第3話
ぴんぽん、チャイムを鳴らす。
「はーい」
「先生、私です」
「あー、穂乃果さん。開いてるよ」
「失礼しまぁす」
慣れた手つきで棚からスリッパを出して履く。ミントグリーンのそれは、もはや私専用と言っても過言ではないくらい使い潰されていた。
「いらっしゃい」
「お邪魔してます」
知ってるよ、と先生が柔らかく笑う。私はこの笑い方が好きだ。聖人じみた笑い方、でもその後にふと表情が消えて、それがどうして癖になる。
「それで、今日は何かあったの」
「……結局先生の夢ってなんなんですか」
「ええ、またその話?」
「言えないんですか」
「言いたくはないかな」
曖昧に笑う。こういう先生は頑固な先生なので、折れるに限る、と、私はもう学んでいるのである。
「じゃあ、先生は今なんの仕事をされてるんですか」
ついっとパソコンを指さす。
「聞いたって面白くないよ」
「何それ、遠回しの否定ですか?」
「わかってるんなら聞かないのが礼儀だろ……」
「悪いですけど好奇心の方が勝ちました」
「小説」
「……え?」
「好きだろ」
「好きですけど……」
「僕は、小説家なんだ」
パチリと目を瞬かせる。
「それじゃあ、先生が夢を叶えた最たる例ってことじゃないですか」
「なんでそう思うの?」
「小説家なんてなろうと思わないとなれないでしょう」
「そうとも限らない」
先生はふっと真面目な顔をして、
「それに、小説家になったら夢が叶ったことになる、とも限らない」
「どういうことですか?」
「穂乃果さんは久米正雄って知ってる?」
久米正雄。大正昭和を生きた作家、第4次新思潮の一員。
「知ってますよ、私あれ読みましたし。芥川龍之介の、あの頃の自分の事」
「ああ、芥川と成瀬がやたら仲良いやつね」
「それで久米がやたらとよく書かれてるやつです」
「久米正雄の本は読んだことある?」
「良友悪友、とかなら」
「久米正雄はねえ、元々俳人だったんだ」
「へえ!俳人から小説家になったんだ……室生犀星が詩人から小説家になったみたいに?」
「久米の場合は間に劇作家も挟まれてるけどね。そう、それで、彼は最初は純文学を書いてたんだけど、大衆文学に移行したんだ」
「え、なんでですか」
「さあ、分からない。それだけは本人じゃないとね。でも、僕は、彼は純文学が書きたかったんじゃないかと思うよ、ずっとね。」
「書きたいものが書けないなら……」
「それは夢を叶えたって言えるのか?ってね」
先生は皮肉っぽく肩を竦めて嘆息した。
「僕も、書きたいものが書きたいなあ」
「書けないの?」
「どうだろう。僕って何が書きたいのかな」
その姿が、体を縮こまらせてパソコンを見つめる姿が、酷く頼りなかった。
「読ませてくださいよ、小説」
「いつかね」
パソコンを閉じる音が部屋に響く。
「僕はね、夢っていうのは」
ひと息置いて、
「雨みたいなものだと思っているんだ。ときに降り、時に止み、予測はできるのに防げはせず、傘を指したって所詮靴も荷物も濡れる……」
「先生、私、夢があるんです」
勇気が出なかったその言葉が、やっと言えた。
「そっか……教えてくれる?」
「いつかね」
悪戯っぽく笑うと、先生も毒気が抜けたように声を上げて笑った。
「家に閉じこもってばかりじゃいられないよね」
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