16th Chart:ビルジ

 丑の刻が去り寅の刻へと差し掛かる、深夜と早朝の間。

柱島泊地に停泊した鋼鉄の城塞群が、打ち寄せる波の音の中で、おぼろげな檣楼の影を甲板に伸ばしている。

 寝静まった防人たちの砦の中で一際目を引く巨艦。昼間は将兵の怒声が飛び交い、今は静寂が満ちているはずの甲板に、足を踏み出す影があった。

 月光に照らされ淡く光を放つチーク材を踏みしめ、舷側に近づいた青年――有瀬一春は不意に振り返ると、今しがた出てきた乗艦を見上げる。天守閣と言うよりも違法建築の鉄塔を思わせる艦橋は、暗い空を背景に何処か廃城の様なもの寂しさに溢れていた。

 出撃まで、あと二日弱。何かを言いたげな青黒い瞳から逃れる様に、蕎麦屋の前で「じゃあまた」と手を上げて足早に去ってしまったことに対し、今更ながらに後悔の念が襲う。

 仮にも家族と呼べる共同体だというのに、ともすれば最後の別れになるかもしれなかったのに。あの時、彼女がどんな表情をしていたのか、今となっては鮮明に思い出すことすらできない事に気が付いた。

 永倉永雫、幼馴染であり同居人にして妹分。


――アレの、永雫の事をどう思っておるのだ?

――ならば、聞き方を変えるか。手前自身は、どう思っておるんじゃ?


 二人の先輩からの声が、自分を責め立てる様に脳内に響く。逃げることは許されず、甘んじてその言葉を反芻する他無い。

 まったく、どうしてこうなったと自嘲の笑みすら漏れる始末だ。お世辞にも平坦とは言い難い自分の人生が、いつしかサビついた番線の様に捻じ曲がり、雁字搦めになってしまっている。

 内心の黒々としたものを整理しようとするが、どうにも考えが堂々巡りに陥りがちだ。タールをこねくり回して何かを作ろうと躍起になっているかのような、徒労と虚無感。唯一、冷たい夜風だけが言い知れぬ焦燥に似た熱を奪ってくれるのが救いだった。

 そのまま数分、益体も無い問題で時間を浪費する贅沢を味わっていた時だった。不意に、柔和な響きを帯びた男の声が底冷えのする夜気を渡ってきた。


「秋陣営、というにはちょっと遅いかな」


 まさかこんな時間に声を掛けられるとは思わず、思わずぎょっと肩を怒らせてしまう。慌てて体裁を整えながら声のした方へ眼を向ければ、第二砲塔横の影の中から見覚えのある長身の男が足を踏み出すところだった。

 年のころは30代前後で、襟もとに光る階級章の下地は赤黒い。

 首から下は”スマートな海軍軍人”と言う言葉がよく似合ったが、何分その上に載っているのがよく言えば人懐っこく、悪しざまに言ってしまえば気の抜ける顔と表現出来るため、どうにも軍人特有の凄みが著しく削がれている。

 しかしそんな風貌とは裏腹に、操艦術に関しては大ベテランでも舌を巻く技量を持つ傑物だった。また、有瀬にとっては例の報告書の作成には松田大佐に次いで世話になった人物でもある。

 戦艦『扶桑』航海長兼副長――栗栖クリスヒロシ海軍中佐。

 標的艦『摂津』時代に時折相談に乗ってもらい、『扶桑』乗り組み以降は何かと特殊な戦艦を操る技術を現在進行形で叩き込んでいる男。ある意味で操艦術の師匠とも呼べる人物だ。


「本艦は荒城コウジョウに見えますか?副長」

「ははは、この時間だと荒城というより幽霊屋敷っぽいけどね」


 しかし、何ともそのゆるふわっとした笑い方は、見ている方が脱力する感覚を生起させる。

 本人は空母でも通用する技量を持ちながら、あれよあれよと言う間に戦艦勤務になった理由を「いやぁ、航空派からは気の抜ける男は要らんとか言われちゃってさ」と嘯いていたが、この様な風体を目に入れるたび、それが真実の様な気さえしてくる。

