17th Chart:波濤遥か一〇〇〇海里

 11月16日 早朝 フィリピン コレヒドール島近海


 東の空が赤く染まり始めると、頭上を覆っていた闇夜の帳はゆっくりと紫紺へと移り変わっていった。淡く色を帯びつつある空の下では、幾万の魚の背が蠢くようにうねる黒々とした海が広がっている。一方、岸辺に打ち寄せる白波に縁どられたコレヒドール島とマニラ湾には、水平線から回析した太陽光が振り撒かれ、その輪郭を徐々に浮かび上がらせ始めていた。

 海面で翼を休めていた海鳥達は差し込む陽光に目を細め、いつもと変わらぬ朝に一つ鳴いて、一羽、又一羽と億劫そうに海面を蹴って空へと飛びあがっていく。翼を濡らす海水が金色の飛沫になって空に消えていくのを後目に、海鳥は緩やかな旋回を繰り返し、眼下を進む鋼の群れには目もくれず高度を上げていった。

 そうして朝焼けの空に消えていく鳥たちの下では航跡が十数条、朝日に向かって引きずられていた。

 先頭を進むのは比較的大柄な艦体に三連装砲塔を前部に3基、後方に2基備えた軽巡洋艦。穏やかな海を我が物顔でかき回しながら航行する軽巡の後方には、たっぷりと積み荷を飲み込んだのか喫水を大きく下げた6隻の輸送艦が二列縦隊となって続く。縦長に伸びた船団の両舷には、4隻ずつの駆逐艦が単縦陣を作って張り付き、周囲の海に目を光らせ、海中に耳を澄ませていた。

 規模は小さいが、十分な護衛が張り付けられた一塊の船団。列強でもそう簡単には編成できない贅沢な輸送部隊は数時間前にルバング島北部を通過し、一路マニラ湾口を目指して北東へ進んでいた。

 閑散としたマストを掲げた一団が進む最中、彼らの前方で朝焼けの光に晒され、ゆらゆらと表情を変え続けていた海面に異様な白波が立った。

 続いて、不格好な鉄パイプがぬっと突き出し、周囲を睥睨するかのようにぐるりと一回転したかと思うと、目の前から迫りくる船団へと固定される。丸いレンズに名残惜し気に残る海水が、幾条もの流れとなって滴り落ちていった。


「潜望鏡露頂、良し」


 闇の底から漏れた無数の泡が、いびつさと滑らかさを併せ持った艦体を撫でる様に滑っていき、光が瞬く海面へと合流する。


「両舷停止。自動懸吊装置、作動確認」


 海面に突き出した鉄パイプの直下。青々とした南シナ海には不釣り合いな鈍色の鉄の鯨が、純白の泡の簾を纏い、息を潜めながら海面近くを漂っていた。

 海大Ⅵa型、『伊号第百六十九潜水艦』

 水中排水量 2240 t、全長 104.7 m、全幅 8.2 m、水上速力23ktの俊足を誇る大型の航洋型潜水艦だ。正式には海軍大型潜水艦と呼称され、その特異とも呼べる水上速力をもって味方艦隊に随伴、進出し、決戦に先立って敵戦力の漸減を図るために設計されている。

 技術的問題から当初は航続距離で妥協した点もあったが、この海大型潜水艦の中でも新しい部類に入るⅥa型は燃料搭載量を増加させており、10ktで14000海里の航続距離を持っていた。

 しかし、大柄な艦体は水中での機動性が低く、浮上状態から完全な潜航状態に移行するまでに90秒程度の時間を要するなど、潜水艦としての能力は諸外国に比べてあまり褒められたものではない。あくまでも可潜艦であり、洗練の余地はまだまだ残っていた。


「目標視認、並びは軽巡1、その後ろに二列縦陣で輸送船。側面に駆逐艦が4隻」


 目標の姿を確認した『伊169』艦長――渡辺少佐は、一端潜望鏡を海面下へ引っ込める。海面に出るのは僅かな部分とはいえ、油断をすれば即座に見つかる程度には目立つ代物だ。潜望鏡を使っての観測は、必要最小限にするのが鉄則だった。

 直ぐに隣に控えていた先任士官――板倉三満イタクラミツマ中尉が抱えていた識別表に目を落とし、先ほど自分が目にした輸送船と照合し始めた。


「クレーン付きのマストが二本、艦橋は中央、煙突の形状は……と、コイツだな。米海軍のC2型貨物船。載貨重量トン数は凡そ9000tと言ったところか」

「涎が出る獲物ですな」


 赤黒い夜間照明の中に響いた艦長の声に、思わず唇を舐め、識別表をもつ手に力が入る。額に汗が浮かぶのは、潜水艦特有の淀んだ空気に満たされた高温高圧多湿だけが理由ではない。

