福音 -υ

 この恐ろしく誘惑的な格好をした女悪魔の、その淫佚いんいつなる数々の戦歴を、つい先程聞いたばかりだ。


「それにしても、貴女。随分と良質な魂の匂いがするのね」

「え?」

「私、鼻がいいの」


 彼女は、先がつんと尖った、小ぶりな鼻を指差す。


「前に寝た人間の匂いと似てるわ」

「お前がえらく気に入っていたあの青年か」

「そうそう。元は修行僧だったらしいけど。穢れを知らない、純朴なところが良かったのよ」


 うっとり。彼女は恍惚とした。回顧に陶酔し、まなじりは下がり、熱を持った吐息をらしている。


「でも、彼の聖人せいじん気取りも、ほんの束の間だったわぁ。一度快楽と背徳に溺れたら、彼もあっという間に色欲しきよくに平伏した。淫蕩いんとうの沼に堕ちていく姿は、何度見ても堪らないものね。貴女も、覚えておくと良いわ。一夜の男は床上手、長く楽しむなら童貞、ってね。チェリーボーイは甘いわよぉ」


ぽかんとサキュバスを見上げるシーナを見て、くすりと彼女は楽しそうに、口許を手で隠した。


「でも、遊び人プレイボーイが私に夢中になって、段々と執着するようになるのも悪くはないけど。……ねえ、貴女は処女ヴァージン?」

「へっ? ヴァ……」

「嬢ちゃん、そこは反復しなくていい」


 オルクスの指先が、シーナの口を押さえた。指に染みた葉の薫りが、ふわりと鼻腔を掠める。


「誰か好きな人はいないの? キスは?」

「そ、んなの……し、したことないわ」

「ええっ! じゃあハグは? 手は? 好きな人と手を繋いだことある?」

「あるわっ!」

「きゃあっ。どんな神?」

「おや、それは俺も気になるね」


 オルクスがシガーをう手を止めて、二人を見下ろした。


「お屋敷のメイドや護衛の騎士達とは、手を繋いだことあるわよ。ハグは、あまりないけれど」

「そーいうのじゃなくてぇ……」


 サキュバスは明らかに落胆した表情になり、オルクスは再び静かにシガーを蒸し始めた。


「じゃあ、貴女、まだ恋すらもしたことがないのね」

「恋……?」

「その話は他所よそでやってくれ。あまり嬢ちゃんにちょっかいかけてると、ゼドに余計睨まれるぞ」

「何であいつが出てくるのよ」

「嬢ちゃんは、ゼドのところの居候いそうろうだよ」

「へぇ……? あの唐変木とうへんぼくが、ねえ」


 腕組みをしたサキュバスが、身体を少し後ろに引いて、シーナをじろじろと見た。明らかに値踏みしている。


「こいつ、ゼドに何度も夜の誘いを断られてっから、逆怨みしてるんだ」


 オルクスがサキュバスに聞こえない程度の小声で、シーナに耳打ちした。


「貴女、まだ小さいけどやるじゃない。どんな色目いろめを使ったのかしら」

「色目なんて使ってないわ」

「いいのよ? 隠さなくたって。恥じることじゃないわ。色目を使うことも、あざとく愛嬌を振り撒いても、例えその貧相な身体を売っても、此処では誰も貴女を責めやしないもの」


 胸を指さされて、シーナは顔を赤くして服で胸元を隠した。


「あいつが守ってくれるなら、貴女は何もしなくて良いじゃない。男は単純な生き物よ。可愛く強請ねだられたら、食料でも金でも何でも、喜んで差し出してくれるわよ」

「それは、……私が嫌なんです」


 ゼドは、シーナにたくさんのものをくれる。だが、強請って与えられるものに縋るのは、違う。

 最初は、ゼドの仕事の帰りを家で待っていた。幾晩もそれを繰り返した。次第にシーナの心は暗然とし、萎靡いびに沈んでいった。それに耐えきれなくなり、家を隅々まで掃除した。庭を掃いた。汚れの取れた皿を拭き直し、意味もなく戸棚の中身を位置替えしてみたりもした。それでも不安は拭えず、無力感は増すばかりだった。


「だから、私なりのやり方で、お兄……ゼドに、感謝を伝えていくつもりです」

「感謝が何の役に立つのよ」

「何の役にも立ちません」


 シーナは顔を上げた。青いベールの下に灯る、おこったばかりの炎が揺らめく。

 サキュバスは、無意識に一歩退いた。


「でも、何もしないではいられないんです。私は弱い神です。一人では何も為せやしない」


 毅然とした態度でそう言い切られて、サキュバスは少しだけ、むすっとした顔をする。


「でも、強くあろうと生きる姿は、美しいと思うんです。万象に通ずる、美だと思うんです」


 だから、シーナは進もうと思った。

 我武者羅で良い。些細なことだって良い。何の役にも立たないことかもしれなくても、良い。目の前の一歩を進むことに、意味があると信じて。歩む道の先に、まだ全身の見えぬ摩天楼まてんろうそびえ、その階段の登っていることを、ただひたすらに信じて。


「必死に立とうとする泥だらけの足が、なにかを掴もうとする傷だらけの手が、相手を安心させるように微笑む、その表情が、なによりも美しいと感じたんです」


 これは憧れだ。そして、尊敬だ。

 インフェルノの野に咲く花は、何度も甦った。競技場に立つ闘士達は、何度も立ち上がり、最後の一瞬まで諦めることなく戦った。路傍で生き絶える寸前の人間も、必死に何かを掴もうと手を伸ばした。