 正直に言ってしまえば、物々しい鋼鉄で形成された航海艦橋よりも、木漏れ日の当たる尋常小学校の教壇に立っているのが良く似合いそうな人物だった。


「それで、どうしたのかな?こんな時間に。まだ総員起こしまでは時間がある筈だけど」

「どうにも眼が冴えてしまいまして、夜風に当たればマシになるかと思ったんですよ」

「夜の甲板に一人で出るのは感心しないけどね」

「当直士官に話は通してありますので。もし落ちたら盛大に笑ってくれます。それに、一人で出ているのは副長も同じでは?」

「副長の任務の一つは戦闘能力の維持だし、夜間の巡回は重要な日課だからね。だからこそ、何か抱え込んでいそうな砲術長を捕まえることができたのさ」


 クスクスと笑う栗栖中佐に苦笑いが浮かぶ。

 風貌自体は緩いが、これでもその若さで中佐にまで駆け上がり、帝国海軍に4隻しか存在しない戦艦のNo.2に収まった男だ。無能と言う評価からは縁遠い。


「カウンセリングも趣味の一環ですか?」

「そうかもしれないね。気軽にできる分、結構重宝するよ。軍医長はまたむくれそうだけど」


 そう言えば彼は、元々医者になりたかったと聞いた事があることを思い出す。

 貴重な甲種適正者と言う事で軍へと入ったものの、医学の勉強自体は続けているらしく、彼の居室には医学書が山積みになっているらしい。軍医長の『副長の看板おろしてコッチ手伝ってほしい』と言うボヤキは『扶桑』乗員にとって耳慣れたモノでもあるし、事実簡単な問診ならば、彼に丸投げしている節すらあった。

 また、その人柄ゆえか将兵の相談役になることも多く、彼の居室は『扶桑精神診療所』などと揶揄されていたりする。当の本人は「ただの愚痴聞き役さ」と笑っているが、悪い評判は聞いたためしがなかった。


「君も実感している通り、同調金属を使っての操艦行為は、精神状態が大きな影響を及ぼす。実戦が近づいている今、砲術長の精神状態が万全でないのなら、何とかしなくちゃと思ってね」


「まあ、座って話そうか」と近くの甲板から二つ突き出した繋船柱ボラードの方へ顎をしゃくり、促されるままに腰を下ろした。


「……」

「……」



「…………」

「…………」



「……………………」

「……………………」



「…………………………………………」

「…………………………………………」



「……………………………………………………………………………………」

「……………………………………………………………………………………」



「…………いや、何か話すんじゃないんですか?」


 野郎二人が繫船柱に腰かけ、舷側に当たる波の音を無言で聞くという拷問に耐えきれなくなり、思わず問いかけてしまう。

 当然の様に自分にそっちのケはなく、この副長にもない筈だ。……見た目自体はその筋の方々に受けやすい様な気がしないでもないが。


「何かとんでもない評価を付けられているような気がしてるけど、一端忘れておこう。――勿論、話すとも。いや、話してもらうとも」

「僕が?」


 予想外の台詞に怪訝な目を向けてしまう自分に、柔和な表情を浮かべる男は「うん」と小さく頷き言葉を続けた、「だって、迷っているのは君じゃないか」と。


「グッチャグチャの物置を整理する時に、中に入って扉を閉めて整理するわけでは無いだろう?普通は一端全部外に並べて、要不要を選別して改めて詰め込むはずだ。精神の問題だって同じだよ」


 確かに、副長の言葉は道理だ。

 問題の主――患者は自分の内面である以上、変化を起こすには自分自身が行動を起こさなければならない。が、所詮自分は医者では無い上に、胸中に蟠り蠢く”つかえ”の様なものの正体を未だにハッキリと理解できていない。何を話すべきか見当もつかなかった。


「話の内容は気にしなくていい、上手く話す必要は全くない。脱線上等、遠回り歓迎。夜はまだまだ長いよ。話したいことを話してくれればいい、汲み取るのが私の役目さ」


 首をひねる自分に対し「どんとこい」と胸を張る姿に、思わず苦笑が漏れた。どうやら包容力と言うのは、見かけだけに比例するモノでは無いらしい。

 ではまずは世間話でも、と言う腰の引けた意識とは裏腹に、口からこぼれていったのは、『扶桑』の艦橋で渋木艦長に語った、【あの日】の記憶だった。


「関東大震災の時、未だ……」




 それから一体、どれほど言葉を続けたのだろうか。

 壮絶な、文字通り身を焦がしたはずの体験談は、冬に腰までつかった夜風のせいか坦々と口に上っては暗い海に吸い込まれていった。

 あの時、『扶桑』の艦橋で渋木艦長を相手にした時の様な――これまで自分の体験を話すときに、例外なく発生する不快な血の高ぶりは無く。それこそ世間話程度の心境と言っても良い。

