恋人同士のように寄り添う2人の姿に……不覚にも遥子の頬を涙がつたった。

もう、江上の心を手に入れることは出来ないんだと思い知らされて、泣けてきた。

そのまま、潔く引き下がればよかったのだ。どうせ、手に入らないのだから、あっさり諦めてしまえばよかったのだ。

なのに、遥子はその報われない感情にしがみついてしまった。

そして、自らの首を自らで締めてしまったのだ。

執拗に江上にまとわりつき、仕事でもないのに、わざと美月が来ているだろう日に訪れて江上を食事に誘ったりした。

江上に予定がある時は、誰との約束かを異常なまでに追求して困らせた。

ある時は、江上の前でわざと美月のミスを指摘したり、編集者としての未熟さを手厳しく非難することすらあった。

全てが遥子らしからぬ行動であることは、彼女を知る者には明白であった。

そして、そんな風に彼女が彼女らしさを失い、その影響が美月にまで及び出したことに、ある日江上が心を決めた。

2人はあらためて向き合ったのだ。

それは遥子にとってなおさら残酷な時間となった。


「君の様子がおかしいのは気付いていたけど、僕にどうしてほしいんだい?」

江上のストレートな問いかけに、遥子も腹を括った。

「正直に言うと、嫌なのよ、貴方と私の間に誰かが入るのが。美月ちゃん……貴方の気持ちが彼女に向くことが嫌なの。」

遥子の告白は簡潔で正直だった。

「……君とは七年もの付き合いになるが、いつの間にかお互いの存在価値がズレてしまったようだ…」

「存在価値の……ズレですって?貴方にとって……私は一体何だったの?」

「君に出会えなければ、今の僕は存在しないし、この七年間の君への感謝は、言葉では言い尽くせない程だよ…」

江上は、初めて言葉を慎重に選びながら答えた。

「一言で表すのは、とても難しいが……敢えて言うなら、“ 同士 ”もしくは “ 親友 ”が相応しいかもしれない。」

「同志に、親友ですって?……私は……女よ?」

遥子の声がどうしようもなく震えた。

江上は少し辛そうな眼差しで遥子を見た。

「……僕は、君をひとりの女性として見たことはなかったんだ。」

1番知りたかった答えなのに、遥子にはこの上なく残酷な言葉だった。

その美しい顔はどんどん青ざめ、手足の感覚が無くなるような冷たさに襲われる。

「私の気持ちに……一度も気付いたことはなかったの?」

「……いや、気付かない振りをしていたのかもしれない…」

江上の眼差しは辛さを増した。

だが、決して逸らすことなく、遥子を真っ直ぐ見つめる。

「…すまなかった……」


「謝ったりしないで!!」

それは悲痛な叫びだった。

愛している人に謝られるほど惨めなことはなかった。

何かを言おうにも口唇がわなないてしまう。

甘かった。

彼とちゃんと向きって答えが聞ければ、今度こそ諦めがつくだろうとたかを括っていた。

まさか、これほどのショックを受けるとは。

決して泣きたくはなかった。

江上の前では絶対に泣くまいと決めていた。

なのにどうしようもなく泣けてきた。


溢れる涙に遥子は益々混乱し、立ち上がると感情に任せて吐き捨てた。

「私は貴方を“ 同士 ”とも“ 親友 ”とも思ったことはないし、これからも思わない!存在価値がズレていると言うのなら、貴方とはもうパートナーではいられないわ。二度と貴方と仕事をするつもりもない。おそらく私は……私は……貴方を許さないわ !」

最後まで、「 愛している」とも、「愛して欲しかった」とも、言えない遥子だった。

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