片鱗と逆鱗 -κ
禍津や蚩尤すら、険しい表情を露わにしている。シーナは恐る恐る禍津の腕の中から顔を出し、目の前の光景に言葉を失った。
ふつふつとマグマ湧く溶岩大地を、丸い塊が転がっていく。否、走っているのだ。遠くからでは、それは大柄な熊のようにも、巨大な蜘蛛のようにも見えた。その塊の通った後に、点々と跡が残る。
それが何であるか、理解した時、シーナは
心の臓が、乱れ打つ。脳が鈍く痛む。奈落を覗き込んだような、そんな眩暈さえ覚えた。
「なんてことを……」
隣から、くくく、と小さく嗤う声が聞こえる。イブリースのものだ。
彼は肩を震わせてひとしきり哄笑した後、瞬きなど忘れてしまったかのように、眼下に繰り広げられるその行為を、その澄んだ青の瞳で
「奴ら……死体をばら撒いていやがる!」
それはまるで堆肥の如く乱雑に地に蒔かれていた。馬車に引かれた荷車から次々に落とされるのは、死体だった。人間や獣の一部が切断されたものだ。
肚に力を込める。そうでもしないと、よろよろと崩れていってしまいそうだった。あまりにも心のない、
「匂いにつられて魔物がやって来るぞ」
イブリースの
これが悪魔の性か。それとも、菩薩も悪魔も、紙一重というだけなのか。
「ねえ、あそこ! フェンリルだわ!」
シーナが声を抑えて叫んだ。
皆の視線の先を、
「あーあ。血の気が多いってヤだねぇ」
オルクスが肩を竦める。
「邪気を焚いた魔獣の毛皮を被っていたんだね。だからこんな奥深くまで入って来れたんだ」
イブリースが地図を広げた。薄らと口角が上がっている。彼も
「わざわざ? 餌やりの為に?」
「ただの餌やりではないのだろうね」
「餌には大量の毒がぶち込まれてるぜ」
「ゼド!」
背後から現れたゼド。ナイフを手にしたまま額の汗を拭う彼からは、微かに血の香りがした。フェンリルの傍に彼の姿が見えないことに不安を覚えていたシーナは、ほっと息を
「何があった」
「天使様がお越しだ。ヘヴンは人手不足か?」
「一戦交えたのか」
禍津が訊くと、ゼドはかぶりを振り、「人間の小隊と戦っただけだ」と、ナイフを濡らす血を拭った。そして彼はシーナの方をちらと見ると、「殺してはいない」とだけ告げる。
フェンリルの遠吠えが、風を突き破って聞こえてくる。
「……フェンリルが言うには、あの死体の腹も薬でぱんぱんに膨れているんだと」
「はっ。きな臭くなってきやがった」
オルクスがシガーを咥える。
「帰還どころじゃねえな。嬢ちゃんには悪いが、こうなりゃ好き勝手させてもらうぜ」
「いや。可能な限り、この子の帰還作戦は続行する」
「何か策でもあるのか、イブ」
「残念なことに、まだ特にこれといったものはない」
「ははっ、こりゃ愉快だ」
オルクスが口の
フェンリルをここに呼ぶよう、イブリースがゼドに言う。ゼドが指笛を吹く。
その音に反応したフェンリルが、大きな前足で押さえていた人間を一人、弾みでぷちっと押し潰した。
「一人だけ連れ帰って来いって伝えろ」
オルクスがゼドに言うと、ゼドが三度指笛を吹いた。
獣姿のフェンリルは驚くほど身軽だった。人間を咥えたまま、遠くの場所から、彼の美しい虹彩がわかるほど近くにまで、ほんの数歩で来ることができた。彼が起こした強い旋風で、シーナの身体は簡単に吹き飛びそうになる。禍津が胸の中にシーナを閉じ込め、それをまた防いでくれた。
「さて」
イブリースが
「観劇といこうじゃないか」
「酒が欲しくなるぜ」
オルクスがワイングラスを回す真似をしてみせた。
「おや、言ったそばから。もう開幕のようだよ」
地が動いた。まるで大きな生き物の腹の中に投げ込まれたかのような感覚だ。彼方より迫って来た幾重もの
シーナは禍津の着物の
「──来た」
心腑が抉れるような、酷い咆哮が耳を劈く。
魔物の大群が、荷車
カラフルな花火が散っているようだった。
魔獣が餌にかぶりつく。一心不乱に
飢えが満たされると、闘争の本能を思い出したかのように、獣同士の殺し合いが始まった。なかには、邪神や悪魔もいる。闘いに
腐敗の匂いがする。
「これは見事だ」
静かだ。不気味なほどの静寂が訪れていた。
彼は、
「なんだ、あれは」
蚩尤が眉を
がだがだがだがだ。建物らしき大きな物体がこちらに向かってくる。外壁は深い鼠色一色に塗られており、窓や入り口などは見受けられない。建物の下には太いベルトが三本回っており、車輪のような役割を果たしていた。ベルトが回転することで、荒く
建物が死体の山の裾まで来る。固唾を飲んで、皆が見守る中、建物の壁が傾き、がぱりと屋根が開く。屋根の内側は鉄鋼の鉤爪の形をしていた。
「まさか」
巨大な鉤爪が死骸を鷲掴みにすると、そのまま持ち上げ、建物の中に落とした。
掴んでは入れ、掴んでは入れる。その繰り返し。
手で口を抑え、シーナは思考を働かせることに集中した。
夜陰に乗じてことを起こしているとは言え、随分大胆だ。ヘヴンからの来訪者は死んだ魔物を回収して一体どうするのだろうか。ふと、シーナは以前イブリースが口にしていたことを思い出した。
『影があるから光があるように、悪があるから善がある。その象徴である私達は、そもそも不可分なのさ』
そして、こうも言っていた。
『世界が鼓動し続ける為には、正気と邪気を注がねばならないんだ』
善と悪、
だとしても、何になるというのだ。
「心臓……」
独り
頭を過ったのは、ゼドが持ち出した例え話だ。
『身体から心臓を取り出して、まともに鼓動できるわけがない。いくら心臓を必死に守っても、身体が痛めつけられてちゃあ本末転倒さ』
てっきりゼドは例え話をしたのだとばかり思っていたが、もしこれが例えでなかったとしたら。ヘヴンを心臓、インフェルノを身体と捉えたならば、正気と邪気を注がねばならないのは、間違いなくヘヴンだ。となると、彼らの目的は。
「邪気の回収?」
「ほう」
イブリースが薄く微笑む。
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