福音 -γ

 妖狐は釣り上がった細い目を更にすがめ、口を歪める。


うぬの気は眩し過ぎる。目に毒じゃ。……隣の奴は、真逆なようだが」


 無表情のゼドが、ゆっくりと顔を上げた。妖狐は、シーナからゼドへと顔を向ける。三角の耳がぴんと立ち、髭がひくひくと二、三度動いた。


「ふん。おぞましい邪気を纏いし悪神め」


 狼の姿をしたフェンリルが、一歩前に出る。石の台座の上に立った妖狐の背後に、ぼうっと鬼火が現れた。


「なんでも良いけどよ、通らせてもらうぜ」


 舌打ち混じりに、フェンリルが言う。


「犬風情が。蛮族は此処に一歩たりとも立ち入ることを許さぬ」

「てめえ……戯言もほどほどにしろよ? 今すぐここで、噛み殺してやったっていいんだぜ」


 フェンリルが唸る。


「これだから野蛮な下郎は。まったく以って救いがたい」


 彼の脅しなど意に介さず、妖狐は澄まし顔で毒を吐く。


「たま」


 低い声が、名を呼んだ。落ち着いた静かな口調は、森の中にはっきりと響く。

 三人が振り向いた先には、黒の着流しに、黒塗りの刀を携え、袖手しゅうしゅする男、禍津日神がいた。


「俺の客だ。通してやってくれ」

「禍津。此奴ら下賤な輩をこの神域に入れてはならぬ。穢れるぞ」

「あ? この女狐ェ……。禍津さんの知り合いじゃなかったら、とっくに臓物引き摺り出してやったのによ」


 フェンリルが吠える。


「すまない、たまは少し人見知りでな」

「人見知りどころじゃねえだろ。この化け狐の皮を被ったババアめが。俺には分かるぞ、てめぇの腐った性根がな!」

「性根が腐っているのは、汝の方じゃ。汚らしい下衆の分際で、禍津に迷惑をかけるのではあるまいな」

「禍津さん。清めの水を貰いに来た。こいつに分けてやってくれ」


 きゃんきゃんとののしり合う狐と狼の横で、ゼドは禍津に声を掛ける。


「お願いします」


 シーナがぺこりと頭を下げた。


「ああ。ついて来い」


 禍津と、未だ不満顔の妖狐たまに続いて、三人は社の奥へと足を踏み入れた。


「拝殿ね」


 門を潜ったそこには、内削ぎの千木ちぎの朽ちた大きな拝殿が構えていた。傷んだ注連縄しめなわは、元の堂々たる姿を容易に想像できるほど太い。つむじかぜが吹く度、今にも外れそうな観音扉が、幽かな開閉音を鳴らす。雨曝しの白木の賽銭箱は劣化が酷く、伸び放題の刺草いらくさに蓋をされてしまっていた。

 手前の石段の最上段に、枯れてしまった一葉のしきみの花がぽつねんと置いてあるだけの、質素だが品の良い本拝殿である。


「それにしても暑いわね……」


 汗で首に張り付いた髪を、手の甲で払い除けて、シーナが呟いた。


「すぐそこは砂漠地帯だからな」

「砂漠?」


 禍津が頷く。そう言う彼は、涼しげな表情かおで、纏う黒の着流しの胸元をきっちり締めている。


「これより以南には、砂の大地が広がっている」

「砂っつっても、風化した骨が崩れて出来た砂だがな」


 余計なことを付け足してから、フェンリルが人間の姿になった。黒のノースリーブシャツが風を受けて、筋肉の形が浮き彫りになる。彼は背中を反らし、気持ち良さそうに大きく伸びをした。

 禍津は、本殿横に生えた一樹の神木を回り込むよう、大曲りに敷かれた飛び石の道を指し、そこを行けと言う。


「本殿裏に清めの水を溜めた池がある。存分に使うといい」

「ありがとう、禍津さん」

「早く行こうぜ」


 そう言って、フェンリルはさっさと本殿裏に回り込んでいく。彼に続いて、シーナが裏山へと続く砂利道に降りて行った。


「ゼドはついて行かなくて良いのか」


 自分はお役御免とばかりに、石段に腰を下ろしたゼドを見下ろして、禍津が訊ねる。


「フェンリルが行ったからいいだろ」


 後手に腕を組み、きざはしにもたれ掛かる。石が背中をじんわり冷やす。見上げた空には薄雲がかかり、風が吹くとさらさらと木々が揺れて、爽やかな音色を何層にも奏でた。砂漠地帯から流れて来る熱の篭った空気と、照りつける白い太陽光を、若葉が吸ってくれているようだ。


「乱れている」


 紅の双眸だけを動かして、にべもない態度でゼドは隣に立つ男を見上げた。


「何が」

「お前の邪気が、乱れている。興奮しているのか」

「そうだな……久々に、はやってはいるのかもな」


 言いようのない昂りが、気の乱れとなっていたのだろうか。

 ゼドはにやりと笑って、その場に落ちていた枯れ葉を拾いあげた。掌のような形をした硬い葉は、少し曲げただけで簡単に割れ、壊れてしまう。


「ヘヴンの心臓跡が、見つかったらしい」


 禍津も向拝こうはい柱に軽く背を預け、懐から煙管キセルを取り出すと、火皿に煙草の葉を詰め、火を付けた。一条の煙が、ゆらゆら立ち昇ってゆく。その揺蕩う紫煙を通して、炎天の埃舞う境内の景色を眺めながら、禍津が口を開く。


