福音 -τ

「呆れた」

「そう言わず」


 ゼドの背中に身を寄せるように距離を詰めたアンラが、そっとゼドの手に木製グリップを握らせた。彼から喫味きつみを感じなくなった。ただ、アンラと同じ、葉の芳醇な馥郁ふくいくが、むさぼるようにゼドの呼気を侵蝕していた。


「中に一発だけ残っている」


 アンラの横暴な指嗾しそうは、今に始まったことではなかった。無論アンラは、この縛られた男を殺すのが、顔見知りであっても、ゼドにとって容易いことであることは百も承知。彼が意味を見出しているのは、もっと違うところにある。


ほどいてやれ」


 タローマティがナイフで縄を斬ると、鬱血うっけつした腕で、どうにか逃げようと男は足掻く。地べたに這いつくばるその姿を見て、口のけないサルワが、きゃっきゃっと赤子のように笑った。

 乱心と自暴自棄とが行き着いた狂疾きょうしつの果てに、言語をほとんど失ってしまった男。脳は退化し、動物のように本能と直感で生きている。頭の中は常春とこはるらしく、血やら死体やらを見て、奴はいつも能天気で幸せそうな面をした。

 サルワは指をしゃぶりながら、男の頭を掴み、ボール代わりにして遊んでいる。


「サルワ、どいてろ」

「ううー?」


 ゼドが四つん這いのサルワの頭を撫でると、彼は紅梅こうばい色のポニーテールを振って喜ぶ。

 撃鉄を上げ、当たり金を火蓋の上に被せた。発砲準備コック・ポジション。その音を聞いただけで、男はびくりと震え上がった。怯える目が、ゼドに向けられる。


 ゼドは、この男がどんな理由で殺されようとしているかなど、知らない。知りたくもない。知らなくても、良い。

 打算的な悪心が囁き掛けてくる。今まで通り、アンラの言う通りに殺せば、なにもかも丸く収まってしまうのだから、と。


「外すなよ。掃除が面倒だ」


 タローマティが背後から野次やじを飛ばす。黙っていろと、怒鳴りたくなった。

 銃を手にしたゼドが近付くと、尻餅をついたまま、男はずるずると後退した。戦慄わななく唇が、何か叫んでいる。浅い息が、紫煙で濁ったちゅうに泡色を描く。

 ゼドはトリガーに指を掛けた。


 エイチイーエル……? 何だ。ちゃんと読唇していなかった。まだ正気でいてくれよ。お前にはこの銃弾を存分に味わって貰わなきゃならない。そうだ。ここは地獄Hellだ。残念だったな、此処にはお前が祈るべき神は存在しない。


 ピー? エル……? ん? ああ、命乞いというわけか。


「……見苦しい」


 罪人の死因は大きく三つ。餓死、事故死、それから捕食による死だ。

 インフェルノに追放されて間もない、正気の多い魂を持つ者はともかく、実際は、魔物に食われる人間の数は、餓死や事故死に比べれば少ない。それは、単に過食部が少ないという理由の他に、罪人の魂がさほど旨くなく、栄養も少ないことにあった。食しても魔物ほど効率的にエネルギーの得られない人間の肉体は、野山に行かない限りそうそう餌にはならないのだ。

 すなわち、汚れた魂を食らうその意図はただ一つ。である。


 ゼドには、この男の命に手向ける叙情じょじょうなどなかった。儚く散る畢命ひつみょうを愛しく思うのは、枯葉に水をやるように侘しいものだ。まかり通る理不尽を前に、なす術はない。恩寵に見捨てられ、懺悔は役に立たず、ただ床に倒れすだけのこの死に体を、誰が哀れむだろう。

 ゼドの脳内で、いつもは理知的な役に回る克己心こっきしんが、静かに引き金を絞る。


 くすぶる邪念ごと、ゼドは男の頭を吹き飛ばした。


 硝煙しょうえんが昇る。腕を下げる。

 人間を一匹、それもこんな害虫を駆除するのに、考えてもらちのあかないことが、これほど頭を巡ったことはあったろうか。


「見事だ」


 アンラが鷹揚に頷き、赫が賞賛の口笛を吹いた。

 仰向けに倒れた男の眉間に、綺麗に穴が開いていた。


「使い心地はどうだ」

「いい銃だな」


 肉厚な銃身が熱を持っている。


「だろう? 性能に関しちゃ型がちっと古いが、なかなか趣が深い。アンティークの中でも気に入っているんだ」

 

 唸り声が聞こえた。アンラの傍に、前臼歯きゅうしを剥き出しにして歯噛はがむ、大きなハイエナが二匹歩み寄った。口の端から垂れるよだれが、ぼたぼたと床にまる。


「ヘンゼル、グレーテル。食っちまえ」


 アンラの一声で、屍骸しがいはらわたにハイエナが噛みついた。



 †



 部屋から出てきたゼドを見て、狼の姿をしたフェンリルが、あからさまに、「げ」と顔を引き攣らせた。


「すげえグロテスクなことになってっけど、本当に表彰式だったんだろうな?」

「そうだが」

「じゃあ何でそんな格好になんだよ……」


 ゼドは頬に散った血を雑にぬぐい、服にへばりついた臓腑の欠片を、手で払い落とした。フェンリルが若干距離を取る。粘土質な音をたて、張り付くように、それらは床にべたりと這いつくばった。


