片鱗と逆鱗 -δ

「役に立てたかしら?」

「多少な」

「私の記憶力、結構すごいでしょ」


 ふふん、とシーナがご機嫌で鼻を鳴らしてみせる。


「調子に乗るな、及第点きゅうだいてんだ」

「もうちょっと褒めてくれてもいいじゃない」

「甘やかさない教育方針なんでね」


 冗談を交わす二人の背中を眺めながら、フェンリルはソファに横たわった。以前は横になっても余裕のあったソファが、少しきつくなった気がする。


「……気のせいか」


 ちょうどいい体勢を探して幾度か身体の位置を変え、フェンリルはまた、彼らのやりとりをぼんやりと眺めた。生き生きとした表情で、シーナがゼドに言葉を返している。ゼドも、なにやら嬉しさを滲ませ、彼女を揶揄からかって遊んでいる。

 フェンリルのまぶたが、ゆっくりと瞬きをした。


 ヘヴンは、黄金おうごん螺旋らせんの形をしている。黄金螺旋とは、自然が造り出した造形美で、1対Φ1.618の割合でぐるぐると渦を巻くように、終点であるエルサレム神殿に向かって街並みが形成されていた。これは、インフェルノに対する要塞としての役割を果たし、尚且つ、神や人間の居住区域を明示的めいじてきに示すことが可能になった。更に言えば、最高神が居る神聖なる場所を中核に据え置き、重要なもの、崇高なものを集めて守る意味あいもあるようである。ヘヴンから降ってきた人間達は皆、口を揃えて美しい街並みだと言うが、ゼド達から見れば、それは城郭じょうかく都市としであることが一目瞭然であった。ヘヴンをつつむ煉獄は言わば、要塞の城牆じょうしょうである。


 この構造は、神を崇拝する人間達の信仰心から作られたのか、理想的な社会を構築する手段として用いられたのか。それは定かではない。がしかし、この理想的外形は、形造かたちづくられた時期も文明も王もわからぬほど昔から、ずっと守られてきた、ある種の構造システムであることには間違いようであった。


「客人が到着したようだな」


 ゼドがおもむろに振り返り、椅子の背に肘を置いて、睨むように遠くを見た。身を起こしたフェンリルも、鼻をひくつかせて気配を嗅ぎ取る。

 ゼドの瞳の瞳孔は、紅玉をナイフで裂いたようだった。今にもどろりと花蜜かみつが溢れでてきそうな裂け目からは、青いほのおの如く危うげな視線が、じっとりと溶かすように閉まった戸を濡らしている。

 ほんの数秒空けて、草を踏みしめる音、玄関が開く音、木製の廊下が軋む音が近付いた。最後に、部屋の扉が雑に開かれる。


「やっほー」


 顔を覗かせたのは。


「ア、アミィ!?」


 驚いたシーナが、素っ頓狂な声を上げた。莞爾かんじと笑う男が、嬉しそうに手を振っている。犬の尻尾でも見えそうな仕草だが、目はまるで笑っていない。色を失った、屍の瞳にひどく似ていた。


「あれ、僕の名前知ってくれてるの? 嬉しいなあ」

「嘘を言え」


 フェンリルが頬杖をついて、つまらなそうな口調で口を挟んだ。


「改めまして、僕はアミィ。炎の悪魔だ」


 甘いマスクに、上臈じょうろうよろしく紳士的で流麗な所作。それでも、鳥肌が立つほど凶々まがまがしくよどんだ邪気が、彼の周りに漂っていた。

 アミィはシーナに近づきながら、手を差し出す。


「は、はじめまして」


 シーナが躊躇ちゅうちょしながらも、それを握り返そうとした時、ゼドがシーナの手を上から押さえて引き戻した。それとほぼ同時に、アミィの右手が派手に燃え上がる。シーナはゴクリと生唾を飲み込んだ。


「お前を呼んだ覚えはない」


 棘を含むも、淡々とした物言いのゼド。そんな彼の様子が面白くないのか、アミィは困ったように眉尻を下げた。

 ばちばちとアミィの掌の上で、火の粉が弾け、白い閃光せんこうほとばしっている。彼の生み出す炎は、途轍とてつもなく高温だ。指先に灯した蝋燭ろうそくサイズの炎でもあなどることはできない。言うなればそれは、高エネルギーの塊だ。触れるだけで、腕一本は容易に消炭けしずみになる。


「遊び相手が欲しいなら、帰ってママの乳でもしゃぶってきな」


 吠えるフェンリルを鼻で笑って、アミィは首を振る。


「やだな。僕はいつだって遊び半分で生きているんだよ」


 貼り付けた笑顔を、アミィはゼドへと向けた。糸のように細い目と、ぷっくりと膨らんだ涙袋。さらさらの栗毛が揺れる。

 少々キザな科白せりふと愛らしい笑顔は、狂気の一端であり、凶器のきっさきでもあった。それは酷薄な本性を覆う巧緻な仮面のように見えて、わざとらしく微瑕びかの入った能面。その小さな隙間に爪を差し込んで、めりめりと剥がしたくなるようなつらをしている。

 人でなしが悪魔なのではなく、人のふりをするのが本当の悪魔なのだ。


「お望みとあらば、また脚でもあばらでも、いくらでも折ってやるぞ」

「だから、ちょっと遊びに来ただけだって言ってるじゃないか。この前お前にやられたところ、聖水じゃ治りきらなかったんだから。勘弁してよ」


 アミィが肩を竦めて、手を引っ込めた。その際ぺろりと出した舌には、マークが刻まれていた。シーナはそれを目撃したものの、彼にまた絡まれるのを恐れて、口にはしなかった。