 沖縄の金武湾を出撃してからこの方『伊169』は、昼は潜航、夜は浮上航行による充電を繰り返しながら遥々1000海里を走り抜けてきた。

 この場所に至るまでフラグレスとは数度の接触を経験したが、どれもこれも小柄な駆逐艦や、水中聴音機すら備えているのか怪しい水雷艇ばかりだ。潜ってやり過ごすことは難しくなかったが、端的に言って「張り合いがない」というのが感想だった。

 そうした退屈な航海の先で、とりあえずの目的地であるマニラ湾口に辿り着く直前のこの遭遇だ。

 潜水艦乗りとしてのキャリアをスタートさせたこの艦で、初めての獲物を前に興奮するなと言うのが無理な相談だろう。


「軽巡は、チェスター級ですか?オマハ級ですか?」

「前部甲板に、山型配置の三連装砲が見えた。ブルックリン級軽巡に間違いないだろう。護衛の駆逐艦はベンソン級と思う」

「1万トンクラスの大型軽巡とはフラグレスも豪気ですね」


「やりますか?」と言う自分の視線に、渡辺艦長は顎を擦って思案顔になる。

 位置関係としてはルバング島方面から、コレヒドール島の南側にあるボカ・グランデ水道めがけて侵入しようと北東へ進む船団に対し、『伊169』はコレヒドール島から南南西10㎞程度の海域にて艦首をマニラ湾内を望む北東に向けて待ち構える格好になっている。

 このまま時間が過ぎれば、船団は『伊169』の頭上を後から前へ通り抜けていくはずだ。

 さらに言えば、敵船団が直上を横切る前に日の出の時刻を迎える。その時になると、敵よりも東側に位置する『伊169』の頭上の海面は、浅い角度で侵入した太陽光が反射して輝くため、潜望鏡を光の中へ隠す効果も期待できるだろう。

 正しく、千載一遇の好機。艦の向きを調整すれば、敵はこちらの射線をノコノコ横切る格好になる。艦首に備えた六門の魚雷発射管からの斉射だ。直径五十三センチ、炸薬量400㎏を誇る九五式酸素魚雷を至近距離から叩き込めば、敵がレガシー・ナインであったとしても轟沈は免れまい。

 内心では今すぐに「魚雷戦用意」の号令が掛かることを待ちわびる自分が居るが、それとは別に今回の襲撃は流れるだろうと判断する冷静な自分も存在した。

 まず第一に、水深の問題。

 コレヒドール島を含むマニラ湾は良港になりうる地形ではあるが相応に水深は浅い。この『伊169』は安全に75mの水深まで潜ることが可能だが、海図を確認する限り今いる場所の水深は凡そ60m前後。襲撃を掛けるのならばせめて後30m、欲を言えば倍は欲しい。

 護衛の数も問題だ。

 相手は1隻の軽巡と8隻の駆逐艦を持っている。仮に、首尾よく2隻の護衛艦を同時に仕留めたとしても、怒り狂った残りの7隻が気勢を上げて突っ込んでくる上、船団は一目散に湾の中に飛び込んでいく未来が容易に想像できる。

 沈没船の音に紛れて離脱する作戦もとれなくはないが、危険が大きすぎる。こんな浅い海で最低7隻の護衛艦に蛸殴りにされ、その上で生還できると考えるほど自分は楽観主義者ではない。

 そして、最後の問題点として。


「残念だが、襲撃は諦めようか、先任。ここは、俺たちの役割に徹する事にしよう」


 若干の心残りを滲ませた艦長の言葉に、黙っていても汗が吹きだす発令所の熱気がガクリと下がった感覚を覚える。浴びせかけられた冷や水の名は、獲物を見逃すという無念か、はたまた危ない橋を渡らずに済んだという安堵か。自分は、どちらだろうか。


「司令部からの命令は偵察だ。敵艦を狩ってこいと言う命令は受け取らん。命の張り時は、此処では無いと考えるがどうだ?」

「同感です」


 艦長自身と発令所の乗員に言い聞かせるような言葉に相槌を打つ。

 そもそも、今回の出撃の目的はフィリピン攻略作戦に先立つ最後の偵察だ。

 『伊169』はこの後、マニラ湾を偵察したのち、タヤバス海、シブヤン海などのフィリピン内海を突破し、レイテ島などにも赴いて第五艦隊の為の情報を集めなくてはならない。

