第4話 グランドピアノ
Mの部屋は結構広く、マンションの一室なのに居間に大きなグランドピアノがあった。
「ここはマンション全体が防音になってて、音大生とかが入るマンションだから、楽器の音出してもいいんだよ」
とMは言って「適当に座れ」と言った。
秀一と
Mは自分の分の缶ビールと二人の分のミネラルウォーターのペットボトルを持ってきた。
「先生ってピアニストなんですか?」
と秀一は尋ねた。
「そう、と言いたい所だけど、正確にはピアニストになりたくて、なれなかった音楽教師だな。でもな、俺は今でもプロのピアニストになろうと思ってる。マジでな」
そう言ってMはピアノの椅子に横向きに腰掛けた。
「だからこんなでかいピアノ置いてるんですね。毎日練習とかしてるんですか?」
今度は
「毎日欠かさず6時間。これをノルマにしてる。お前らも何かを毎日6時間やるといいよ。そしたらもしかするとほんの少し上達することがある」
「APEXとかなら6時間いけるんだけどな」
と秀一は言った。
「だから俺は、お前らの教師じゃなくなるから」
そう言ってMはビールを飲んだ。
「ピアノのプロってどうやったらなれるんですか?」と秀一は尋ねた。
「コンクールで勝つ。ショパン国際コンクールやらチャイコフスキー国際コンクールやら、日本だと浜松国際コンクールとかさ。知ってるだろ?」
知らない、と秀一は答えた。
「私もピアノやってたんで、知ってます」と澪は言う。
「もうやめた?」
「はい。中学卒業の時に。もういいかなって。先生何か弾いてよ」
と澪はMに言った。
「よし、じゃあこの曲」
と言ってMはピアノに指を置いた。
流麗な旋律がピアノから流れ、水晶が割れるような響きだな、と秀一は思う。秀一は横にいた澪の顔を見た。
ほんの数小節弾いて「この曲聴いた事ない?」とMは言った。
「ショパンの、雨だれ」と澪はつぶやく。
「そう。前奏曲 第十五番。通称、『雨だれ』。"raindrop"」
「いい曲ですね」
「そうだろ? 弾き手がいいからな」
「ところで先生って今何歳なんですか?」
「29」
「その歳からピアノのプロってなれるもんなんですか?」
「まあ、まず無理だな」
とMが言って秀一と澪は笑った。続けてMも笑った。
「でもな、竹内が今からプロ野球選手になってドラフト一位に指名されるよりは無理じゃない」
「いや、俺野球やってないですから」
「だから言ってるだろ。俺は毎日6時間やってるんだよ。俺のほうが可能性あるだろ」
「そうかもしれないですけど」
「全てはさ、終わるんだよ。いつか。だから好きな事やればいいんだ」
そう言ってMは飲んでいたビール缶が空になったことを確認してグシャリと握りつぶした。
「最後はみんなこの缶みたいに。ぺしゃんこなんだから」
秀一は同じような言葉を誰かから聞いた事がある、と思い、すぐにそれが秀一と彼の母を捨てて家を出ていった父親の事だと気づいた。
秀一はピアノを見た。
大きく黒光りするピアノ。これがまさか自分をおかしな事態に巻き込む事になるとはこの時は想像すらしていなかった。
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