「ハイエナが人間を食い散らかした」

「きったねえの」

「そもそも、奴らの表彰式に期待する方が阿呆あほらしい」

「確かに」


 フェンリルはそれ以上何も言及することなく、ゼドの隣に立った。焦げと火薬と生々しい血の匂い。銃でもぶっ放したか、とぼんやり考えながら、フェンリルはゼドから視線を外した。

 アンラ・マンユは曲がりなりにも、インフェルノで最強を誇るマフィアの首領ボスだ。ゼドをいたく気に入っており、なんやかんやと絡んでくるが、その本質は狂乱きょうらんの暴君として、人口じんこう膾炙かいしゃしている。


「後夜祭に行こうぜ」


 ゼドが、フェンリルを見る。


「どうした。いつもは早く帰って酒だなんだと煩いくせに」

「お前に見せてえもんがあんだよ」

「見せたいもの?」

「ああとびっきりのプレゼントだ」


 尚のこと訝しげに顔を顰めたゼドの全身を、フェンリルは見る。


「その前にシャワーだな。お前、マジで臭え」

「臭いのは俺じゃない、死んだ男だ」

「口のねえ死人に罪なすりつけてんじゃねえよ」

「本当のことだ。この臓器を見ろ、碌なもん食ってないからこうなる」

「うえっ、やめろって。汚ねえ! うわっ、てめっ、近づけんな!」


 ゼドの落ち着いた声と狼が吠える声が、暗い廊下に反響していた。


 その頃。

 シーナはというと、大きな舞台の袖で、緊張に震える脚を、必死に押さえ込んでいた。


「こんな、観客がいっぱいいるの……?」


 舞台幕の影から覗くと、先程まで闘技場として使われていたアリーナや観客席、その奥の外廊下にまで、邪神や魔物や怪物達がたくさん詰め掛けている。


「なんだ、嬢ちゃん。緊張してんのか」

「オルクスさん」


 オルクスが左手に大鎌、右手でシガーをくゆらせながら、シーナの隣に立った。引き締まった身体に、黒のベストをスタイリッシュに着こなした男前。ワインのように深みのある赤髪をかき上げ、露わになるその面輪には、渋みの走る洒落た美貌。腕捲りをした袖口からは、がっちりとした長い腕が伸びている。余裕ある立ち振る舞いに反して、隙は一切なく、優しい口調で冗談ばかりを言うのに、視線はいばらの如く鋭く、ジェントルマンというよりは、ダンディズム的な雰囲気がある男神かみだ。


「可愛くしてもらったんだな。似合ってるぜ」

「ふふ、嬉しい。ありがとう」


 シガーを咥える際に、綺麗に揃った白い歯の隙間からちろりと舌が覗く。色気が漂った。

 オルクスの周囲にはいつも、花に群がる蜂のように女が寄って来た。綺羅きらびやかな女性達は甘い蜜を絡め取るように、彼に身を寄せ、高い羽音を奏でるように、きらきらとみやびやかに笑った。

 オルクスは魅力的だ。一度近寄れば、彼の内から溢れる香気こうきに当てられてしまう気持ちは、シーナでも良く分かる。


「そう気負うことはねえよ。皆、酔っ払ってる。間違えても、すっ転んでも、何しても、奴らは大笑いで喜ぶさ」

「それはそれで、少し複雑ね」

「それもそうだな」


 シガーの火を消して、オルクスは微笑んだ。彼は非常に男らしくハンサムだが、笑うと少し、いとけない表情になった。


「この子ね、追加の踊り子は」


 綺麗な女性が、突然シーナ達の間に割って入って来た。そしてオルクスの腕を取り、自分の首に巻き付けた。シーナは驚いて、目をぱちくりとさせた。

 女性が、ぷっくりとした唇で、悪戯っぽく艶笑を零す。悪戯と称せど、シヴァや九が浮かべる笑みと、それは全く違うように感じた。


「はじめまして、シーナちゃんね。私はサキュバス」


 シヴァが言っていた、余興の演目の管理をしているという悪魔だ。


「はじめまして」


 挨拶を返して、思わずシーナは彼女の服装に釘付けになった。布の面積が極端に少ない、あられもない姿にシーナは赤面する。

 サキュバス。またの名を夢魔むま。男を誘惑し、いんにばかりふける悪魔だ。

 背はそれほど高くなく、比較的小柄な体躯だ。黄緑色のミニスカートから伸びた、悪魔らしい先端に房のついた尻尾が、くねくねと動いている。


「シヴァさんから聞きました。枠を分けてくださって、ありがとう」

「あら、礼儀の正しい子ね。頑張ってらっしゃいな」


 シヴァ達の衣装部屋は、噂の宝庫でもあった。彼女達の談笑には、たくさんの情報と噂話がぎっしりと詰め込まれていて、会話を聞いていただけのシーナも、知らず知らずのうちに、様々な知識を蓄えることとなった。




***了


 フリントロック式銃について


 ジャック・スパロウが持ってるあの銃ですね。この銃は命中率が非常に低いです。


 アンラもアンティークものと言っていますが、もっと効率的に打てて、命中率も高い銃を、アンラ達ファミリーは所有してます(666の章で既出)から、このフリントロック式は昔使っていたとしても、今はアンラの趣味で集めてるものでしょう。この銃で殺すのは、正にアンラのお遊びということを、地味〜に示してます。

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