「で、いつまでそうしているんだい? 君が呼ばれたんだろう」


 アミィが後方に呼び掛ける。アミィの背後からのそのそと現れた男こそが、ゼドが招いた客人であった。


「帰ろうかと思ったぜ」


 陰鬱な見た目の割に、冗談も飛ばす軽い口調。落ち着いた物言いだが、どこか不穏な雰囲気が拭えない男だった。背が高い。色光沢つやのある檸檬れもん色と山葵わさび色が混ざった長い癖毛が薄く顔にかかっていて、表情は伺えないものの、壊れかけの黒い厚底眼鏡が鈍い光を放っている。


「ザリチュ」


 それが、この悪神の名前だ。インフェルノのマフィア、アンラ・マンユ抱える『ダエーワ』のひとり、の悪魔である。赫やドュルジ等と共に悪名を馳せており、毒草の扱いに長けていた。


「実に凡庸ぼんような娘だ」


 彼はうっそりと笑って、ぐっと身を屈め、顔をシーナに近づけた。ふわりと、嗅いだことのない薬草の香りが鼻先を掠める。

 顔の下半分が見えた。綺麗なラインの顎と唇。その周囲にびっしりと施された刺青も。


「シーナ」


 ぱっとザリチュが身を引いた。


「イブを呼んで来い。近くの湖畔こはんにいるはずだ」

「分かったわ」


 ゼドはシーナに神を引き合わせたくないようであった。ちらちらとゼドを気にしながらも、にっこりと不気味に笑うザリチュとアミィの横を足早にすり抜け、シーナは外に出た。

 玄扉を開ける。突風が吹いて、持っていかれそうになったドアを、シーナは慌てて両手で抑えた。顔にはりついた髪を手でどけて、遠くに視線を遣る。


「本当、何度見ても……」


 此処の景色はシーナの心を揺さぶる。荒廃と自然と奇跡が生み出した、言葉にしがたい美しさがあった。

 季節がたった数日で変わる環境も、夙夜しゅくや吹く甘辛い海風も、不思議な形と色の海の生物達も。各々が調和を掻き乱し、瞬転しゅんてんで崩れ去る美を成してはまた、泡の如くたちまちにちていく様は、想像以上に可憐で華やかだ。景色を眺めていると、胸を揺さぶる想いが勃然と襲い来る。それは、ジレンマにも似た、苦しくも切ない衝動であった。


「イブ」


 ゼドの言う通り、イブリースは湖にいた。イブリースの家の周囲には、幽邃ゆうすいたる水場が茫洋ぼうようとして広がっていた。潺湲せんかんと流れる大河の他に、たくさんの三日月湖があった。透き通るほど透明で、僅かに粘性のある液体が、紫がかった空の色をそっくりそのまま移し込んでいるので、まるで鏡に囲まれた世界にいるような気さえする。

 大きめの三日月湖に、くるぶしまで足を浅瀬にけて、イブリースが立っていた。少し腰を屈めて何かと話していたが、シーナに気付くと、にっこりと微笑みかけてくる。さらさらと彼のストレートの青髪が揺れた。綺麗なひとだと、シーナは彼を見て改めて思う。


「ゼドが呼んでいるわ」

「すぐいくよ」


 近寄ると、上裸の大柄な男が湖に身を沈めていた。涼しげな面立ちで、いかにも人間のような風貌だが、彼はどう見てもさめであった。鰓孔えらあなの入り方や、鮫独特の鋭い目付き、のこぎりよりも切れ味の良さそうなギザギザに尖った歯。極めつけに、尾鰭おひれのついた大きな下半身を見れば一目瞭然だ。


「鮫男を見るのは初めてか?」


 彼の吐く息が冷たい。問う、エメラルドの瞳が美しかった。


「い、え。でも、これほどまでに逞しい鮫に、出会ったのは貴方が初めてよ」


 シーナは首を振って答える。

 実のところ、鮫はヘヴンの海にも生息していた。それは鮫が、人に恐れられる一方、海神の使いとして信じられ、海の平穏を守る番人としめの役割があると考えられているからだ。勿論、半魚人も珍しくない。ヘヴンの街には大きな水路が張り巡らされており、そこを魚人や半魚人が泳いでいる。シーナの屋敷の近くにも、わにのフカという青年が住んでいて、普段は寝てばかりいるものの、仕事がない時にはシーナを舟に乗せ、学校までいて行ってくれることもあった。


「懐かしい香りのするお嬢さんだ」


 鮫男は腰まで陸にあがる。大きかった。丈も胴回りも、今まで見てきた魚人達より二まわり以上大きい。爽やかな面立ちとは異なり、灰黒はいこく色の身体ボディは無数の傷跡で覆われており、艶やかな白の短髪が水に濡れて色っぽかった。


「こいつは鮫男のリヴァイアサン。皆、リヴァイと呼んでいる」


 イブリースが言う。


「インフェルノ屈指の単細胞で、その上悪食あくしょくだから、シーナちゃんは安心していいかもしれないね」

「おいおい、ひでえ言い分だなぁ」


 わざとらしく眉を顰めたリヴァイアサンが、シーナに笑いかけながら手を差し出す。その濡れた手を握り返し、シーナはにっこりと微笑み返した。

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