 ここで危ない橋を渡り、万一撃沈などされてしまえば、連合艦隊は目と耳を一つずつ失うことになる。一万トン近い戦果と刺し違えるか、唾と涙を飲み込んで任務に励むか、選択肢は有るようで無いも同然だった。納得するほかない。

 不満ではあるが仕方ないと納得の表情を浮かべる板倉中尉に、渡辺艦長「だろうな」と軽く破顔し聴音手へ振り返った。


「敵の針路と速度は?」

「敵針変わらず方位0-5-1、速度はおおよそですが4から6kt前後かと」


 報告を聞いた渡辺艦長の口の端が微かに吊り上がる。どうやら、何か思いついたようだ。


「先任。フラグレスの連中、機雷や防潜網をボカ・グランデ水道に仕掛けてると思うか?」

「マニラは奴らにとっても要所ですからね、あると踏むのが無難でしょう。これぐらいの深度に敷設する機雷は持っていると考えるべきです」


「そうか」と艦長が一つ頷き「では、道案内をしてもらおう」と言葉を続けた。

 その意味を察した発令所の部下たちの口の端に、艦長と同じような笑みが浮かび、先ほど静まった空気が再び熱を帯び始める。無論、自分の中にも。

 水中聴音機や水中探信儀等を装備した護衛艦は、今も昔も潜水艦の天敵だ。

 だが、護衛艦と言ってもあくまで艦で有る以上、推進には艦尾のスクリュープロペラを用いることは避けられない。どれだけ耳が良い護衛艦であっても自分の艦が発するノイズまでは如何する事も出来ず、艦後方の60度程度の領域は探知不可能となってしまう。

 例えそこに潜水艦が潜んでいたとしても、護衛艦は自らが発するノイズによって存在を察知する事が出来ないのだ。

 『伊169』は水中で最大8.3ktの速度を発揮でき、バッテリーを節約して3ktで航行すれば65海里を潜ったまま移動する事が可能だ。敵の速力を6ktと見積もっても、機雷や防御網が敷設されている可能性のある、ボカ・グランデ水道を通り抜ける間ならば問題ない。バッテリーが持たない場合でも、水道さえ超えてしまえば、着底して夜を待ち、日没後に浮上充電に移るなど、やりようはいくらでもあった。


「他に懸念点のある者は居るか?」


 渡辺艦長が周囲を見渡すが、手を上げる者は居ない。『伊169』の指針が決まった瞬間だった。


「では本艦は敵船団を追跡しこれよりマニラ湾へ突入する。なお、定時連絡はマニラ湾偵察終了まで無視だ。通信手がサボった訳では無いと報告はしておくから心配はするな」


 何処かほっとしたような、まだまだあどけなさの残る通信手が「了解」と返し、聴音手の「敵船団近づきます、感2から3」の幾分か緊張した声が続く。


「ネガティブ・ブロー、深度30に着け。全艦、直ちに無音潜航に移る。敵船団の通過後、機関始動。殿艦の直後に位置を取り、水道の突破を図る」

「ベント開け、ネガティブ・ブロー、深度30」


 無音潜航が発令され静まり返った『伊169』に、メインタンクへの注水を知らせる振動が走り抜ける。気泡が朝日を受けて煌めく海面へと昇っていき、光から逃れる様に鈍色の艦体が泡を纏いながら沈降していく。


「深度20」

「前後、トリム安定」

「敵針、速度共に変わらず。感3、接近中」


 命令や報告の伝達も、極力ハンドサインか、耳打ちの伝言で行われる。

 深度計の針が33を示した伊号潜水艦の外壁に、ややあって海水を攪拌する規則的な音が届き始めた。

 まず最初に、先頭を進む軽巡洋艦の4軸推進器が奏でる高速推進音。フラグレスにしてはかなりのヤり手なのか、スクリュープロペラの回転数を内側の2軸と外側の2軸で変えているようで速力を図ることができない。元から2軸推進の駆逐艦も、小さなプロペラを高速で回している関係で速力の判定は簡単とは言い難い。

 しかし、船団の速度は足の最も遅い輸送艦に合わせられるものだ。そして、たいていの輸送艦は推進器が一軸であり、大きなプロペラを低速で回すことで経済的な航行を念頭に置いている。

 逆に言えば、スクリュープロペラの翅の数が解っていれば、1分間に何回転したかを判定できた。スクリュープロペラは1回転で進める距離が凡そ決まっていることから、目標の速度を割り出すことができる。