 隣に座った副長は、特に感想を言うわけでもなく時折頷きながら、拙く、とりとめもない自分の過去に耳を傾け続けていた。


「まあ、結局の所。彼女を妹分の同居人と思いたがってるのは――自分自身です」


そうして何かの拍子に、手元が狂って猪口から酒が溢れるような感覚で、ぽつりと言葉本音が零れ落ちた。


「――そうしておけば、自分が死んで彼女が誰かと一緒になっても、諦観として受け入れられる。今後も続いていくだろう彼女の幸福に、僕自身の死と引き換えに願えるはずの未来に、嫉妬なんて馬鹿な想いを向けずに済む」


 特に何も意識せず吐き出した言葉本音の意味を一瞬遅れて理解し、思わず口を噤む。それまで、頑丈に封鎖していたはずの水密扉から、不気味な雫が滴ったような感覚だ。

 ああ、言葉にしてしまえば何と低俗で、見苦しい想いなのだろう。帝国海軍軍人、有瀬一春。化石の天才などと嘲笑される貴様の仮面の下に、よくもまあ之だけ醜悪な代物をこさえたものだ。恥を知れ。

 言葉にすることで漸く自覚し、否応なく受け入れる他無い内面に、膝の間で組まれた両手に知らず力が入る。浅黒く焼けた手の節が白く染まり、ミシリと骨が軋む音が手首に伝わった。


「蓋を開けてみれば、なんとも――栄えある帝国海軍軍人らしからぬ本音で、死にたくなってきますね。野郎の執着心やら嫉妬なんて、汚水ビルジよりも性質が悪くて陰湿だ」


「一つ、言行に恥づるなかりしか」粘着いた本音を口から押し流すように、海兵に入ったころから何度となく繰り返した戒めの言葉を吐き出す。


 一つ、至誠に悖るなかりしか


 一つ、言行に恥づるなかりしか


 一つ、気力に欠くるなかりしか


 一つ、努力に恨みなかりしか


 一つ、不精に亘るなかりしか


 海軍兵学校61期生の一人として研鑽を積んでいた時間の中で、最も長く校長を務めていた松下少将が初案した五省。「伝統になじまない」とあまりよく思わない人々もいたが、個人的には自戒の言葉として使う事に抵抗はなかった。

 眼鏡をかけた堂々とした体格の提督は、今の自分を見てどう思うだろうか。ご立派な建前の奥に、重油と垢と汚濁の混じった汚水をこれでもかとため込み、見ないふりをしていた自分を。いや、そもそも木っ端候補生の一人や二人、目に映る筈も無いか。


「でも、至誠にもとるわけではないんじゃないかな?」


 そんな中で、あっけらかんとした物言いが隣から飛び込み、おもわず視線を向ける。当の副長は、花火でも見物するかのように、閑散とした『扶桑』の艦橋を見上げていた。


「執着心や嫉妬と言えば、そりゃ聞こえは悪いさ。けれど裏を返せば、そんな感情を抱くほどに君は彼女を大切に想っている。その感情の根底で、自分の幸福よりも、彼女を守ることを優先している。フラグレスという物質的な物は勿論、自分自身の醜い心、なんて彼女が知る筈もない代物からもね。――自身を贄に他者の安寧を願う、これが至誠真心でなくて何と呼ぶ?」

「物は言いよう、と呼ぶのでは?」

「事ここに至っても、あくまでも己を恥じ、そんな台詞が吐けるのなら。捨てたモノじゃない。君、案外潔癖症だったりするんじゃないかな?」


 くつくつと揶揄うように笑いをかみ殺す副長に「ああ言えばこう言う」なんて言葉が頭に上るが、今の自分が言えたことではない事に気が付く。「あいにく、ベッドメイクの出来は中の下でした」と、子供じみた反撃混じりの軽口を突き返すが、「それは結構、私は最後までヘタクソだった」と相変わらず気の抜ける笑顔と共に受け流された。

