第4話「とにかく抜け。一万本抜け」
前代主将・
140センチ台の体躯で、代わりとばかりに長く伸ばした髪を高い位置にポニーテールにしている。ぱっと見は小学生女子だが、よく見ればあふれ出る威圧感で大きく見える。『和田アキ子は実際は身長170程度で大したことない』という言説をたまに聞くが、本当の威圧感というのは物理的な体格を容易に超える。僕はこの人を見下ろせたことなんてついぞ一度もない。
ひょんなことから居合道部に入った僕だが、何度も技術的な悩みや疑問に困ったことがあった。
そんなとき主将の答えは決まっている。
「まずは抜け」
この日も、稽古中にあきれたように、そう言われた。
「段位もないやつの悩みなんて、つまるところは稽古不足だ。グダグダ考える間に、初発刀の一本も抜いておけばいいんだよ」
初発刀は居合道の古流初伝における一本目――いわば基本の技だ。
座した姿勢から刀を抜き始め、抜き打ちに相対する敵の目線に切りつける。次いで詰め寄り、反撃してくる――あるいは逃げ出そうとする敵にとどめの二太刀目を浴びせる。
言葉で語れば簡単だが、実際にやってみると難しい。
まず座ったままの動作が、思いのほかきつい。膝立ちのまま切りつけ、さらに追撃する。
これまで運動らしい運動をしたことがなかった――ついでにいえば運動神経もない――僕では、刀を振るたびによろけてしまう。
ではどうすればよいか?
「とにかく抜け。一万本抜け」
である。
「おい、橘。昭和じゃないんだから、もっと丁寧に説明しろよ」
たいていいつも副将の小井口先輩が助けを入れてくれる。
橘先輩を厳しく咎めた一方、僕には表情を緩める。絵にかいたような好青年だ。
「佐山君は少し意識が刀に行き過ぎているね。体があっての、剣だ。体の軸は、腰だ。腰に意識してみると、よろけることも少なくなるんじゃないかな」
「腰、ですか」
「腰を入れるには、足の踏ん張りも重要だ。佐山君は膝が前に行き過ぎている。もう三センチ、膝がつまさきより後ろに来るように踏み込むといい」
「かぁぁ、細かい! お前は本当に細かい男だな小井口。ハゲるぞ」
主将がベロを出した。
「ンなもん、回数こなせば自然と最適化されんだよ」
「お前は大雑把すぎるんだ。間違った型で回数こなしたって、変な癖がついて直すのに三倍時間がかかる。だから、後輩に指導するなら正確にしないといけないだろ」
「クセもムラも数を振れば消えるつってんだよ。三倍かかるなら、かけりゃいいじゃねえか。楽をすんな、楽を」
「誰もかれもお前みたいに年中刀ばかり振ってられないんだよ。そんなんだから、お前は留年しかけるんだ」
「惜しかったかもな。オレが留年してれば、二年がいない問題がちったあ解決したかもしれねえし」
「その二年がいなくなったのはそもそも誰のせいだ!」
「単に連中が軟弱だっただけだろ!」
そんな感じに言い合う。
始めはケンカしてるのかとハラハラしたが、これが幼馴染たる二人のコミュニケーションなのだとしばらくしてから理解した。静観に限る。
「それはともかく」
小井口先輩が改めて僕に向き直る。
さっきまでの言い合いがうそのような大人のほほえみ。
「理論か根性論かはともかく、数をこなすことは一理ある。なにも、技の悩みだけじゃない。がむしゃらに動くことで、意外と解決することもあるかもしれない。古代ギリシャの三大悲劇詩人のソポクレスも、悩みの最大の薬は運動だ、と言ってるしね」
「は。お前はウィキペディアか。わざわざしょぼくれナントカなんか持ち出さなくても、中学の先公のありがたいお言葉にもあんだろ。性欲は運動で晴らせって」
本当にこの人は悩みなさそうだな。
ソポクレスさんの説得力。
「さて。無駄口はお終いだ」
橘先輩が愛刀を手に取る。
刃長は三尺超。その体躯に不釣り合いな大太刀だ。熟練者でも扱いにくいそれを、慣れた手つきで帯に差す。