「メフィストか」

「そうだ」


 メフィスト・フェレス。流言を好み、戯言ばかりをほざく、イカサマ師である。彼はその残虐非道な性格と歪んだ嗜好で、かつて、シンアルの平地に在ったバベルという街をひとつ、手取り足取り滅亡へと導いた悪魔。

 最近は、至極のグルメ巡りに精を出しているようで、様々な地を点々としながら、せっせと魂を貪り喰らっているらしい。そして、その際耳にした情報を、情報屋であるイブリースの元に持ち帰っている。イブリースでも収集できていない遠方の話となると、なかなかの値がつくようだ。イブリースも、ちまたの話となると、彼を頼りにしている節もありそうである。虚言癖の気があるメフィストが、イブリースに不確実な情報を提供しないのは、依然彼に痛い目に遭わされてから。それからは懲りたようで、彼は騙す相手を選ぶようになった。


「やっと、世界の謎をひもといとぐちを掴んだわけか」

「ほんの一端だがな」


 今こそ、歴史のうろを埋める事実を、掘り出す時である。


「これまで掘り出された神殿跡は、痕跡を跡形もなく消し去られていたはずだが。今回見つかったのは何代目だ?」


 禍津が訊ねる。


「九代目ヘヴンだ。退廃した神殿街が丸ごと、腐海の底に沈んでいたらしい。恐らく、はじめて世界の心臓が出来たあたりの時代だろうな」

「だから、証拠隠滅が不十分だったのか。それにしてもメフィストの奴、よく見つけたな」

「どうせ何か吹聴して、人間や獣をこき使ったんだろう」


 はは、と薄笑みを零し、禍津は煙を吐いた。本殿を囲繞いじょうする緑白色の藪が、郁郁いくいくたる煙と同じ方角へとなびく。

 ゼドは、ヘヴンの民を考えなしの蛮族と見做してきた。この世界に生きるならば無視できない存在ではあったが、それでも、怨憎をその他の感情ごと心から払い落とし、行為をはたから俯瞰し、適度な距離を保ってきた。それが、向こうからインフェルノの地を踏み、また自ら崩壊へのカウントダウンを切り始めたとなれば、話は別である。


愈々いよいよ、あの目障りな大地の膿にメスを入れる日も近い」


 ヘヴンの道徳を踏みにじるのは、さぞかし快感だろう。美学を壊し、常識を根本から否定して、奴等に世界の真実を突きつけてやれば、皆恐怖にひれ伏すだろう。それはきっと、蜜より甘い極上の快楽で、ゼドは容易く溺れてしまう。


「その前に、インフェルノの民が絶滅しなきゃ良いがな」

「阿片か」


 ゼドはぼうとした嘲笑を引っ込めて、渋面しぶめんになる。


「日に日に、阿片で死ぬ者が増えている。この前も、ベイカー街の肉屋の旦那が死んだ」


 ベイカー街は、地下都市アガルタの北に位置する街の名で、酒場バーヘールデもそこにある。

 ゼドは、ぶよぶよと腹だけ肥えた肉屋の主人を思い出す。あの店で売られていた肉は、他に比べれば悪くない味だった。


「いいじゃないか。余った肉がタダで手に入る」


 大きな塊肉の入ったワイン煮が食いたい。肉汁の脂が浮いたスープに、ハーブの利いたパンを浸し、木の実をつまみに酒を飲みたい。蔵にはあと何キロの塩漬肉が残っているだろうか。

 折れた葉が、ゼドの手から滑り落ちた。葉が覆っていた山頂からの眺望が眼前に広がる。おぼろな波状雲が、山麓さんろくへと続く山道の輪郭をぼかしていた。幾重にも織られた山襞やまひだも、荒削りの岩稜がんりょうも、一様に沈黙し、濡れた肌を見せながら霧のなかに深く身を沈めていた。


「そう悠長にはしていられなそうだ。人間だけでない。人間を喰った獣や妖、それを喰らった神にまで影響がで始めている」

「それはまずいな。出処でどころは?」


 ゼドが訊く。


「確認されている三つの裏門のうち、天岩戸あまのいわととヘルマウスの二つが、裏取引に使われている。密売人は人間がよく出入りする店を、金で買収し、流通の拠点にしているようだ。目星はつけている。だが、背後に誰がいるのかは、未だ掴めていない」

「仕方ない。火遊び程度だった薬が、導火線に火のついた爆薬にすり替わったのも、つい最近のことだ」

「……店は潰しておくか」


 咥えた煙管をくゆらし、禍津は淡々と言う。


「殺すなら、情報をありったけ絞ってからにしろよ?」

「そういった陰湿な汚れ仕事は、適任者に任せるさ」

「あの人は喜んで引き受けそうだな」


 紳士面だけは一丁前の、サディストの顔を思い浮かべて、ゼドは苦笑いする。

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