「敵速4kt、深度変わらず」


 聴音手からの報告に渡辺艦長と軽く頷き合う。

 正直言って伊号潜水艦が水中を航行する時に発する騒音は、世界でもかなり大きい方だ。

 ドイツから来た武官がしかめっ面をしながら「あなた方の潜水艦は、ドラム缶を叩きながら航行しているのに等しい」と酷評したなんて噂も聞く。

 幾ら水中聴音機が真面に機能しない、推進器の後方に滑り込むとはいえ探知される危険は少ないことに越したことは無い。バッテリーを節約するという面でも、4ktと言う低速での航行は願ったり叶ったりだ。

 このまま、呑気に上を通過してくれ。

 等と祈ってしまったのが悪かったのか、あからさまに緊張した聴音手の報告が入る。


「敵軽巡増速!また左列の駆逐艦も増速し、我が方に向かいます!感3、いえ感4!」


 蒸し暑い筈の艦内に居るのに、背筋に氷で出来た短刀を突っ込まれたような感覚が走り抜ける。血の気が引くとはこのことだろう。赤い夜間照明の中、思わず艦長の顔を見てしまう。

 海上が急に騒がしくなる理由など早々あるわけではない。ましてや、虎の大名行列の横で息を潜めている最中の出来事だ。考えたくは無いが、自分自身が理由であるという最悪の可能性を考えてしまうのが軍人と言う生物だった。

 着底覚悟の急速潜航か、魚雷戦か、あるいは一か八かの浮上決戦か。

 なんにせよ、『伊169』に残された時間は長くない。このまま手をこまねいていれば、間もなく水中探信儀の硬質な音が響き渡り、続いて容赦のない爆雷の雨が降り始める。全長100mを超える大型潜水艦であっても、爆雷の水中衝撃波は2000tの鉄鯨を簡単に捻じ曲がった屑鉄へと変換するだろう。

 致命傷にならずとも、浅い海では爆圧によって艦が海面に押し上げられる事もある。海面に打ち上げられた潜水艦に、浮上砲戦の機会を与えるほどフラグレスは愚かではない。主砲、副砲、機銃に魚雷。およそ火器と呼称されるありとあらゆる火力が即座に襲い掛かるはずだ。

 刻一刻と迫る危機の中、渡辺艦長は其れでも落ち着き払った態度を崩さなかった。自身に集まる視線などないかのように、そっと聴音手に顔を向ける。


「聴音、輸送船団はどうなった?」

「は。針路、速度共に変わりません」

「艦長、如何されますか?」

「決まっているだろう、先任。動くな」


 手短な返答を最後に、自ら命令を実践して押し黙ってしまう。こうなっては仕方がないと腹をくくり、先任将校である自分も丹田に力を込めて息を潜めた。

 ザッ、ザッ、ザッ。と軍靴の音もかくやと、無数の推進器音が、一秒刻みに大きくなっていく。恐怖で焼き切れそうな意識の中、半ば現実逃避気味に艦長が何故増速した護衛艦では無く、輸送船を気にしたのだろうかと疑問が頭をもたげた。

 護衛艦を無視し雷撃を敢行、混乱に乗じて離脱するのであれば、即座にモーターを全速で回し180度回頭して決戦に移る筈だ。既に敵が我々を探知し増速したのであれば、もはや隠密行動の必要はない。『伊169』の持てる能力全てを解放することに躊躇う要素はないのだ。

 一体何を、と考えが堂々巡り仕掛けたところで、ふと違和感に気が付いた。

 最早騒音とすら呼べるほど近くにまで接近した敵の推進器音。これほどまで近くに来ているというのに、一度も探針音を海中に発していない。既にこちらを完全に探知している可能性も考えられるが、それにしてはこちらを包囲する動きも見せていない。

 戸惑っている内に、先頭艦のブルックリン級軽巡が頭上を通過し始めた。一万トンの艦体が海水を掻き分けた余波が静かに『伊169』を揺らし、乗員の神経を膾切りにするかのような推進音が前方へと通り抜けていく。

 続いて、駆逐艦のモノらしい二軸の高速推進音。結露が目立つ無数の鋼管がのたうつ天井から、ほんの十数mの海面に細長い駆逐艦が乗り入れ、威嚇するような推進音を遺してそのまま通り過ぎていく。