袴を払う音だけで、緩んでいた道場の空気が鉄の鋭さを帯びる。
一転の、無音。
耳が痛くなるほどの静寂の中、衣擦れの音さえなく先輩が身をもたげ――
一閃
柔軟かつ強靭な鞘引きで長大な刃をものともせず、抜き放つ。
白銀が身の丈を超す巨大な弧を描く。
切っ先が空を断つ刃鳴り。
一連の音が僕の全身を、斬る。
ああ。
たしかに、この剣には、迷いはない。
僕はあれから一万本は抜いただろうか。
僕は橘先輩の技に少しは近づけただろうか。
僕は、先輩のようになれるのだろうか。
「……しまった」
また雑念が入った。
今は放課後。
場所は校舎裏。
稽古中で、礼をすませて初発刀に移る段階だ。
秋水さんに稽古を断られてから、自分でもわかるほど集中を欠いている。
期待していたのだろうか。
期待していたんだろう。
午後はずっとぼんやりしてしまい、授業も何をやったかさえ覚えてない。
放課後になって部活が始まっても、宣言通り、秋水さんは来なかった。
ただ、先輩たちの言葉は思い出した。
悩んだときは体を動かせ。
「一本目、初発刀!」
発する。
あとは、自動的だ。
何も考えない。そうすれば、体に染みついた技がおのずと形を表す。
袴を払い、座す。
三呼吸。
右手を柄にかけ、左手で鯉口を切る。
腰を起こし、同じ速度で鞘走りさせる。
踏み込み、
同時に抜き打つ。
脳裏で想定した仮想敵が、のけぞる。
さらに腰を送り、追撃の一撃を真正面から振り下ろす。
風切り音とともに銀の刃が弧を描く。
斃す。
息を継ぐ間もなく、刀を掲げ、空に振り払う。血振り。視界は広く、しかし倒れた仮想敵を視界には入れつつ、立ち上がる。
敵に残心をしつつ、両足を組み替える。
残心とは、敵を倒したのちも意識を絶やさず、仮に立ち上がってきても即座に対応するという気構えである。
そして、納刀。じりじりと、息を吐きながらゆっくりと鞘に刀を納め――
「ごふっ!」
ぶっ倒された。
横から何かがタックルしてきた。
それは僕に馬乗りになって、荒い息でまくし立てた。
「ああああっぱれ! なにそれ!」
秋水さんだった。
紅潮した顔で、大きな瞳をさらに見開き、鼻がつきそうな距離で騒ぎ立てる。
「すごいすごいすごい! お刀さんが動いてる、踊ってる、生きてる! こんなことってある!?」
水っぽいものが顔についた。
ツバでも飛んだのかと思ってぬぐってみたら、赤い糸を引いた。
血だ。
「ちょ――あ、秋水さん!」
見ると、両鼻から血を垂れ流してる。
どんだけ興奮してんだ。
「今日はなんて日だ!」
「いいからちょっと黙って!」
鼻血出しながら鼻息荒くするもんだから、とえらいことになる。
それを至近距離でやらてるんだから、勘弁してほしい。
「アッパレ、サイっコー!」
僕に抱き着いて、ほっぺたすりすり。
「ぎゃああああ!」
「お、おい、どうし――」
たぶん、僕らのどたばた騒ぎを聞きつけて、やってきたのだろう。
数人の生徒が校舎裏にやってきた。
彼らは見ただろう。
血まみれでぐったりした男子にまたがる、口の周りを真っ赤に染めた(美)少女。
しかも刀抜いて手に持ってるし。
やってきた生徒たちにゆっくりと振り返る。
彼らの顔が一気に青ざめるのが、わかった。
「ぎゃあああああああ!」
逃げ出した。
秋水さんが追いかけた。
いやなんで追いかけるの?
犬なの?
「あははははははははは!」
最高にハッピーって感じの笑い声。
とてもほほえましい光景に見えなくもない。
血まみれで刀持ってなければ。
「って、待て」
さすがにシャレにならん。
僕もあわてて追いかける。
そして僕もまだ、このときは気付いていなかった。
僕だってシャレにならんほど血まみれになっているので血まみれどもの鬼ごっこという地獄絵図になることに。
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