直後、栗栖の顔から笑みが消え、真剣なとび色の瞳が不意に自分を貫いた。


「――ここで一つ、君自身の事実を認識しておこうか。君は、彼女に対して同居人以上の感情を持っている。もっと直接的に言えば、愛している――何か反論は?」


 反論を口にするには、遅きに失している。

 見ないふりをしようとしていた本音は、既に意識下へと渦を巻いて侵入し溢れかえっている。この醜悪な汚水を、なおも否定し続けることは可能だが、空虚な言葉を並びたてたところで惨めな気分になることは解り切っている。

 何かを意識する前に、己の首は観念したように項垂れ左右に振られていた。


「無論、君が彼女に余計な疵を遺したくないって言い分も解る。――私もね、妹を亡くした時は随分と塞込んだものだ」


 初めて聞いた話に、ハッと顔を上げて栗栖をまじまじと見てしまった。自分の視線に気が付いた副長は「大体20年前、流行病でね」と寂しげに口角を上げて話を続ける。


「当時は、条約が施工されて日が浅かった。民需産業が活気づくのはもう少し先の事で、医薬品も医者も足りていなかったんだ。見よう見まねで、民間療法を試したりもしてみたけど、日に日に衰弱していくあの子に、私は――最後まで手を握ってやることしかできなかった。」


 口さがない者からは『昼行燈』と揶揄される男の顔に、今この瞬間だけは言いようのない苦渋が満ち満ちている。夜空から手元に落とされた副長の視界には、手袋に包まれ軽く開閉を繰り返す手と共に、小さな手が映っているに違いなかった。

 一瞬で家族を失った自分とは異なり、彼は、目の前で家族が息絶えていく姿を見ていた。自分と同じ種類の経験では無いが、その苦痛は察するに余りある。


 ――人は誰かを遺して、いつか死ぬ。残されたモノの慟哭を聞くこともなく、時には想像する暇もなく


 ふと、以前口走った台詞が脳裏をよぎるが、「でもね」とそれ迄よりも幾分明るい副長の声に夜の甲板へと引き戻される。


「この苦い思い出も、あの子が遺してくれたモノに変わりはない。私の中に有る、それまでの思い出や【あの日】に芽生えた悔恨も絶望も全て――あの子がたった数年だけでも、私と共に生きてくれた証だ。それは、君も変わらないだろう?」


 言葉が出なかった。

 全てが焼け、海に飲まれたあの日から、自分の中で燻ぶり焦がし続けている火の向こう。確かに、謳歌していた日常が確かにあった。輝かしくなんてない、特別なことなんて滅多に無い、只の10にも満たない子供の、何の変哲もない日常が。

 忘れることなど、出来るはずもない。否定する部分など、ある筈がない。――家族も、友人も、親戚も、あの日あの時まで、確かに自分と同じ世界を生きていた証だ。


「死んでしまった本人は、遺族の慟哭を聞くことは無い、友人知人の思いを理解することは無い。けれど、遺された人の中に、それでも遺る物はある。少なくとも、私はそう信じている。信じているからこそ、軍人なんて阿漕な商売を続けていられるんだ」


 強い人だ。自然と、そんな感想が浮かんだ。

 否、強いからこそ、他者をおもんばかる余裕が産まれているのだろう。そしてそんな稀有な人を上官に持ち、気に掛けられていながら、未だにウジウジと悩み続ける自分に、いい加減嫌気が差して来始めた。

 なお押し黙る自分に、副長は「もしもの話をしよう」と指を立てた。


「もし想いを伝えた結果、彼女に拒絶された場合。君は、彼女を想う事を止めるかな?」

「――止められるのであれば、当の昔に割り切れてますね」

「じゃあ、殺すか無理心中でもするかい?」

「それも趣味ではありません」

「ではフられたらどうする?」

「何も――自分の命を如何使うかぐらいは決められます」


「それが結論だよ」からりとした、秋空の様な笑い声が耳朶を打った。


「君の抱く想い願いは、他者に受け入れられる事を必要としない、一方的な、それこそ独りよがりな奉仕とすら言える。だけど、裏を返せば干渉されない分強靭だ。受け入れられれば寄り添い、拒絶されれば距離を置くだけ。彼女の安寧を守る、という中心がブレることは無い」


