片鱗と逆鱗 -κ

 禍津や蚩尤すら、険しい表情を露わにしている。シーナは恐る恐る禍津の腕の中から顔を出し、目の前の光景に言葉を失った。

 ふつふつとマグマ湧く溶岩大地を、丸い塊が転がっていく。否、走っているのだ。遠くからでは、それは大柄な熊のようにも、巨大な蜘蛛のようにも見えた。その塊の通った後に、点々と跡が残る。

 それが何であるか、理解した時、シーナは戦慄せんりつした。

 心の臓が、乱れ打つ。脳が鈍く痛む。奈落を覗き込んだような、そんな眩暈さえ覚えた。


「なんてことを……」


 隣から、くくく、と小さく嗤う声が聞こえる。イブリースのものだ。

 彼は肩を震わせてひとしきり哄笑した後、瞬きなど忘れてしまったかのように、眼下に繰り広げられるその行為を、その澄んだ青の瞳で見据みすえた。


「奴ら……死体をばら撒いていやがる!」


 それはまるで堆肥の如く乱雑に地に蒔かれていた。馬車に引かれた荷車から次々に落とされるのは、死体だった。人間や獣の一部が切断されたものだ。

 肚に力を込める。そうでもしないと、よろよろと崩れていってしまいそうだった。あまりにも心のない、むごたらしい仕打ちである。


「匂いにつられて魔物がやって来るぞ」


 イブリースの恬淡ていたんとした様子が寧ろ、ひどく恐ろしかった。彼の優しげな風貌の奥底には、冷酷な本性があることを知っている。美しい華と霞に隠れた深い沼には、冷たく恐ろしい知性が横たわり、根を張り、彼という世界の隅々にまで水を張り巡らせている。

 これが悪魔の性か。それとも、菩薩も悪魔も、紙一重というだけなのか。


「ねえ、あそこ! フェンリルだわ!」


 シーナが声を抑えて叫んだ。


 皆の視線の先を、いきり立ったフェンリルが一直線に驀進ばくしんしていく。地を這うような低い遠吠えが聞こえた。兇猛きょうもうたる彼は、その巨躯で馬車ごと荷車をぎ倒す。荷車を覆っていた粗筵あらむしろが取れた。それと同時に人間が三人、馬車から転げ落ちる。吠えるフェンリルを見た彼らは、腰の抜けた一人と乗り物を捨てて一目散に逃げ出した。


「あーあ。血の気が多いってヤだねぇ」


 オルクスが肩を竦める。


「邪気を焚いた魔獣の毛皮を被っていたんだね。だからこんな奥深くまで入って来れたんだ」


 イブリースが地図を広げた。薄らと口角が上がっている。彼も昂奮こうふんしているのだ。


「わざわざ? 餌やりの為に?」

「ただの餌やりではないのだろうね」

「餌には大量の毒がぶち込まれてるぜ」

「ゼド!」


 背後から現れたゼド。ナイフを手にしたまま額の汗を拭う彼からは、微かに血の香りがした。フェンリルの傍に彼の姿が見えないことに不安を覚えていたシーナは、ほっと息をく。


「何があった」

「天使様がお越しだ。ヘヴンは人手不足か?」

「一戦交えたのか」


 禍津が訊くと、ゼドはかぶりを振り、「人間の小隊と戦っただけだ」と、ナイフを濡らす血を拭った。そして彼はシーナの方をちらと見ると、「殺してはいない」とだけ告げる。

 フェンリルの遠吠えが、風を突き破って聞こえてくる。


「……フェンリルが言うには、あの死体の腹も薬でぱんぱんに膨れているんだと」 

「はっ。きな臭くなってきやがった」


 オルクスがシガーを咥える。


「帰還どころじゃねえな。嬢ちゃんには悪いが、こうなりゃ好き勝手させてもらうぜ」

「いや。可能な限り、この子の帰還作戦は続行する」

「何か策でもあるのか、イブ」

「残念なことに、まだ特にこれといったものはない」

「ははっ、こりゃ愉快だ」


 オルクスが口のを持ち上げた。燻らす紫煙を透かして、彼は墨黒の大地を見る。イブリースは軽い掣肘などで止まる男ではない。

 厭離えんりしてやまぬ穢土えどを踏む人間がいる。愉快でたまらない。屍肉を膾切なますぎりにしてばら撒く痴態ちたいが、愛おしくて仕方がない。綺麗事とむつみあう人間が腐り、取るに足らない中身があけすけになった時、オルクスは喜びに震えた。死骸からまろび出た汚い内臓を見た時よりも、喪心そうしんした人間の阿呆面を見た時よりも、生きる為に同族をなぶり殺す狂気に触れた時などよりもずっと、嬉しくなる。ああ、こいつらも生きているのだ、と。

