片鱗と逆鱗 -δ
「役に立てたかしら?」
「多少な」
「私の記憶力、結構すごいでしょ」
ふふん、とシーナがご機嫌で鼻を鳴らしてみせる。
「調子に乗るな、
「もうちょっと褒めてくれてもいいじゃない」
「甘やかさない教育方針なんでね」
冗談を交わす二人の背中を眺めながら、フェンリルはソファに横たわった。以前は横になっても余裕のあったソファが、少しきつくなった気がする。
「……気のせいか」
ちょうどいい体勢を探して幾度か身体の位置を変え、フェンリルはまた、彼らのやりとりをぼんやりと眺めた。生き生きとした表情で、シーナがゼドに言葉を返している。ゼドも、なにやら嬉しさを滲ませ、彼女を
フェンリルの
ヘヴンは、
この構造は、神を崇拝する人間達の信仰心から作られたのか、理想的な社会を構築する手段として用いられたのか。それは定かではない。がしかし、この理想的外形は、
「客人が到着したようだな」
ゼドが
ゼドの瞳の瞳孔は、紅玉をナイフで裂いたようだった。今にもどろりと
ほんの数秒空けて、草を踏みしめる音、玄関が開く音、木製の廊下が軋む音が近付いた。最後に、部屋の扉が雑に開かれる。
「やっほー」
顔を覗かせたのは。
「ア、アミィ!?」
驚いたシーナが、素っ頓狂な声を上げた。
「あれ、僕の名前知ってくれてるの? 嬉しいなあ」
「嘘を言え」
フェンリルが頬杖をついて、つまらなそうな口調で口を挟んだ。
「改めまして、僕はアミィ。炎の悪魔だ」
甘いマスクに、
アミィはシーナに近づきながら、手を差し出す。
「は、はじめまして」
シーナが
「お前を呼んだ覚えはない」
棘を含むも、淡々とした物言いのゼド。そんな彼の様子が面白くないのか、アミィは困ったように眉尻を下げた。
ばちばちとアミィの掌の上で、火の粉が弾け、白い
「遊び相手が欲しいなら、帰ってママの乳でもしゃぶってきな」
吠えるフェンリルを鼻で笑って、アミィは首を振る。
「やだな。僕はいつだって遊び半分で生きているんだよ」
貼り付けた笑顔を、アミィはゼドへと向けた。糸のように細い目と、ぷっくりと膨らんだ涙袋。さらさらの栗毛が揺れる。
少々キザな
人でなしが悪魔なのではなく、人のふりをするのが本当の悪魔なのだ。
「お望みとあらば、また脚でも
「だから、ちょっと遊びに来ただけだって言ってるじゃないか。この前お前にやられたところ、聖水じゃ治りきらなかったんだから。勘弁してよ」
アミィが肩を竦めて、手を引っ込めた。その際ぺろりと出した舌には、マークが刻まれていた。シーナはそれを目撃したものの、彼にまた絡まれるのを恐れて、口にはしなかった。
「で、いつまでそうしているんだい? 君が呼ばれたんだろう」
アミィが後方に呼び掛ける。アミィの背後からのそのそと現れた男こそが、ゼドが招いた客人であった。
「帰ろうかと思ったぜ」
陰鬱な見た目の割に、冗談も飛ばす軽い口調。落ち着いた物言いだが、どこか不穏な雰囲気が拭えない男だった。背が高い。
「ザリチュ」
それが、この悪神の名前だ。インフェルノのマフィア、アンラ・マンユ抱える『ダエーワ』のひとり、渇きの悪魔である。赫やドュルジ等と共に悪名を馳せており、毒草の扱いに長けていた。
「実に
彼はうっそりと笑って、ぐっと身を屈め、顔をシーナに近づけた。ふわりと、嗅いだことのない薬草の香りが鼻先を掠める。
顔の下半分が見えた。綺麗なラインの顎と唇。その周囲にびっしりと施された刺青も。
「シーナ」
ぱっとザリチュが身を引いた。
「イブを呼んで来い。近くの
「分かったわ」
ゼドはシーナに神を引き合わせたくないようであった。ちらちらとゼドを気にしながらも、にっこりと不気味に笑うザリチュとアミィの横を足早にすり抜け、シーナは外に出た。
玄扉を開ける。突風が吹いて、持っていかれそうになったドアを、シーナは慌てて両手で抑えた。顔にはりついた髪を手でどけて、遠くに視線を遣る。
「本当、何度見ても……」
此処の景色はシーナの心を揺さぶる。荒廃と自然と奇跡が生み出した、言葉にし
季節がたった数日で変わる環境も、
「イブ」
ゼドの言う通り、イブリースは湖にいた。イブリースの家の周囲には、
大きめの三日月湖に、くるぶしまで足を浅瀬に
「ゼドが呼んでいるわ」
「すぐいくよ」
近寄ると、上裸の大柄な男が湖に身を沈めていた。涼しげな面立ちで、いかにも人間のような風貌だが、彼はどう見ても
「鮫男を見るのは初めてか?」
彼の吐く息が冷たい。問う、エメラルドの瞳が美しかった。
「い、え。でも、これほどまでに逞しい鮫に、出会ったのは貴方が初めてよ」
シーナは首を振って答える。
実のところ、鮫はヘヴンの海にも生息していた。それは鮫が、人に恐れられる一方、海神の使いとして信じられ、海の平穏を守る番人としめの役割があると考えられているからだ。勿論、半魚人も珍しくない。ヘヴンの街には大きな水路が張り巡らされており、そこを魚人や半魚人が泳いでいる。シーナの屋敷の近くにも、
「懐かしい香りのするお嬢さんだ」
鮫男は腰まで陸にあがる。大きかった。丈も胴回りも、今まで見てきた魚人達より二まわり以上大きい。爽やかな面立ちとは異なり、
「こいつは鮫男のリヴァイアサン。皆、リヴァイと呼んでいる」
イブリースが言う。
「インフェルノ屈指の単細胞で、その上
「おいおい、ひでえ言い分だなぁ」
わざとらしく眉を顰めたリヴァイアサンが、シーナに笑いかけながら手を差し出す。その濡れた手を握り返し、シーナはにっこりと微笑み返した。
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