 見てくれだけの美など、脆い仮面でしかない。金属を腐食した赤錆あかさびと同じ。削り落とせば、中身の腐った粗金が露わになる。


 シーナは背筋を伸ばした。思っていたことを言葉にしたら、自分の中であやふやだった考えが、少し整理できた気がした。


「だから、その生き方は私の性分には合わないわ」


 シーナはにっこりと笑って。


「それじゃ、いってきます」


 元気に挨拶をして、颯爽と立ち去ったシーナをきょとんとした表情で見送るサキュバスに、オルクスは、


「こりゃ一本取られたな」


 とだけ言った。

 大した精神力だ、とオルクスは彼女の後ろ姿に、ちらりと視線をった。

 憎悪や嫉妬の禍々しい邪念、我執や不信に陥った人々、生き物の残酷で冷淡な側面、絶対的権利を誇る暴力……世の中に潜む暗黒面を、嫌というほど突きつけられただろうに。彼女は、自分を弱いと言うけれど、随分と見込みがあるように思う。軟弱な姫様だと思っていたが、杞憂きゆうだったようだ。


「いい女になるぜ、ありゃあ」


 一条の紫煙が、霧散した。


「偽善者は嫌いよ」

「あの自身、偽善と善意の間で、本当にすべきことを見極めようとしているんだろうよ。お前も存外ぞんがい、ああいう肝の据わった奴は、嫌いじゃないんじゃないか?」

「あんな純情な子も、願い下げよ。しおらしくて、こっちが恥ずかしくなるわ」

「一人の男を忘れられずにいる女も、可愛いらしいと思うがな」


 ぎょっとして見上げたサキュバスを尻目に、オルクスは短くなったシガーを、その場に捨て、靴で擦り潰した。


「気持ち悪いこと言わないでよ。私は誰のものにもならないの」

「そういうことにしといてやるよ」


 そして、何事もなかったかのように「じゃあな」と、手を振り彼は去って行く。


「後夜祭頑張れよ」


 と、去り際にエールを残して。


「本っ当、性格タチの悪い男だこと」


 そう文句を付けながら、サキュバスは丸めていたメモに視線を落とした。次の演目の項には、見慣れぬ倭言葉やまとことばが綴られている。

神楽かぐらまい

 シーナの舞台が幕開まくひらく。



 †



 フェンリルの後に続いて、ゼドは暗幕を潜った。

 アリーナを中心に円形に広がる、傾斜のついた観客席。その外周をぐるりと囲う廊下。廊下へと続くロビーは、酔っ払った神や魔物でごった返している。後夜祭は既に始まっているようで、床は振動に軋みながら揺れ、アリーナから洩れる光と音が、鼓膜に強く響いた。


「むさ苦しい」

「そう言うなって。ほれ、奢ってやるよ。お前に賭けた金が、何倍にもなって帰ってきたからな」


 フェンリルに押し付けられたジョッキを傾けて、ゼドは冷たい麦酒を喉に流し込んだ。喉が鳴る。


「もう廊下にはあんまり見物人はいねえだろ……やっぱり。アリーナで騒ぎたい奴が多いからな。ゼド、早く来い」


 フェンリルが廊下に出る。観客席の間に取り付けられた鉄柵に足を掛けて登ると、ゼドを手招きした。


「見てみろよ」

「なんだよ、さっきから」

「いいから」

「何があるって、んだ……」


 フェンリルの視線の先を辿ったゼドの目は、みるみる見開かれ、彼は吸い寄せられるように、舞台の方へ近付いていく。ゆったりとした初動はすぐに、早足、そして駆け足になった。

 ガシャン! と大きな音が鳴るほど強く、ゼドは勢い良く鉄柵を掴んだ。


 巨大な球体の競技場。唯一の光が降り注ぐ、舞台。

 青の衣裳いしょうを纏った子供が、飛翔ひしょうしていた。

 床にそっと降り立つと、またふわりと宙を舞い、くるりくるりと回った。

 自由に、そして優雅に。


 瞬きをすると、それは少女の姿に。目を凝らすと、舞を踊るシーナの姿がゼドの瞳にもはっきりと映った。


「……シーナ?」

「な? とっておき、だろう?」


 得意げなフェンリルの声は、ゼドの耳には全く入っていなかった。


「おい、これは一体どういうことだ!」


 ゼドがフェンリルの胸ぐらを掴んで、怒鳴った。

 突然鉄柵から引き摺り下ろされたフェンリルは、一瞬驚きに目を丸くしたが、すぐにそれは、にやにやとした薄笑みへと変わる。


「よせよ、ゼド」

「フェンリル。これはどういうことだと、聞いている」

「説明も何もねえよ。見た通り、こういうことだ。それにしても、珍しいもんが見れたなあ……お前が声を荒げるところを、俺は初めて見たぜ?」


 その言葉に、タンクトップの襟ぐりを絞め上げるゼドの手に、更に力がこもる。


「誰の入れ知恵だ。またお前か?」

「そうやってすーぐ俺を疑うんだから。まあ、そんなカッカすんなって」

「何故あいつが、あんな所にいる」

「他でもない、お嬢ちゃんの願いだったからさ」


 フェンリルの手が、胸ぐらを掴むゼドの拳に添えられた。

 笑顔が干上がり、すっと金眼が冷え込む。


「離せよ」

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