 フェンリルをここに呼ぶよう、イブリースがゼドに言う。ゼドが指笛を吹く。

 その音に反応したフェンリルが、大きな前足で押さえていた人間を一人、弾みでぷちっと押し潰した。


「一人だけ連れ帰って来いって伝えろ」


 オルクスがゼドに言うと、ゼドが三度指笛を吹いた。

 獣姿のフェンリルは驚くほど身軽だった。人間を咥えたまま、遠くの場所から、彼の美しい虹彩がわかるほど近くにまで、ほんの数歩で来ることができた。彼が起こした強い旋風で、シーナの身体は簡単に吹き飛びそうになる。禍津が胸の中にシーナを閉じ込め、それをまた防いでくれた。


「さて」


 イブリースがさかしらに倒れた馬車を指差す。


「観劇といこうじゃないか」

「酒が欲しくなるぜ」


 オルクスがワイングラスを回す真似をしてみせた。そなえた色気が溢れ出るような仕草だった。


「おや、言ったそばから。もう開幕のようだよ」


 地が動いた。まるで大きな生き物の腹の中に投げ込まれたかのような感覚だ。彼方より迫って来た幾重ものさざなみが、足下を潜っているかのようだった。それは段々と波となり、波濤はとうとなり、荒波となった。

 さらわれる。

 シーナは禍津の着物のあわせを強く握った。


「──来た」


 心腑が抉れるような、酷い咆哮が耳を劈く。

 魔物の大群が、荷車諸共もろとも大地を喰らった。何度聞いても聞き慣れぬ、総毛立つ鳴声が入り乱れ、嫌な音が混ざりあう。

 カラフルな花火が散っているようだった。

 魔獣が餌にかぶりつく。一心不乱にむさぼっている。

 飢えが満たされると、闘争の本能を思い出したかのように、獣同士の殺し合いが始まった。なかには、邪神や悪魔もいる。闘いにたおれる者だけではない。毒が全身に巡ったのか、血を吐いて事切れる者もいた。見る間に、平野を埋め尽くす死体の山ができた。

 腐敗の匂いがする。せるほどの、強烈な匂いだ。それが死臭なのか、情緒からくる感覚なのか、わからなかった。


「これは見事だ」


 静かだ。不気味なほどの静寂が訪れていた。

 おぞましい情景にそぐわぬ軽やかな物言いで、イブリースが呟いた。

 彼は、同胞はらからの死をどう思っているのだろう。


「なんだ、あれは」


 蚩尤が眉をひそめた。

 がだがだがだがだ。建物らしき大きな物体がこちらに向かってくる。外壁は深い鼠色一色に塗られており、窓や入り口などは見受けられない。建物の下には太いベルトが三本回っており、車輪のような役割を果たしていた。ベルトが回転することで、荒く急峻きゅうしゅんな地面でも難なく大きな建物を動かしているようだった。

 遼遠りょうえんからでも、それが何か不吉なものであることは明白であった。胸の奥の芥蔕かいたいが疼く。溶けた蝋が落ちて積もっていくように、静かに、しかし確実に、それはシーナの中で存在感をあらわしてきている。

 建物が死体の山の裾まで来る。固唾を飲んで、皆が見守る中、建物の壁が傾き、がぱりと屋根が開く。屋根の内側は鉄鋼の鉤爪の形をしていた。


「まさか」


 巨大な鉤爪が死骸を鷲掴みにすると、そのまま持ち上げ、建物の中に落とした。

 掴んでは入れ、掴んでは入れる。その繰り返し。

 手で口を抑え、シーナは思考を働かせることに集中した。

 夜陰に乗じてことを起こしているとは言え、随分大胆だ。ヘヴンからの来訪者は死んだ魔物を回収して一体どうするのだろうか。ふと、シーナは以前イブリースが口にしていたことを思い出した。

『影があるから光があるように、悪があるから善がある。その象徴である私達は、そもそも不可分なのさ』

 そして、こうも言っていた。

『世界が鼓動し続ける為には、正気と邪気を注がねばならないんだ』

 善と悪、すなわち正気と邪気によって、この世界が保たれているとしたら。

 だとしても、何になるというのだ。


「心臓……」


 独りちたシーナを、イブリースがちらと見た。

 頭を過ったのは、ゼドが持ち出した例え話だ。

『身体から心臓を取り出して、まともに鼓動できるわけがない。いくら心臓を必死に守っても、身体が痛めつけられてちゃあ本末転倒さ』

 てっきりゼドは例え話をしたのだとばかり思っていたが、もしこれがでなかったとしたら。ヘヴンを心臓、インフェルノを身体と捉えたならば、正気と邪気を注がねばならないのは、間違いなくヘヴンだ。となると、彼らの目的は。


「邪気の回収?」


 胸裡きょうりに芽生えた考えが、口をついて出た。


「ほう」


 イブリースが薄く微笑む。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る