 実弾入りの拳銃でロシアンルーレットをやっている気分だったが、4隻目の駆逐艦が通過し、貨物船の何処かのんびりとした音が聞こえる段階になると、恐怖が困惑に変化し始める。増速した軽巡と4隻の駆逐艦が『伊169』を無視した不可解な事象に思わず首を傾げ、次の瞬間に「なるほど」と内心で膝を打った。

 この分であれば、後方から1列になってくるであろう4隻の駆逐艦も『伊169』にとっては全く脅威ではない。むしろ、災い転じて福となすとすら呼べるか。

 『伊169』が選択した行動の真意を悟り、思わず顔が綻ぶ板倉中尉は、若手将校の成長に満足げに目を細める渡辺艦長の視線に気が付くことは無かった。




 それからさらに数時間後、『伊169』は作戦通りボカ・グランデ水道を突破してマニラ湾への潜入に成功していた。道案内として利用した敵船団とは既に分かれており、カヴィテ半島から西へ20㎞地点の海中をゆっくり東へ向かっていた。


「それにしても、肝を冷やしました」

「俺だって、完全な確信があったとは言えんがね。まあ、貨物船に大きな動きが無い時点で十中八九大丈夫だとは思っていたが」

「考えてみれば当然ではありますね。――機雷の敷設された細い水路を通り抜けるのに、対戦警戒の陣は必要ありません」


 今思えば、あの時の敵船団の増速は入港前の陣形変更に他ならない。

 ただでさえ高い練度を要求される艦隊運動を、機雷の敷設された狭い水路の中で行うというのは自殺行為に等しく意味もない。そもそも、敵艦の侵入を防止するための機雷源だ。その真っただ中で警戒態勢を敷き続けるほど無駄なこともないだろう。

 だからこそ、敵船団は先頭の巡洋艦と左舷側を警戒していた駆逐艦を先行させ、右舷側を警戒していた駆逐艦を船団の後方に着けることで単縦陣に陣形を変更したのだ。『伊169』はたまたまその場に居合わせてしまったに過ぎない。

 渡辺艦長の冷静な判断が『伊169』と68名の命を救ったと言える。


「そう言えば、板倉中尉。第五艦隊に貴様の同期は居るのか?」

「ええ、いますよ。例えば『扶桑』砲術長の有瀬中佐とか」


 海兵で同じ釜の飯を食った同期の桜を思い出す。航空派の連中からずいぶんと悪し様に言われながらも、自分の信念を曲げなかった男だ。クラス会で顔を合わせる機会もそこそこに在り、相変わらず退屈しない日々を送っていると聞いている。

 渡辺少佐は、自分の口から戦艦の砲術長の名前が飛び出したことに、少し驚いたようだった。


「ほう、その年で中佐ってことは特急士官か。俺も貴様も、海兵61期の奴にもう抜かされちまったな」

「ですが、あまり良いことばかりでは無いらしいですよ。若い分、実力で黙らせないといけない世界な上に、何処に行ってもやっかみの的だと」

「実力で黙らせるほど能力があるから、砲術長まで登れたのだろうよ。面の皮もその分分厚いに違いない」

「仰る通り、長門型の防盾よりも厚いヤツですよ」


 ほぼ同時に苦笑いを浮かべた。あの男ならば、たとえ相手が将官でも委縮するなんてありえないだろう。前檣楼の射撃指揮所で、のんびりと咥え煙草を揺らしながら軽口の一つでも飛ばしている姿が容易に想像できる。

 自分とは異なる道を選んだ男が、半月後には今自分が居るマニラ湾へ足を踏み入れるのだと思うと、なんだか不思議な気分だった。今頃、アイツは故国での最後の日を惜しんでいるのだろうか。

 潜望鏡を除いて外界を確認していた次席士官が疑問の声を上げたのは、そんな時だった。自分が反応するよりも早く、渡辺艦長が新任士官へと歩み寄る。


「レガシーナインでも停泊していたか?」

「はい。いいえ違います、艦長。その、何というべきか……」

「どうした、報告はハッキリしてくれ」

 

 煮え切らず、要領を得ない返答に艦長が何か言う前に思わず口を挟んでしまう。曲がりなりにも”実戦”を掻い潜っている中で養われつつある勘が、彼と同じようにあいまいな警鐘を鳴らしたからだった。


「申し訳ございません、先任。報告します、コレヒドール島の標高が変わっています」

「は?」

「端的に言えば、100m近く盛り上がっています」

「なんて?」


 予想外にもほどがある報告に素っ頓狂な声を上げる艦長と先任士官に、次席士官は困ったように眉尻を下げつつ潜望鏡を譲るのだった。






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