「買いかぶりすぎだ」と言う反論が頭に浮かぶが、では、実際に自分がそんな状況になったらどんな行動をとるだろうかと一瞬考えてしまう。

 そうして、副長の言葉に概ね則してしまう事に気が付き、我ながら、なんと単純で融通の利かない精神構造だと呆れてしまった。


「そう言えば、有瀬君。今日、彼女とはちゃんと話をして来たかい?」

「まあ、それなりには。『扶桑』に戻る前、昼食を一緒に取りましたよ」

「大方、何を言うべきか迷って、そそくさ別れて来たんじゃないかな?」


 思いきり図星を突かれて、思わず頬が引きつった。まさかとは思うが、物陰から見ていたのではなかろうか。こちらの混乱を見透かした鳶色の瞳に「やっぱり」と呆れの色が浮かんだ。


「それが心残りになっている一番の勘所だね。これから靖国に行くかもしれないのに、銃後に魂を置いていってどうするのさ。艦長と守衛には私から話を通しておくから、明日の出陣式の間にちょっと抜け出して、清算してきなさい」

「清算と言われましても、まさか何処に行くかなど言えるわけでもないですし」

「別に面と向かって何か言えと言うわけではないさ。言うならばケジメだよ、重要なのは言語化して出力することだから、家の門扉の前に立って、さっきみたいに思いついたことを呟くだけでいい」


「それなら『扶桑』の空き倉庫で済ませても良いのでは?」と口にしてみるが、「君の想い人は『扶桑』に居るのかい?」と真顔のド正論が返ってくる。彼に似つかわしくない強硬な一面が垣間見え、頭の片隅で驚嘆する。


「言葉ってのは対話だけに使う物じゃない。頭の中にある無意識の想いやら感情を、意識下に引っ張り出す時に、僕らは言語を使っている。形の無い靄の様な概念を言語と名のついた箱に詰めることで、ようやく頭と心の中で整理が出来るのさ。君もさっき、つらつらと言葉にしたことで、本音を言語化して認識する事が出来たじゃないか。それを、もう一度やるだけの事だ」


 確かに、自分の中に有った不定形のドス黒いものを、【醜い】と言うラベル付きではあるが言語化して整理する事が出来た。ならば、今もまだ胸に残り続けている蕎麦屋の前でのシコリを、この呉の家に置いてくることができるかもしれない。

 どうせ想いを伝えようが、それでもなお押し隠そうが、自分がやろうとすることに変わりがないことは解ってしまったのだ。それでもなお、こんなバカらしい失態を抱え込み続けるのは愚かしいにもほどがある。

 自分の内面の変化に気が付いたのか、副長は初めて満足げな笑みを浮かべて見せた。


「うん、まあマシな顔になったかな。一つ忠告だが、いろいろと盛り上がって、出航時刻に間に合わないなんてことは止めてくれよ」


「様々な意味で、鬼の形相の宇垣少将に絞殺されますね、それ」と肩を竦めて見せれば、立ち上がって背伸びをする副長は「黄金仮面が鬼の顔か、小沢さんも驚くんじゃないかな」と冗談めかして笑う。

 気が付けば、東の空に徐々に紫紺が滲み始めている。どうやら、随分長い時間話し込んでしまったようだ。自分も体を伸ばしがてら立ち上がり、ふと思いついた疑問をぶつけてみる。


「一つお伺いしたいことがあります」

「なんだい?」

「副長、貴方は何故、僕にここまでしてくださるのですか?」


 特になんてことはない、純粋な疑問だ。しかし此処までの話や出陣式の件など、妙に心を砕いてくれる点に関して、不信感には届かない程度の戸惑いを覚えていたのも事実だった。

 無礼にも当たりかねない自分の問いに、副長は平素の”ふにゃり”とした気の抜ける表情を浮かべて見せる。「そんなの、死にたくないからに決まってるじゃないか」と。


「最初にも言ったように、各科長の精神状態は操艦に大きな影響を及ぼす。副長として、艦の生存の為に出来ることが有るのに、見逃すほど怠惰ではないつもりだよ」


「まあ、結局は打算さ。失望したかい?」などとバツが悪そうに頬を掻く副長に、感謝よりも笑みが先にこぼれてしまう。だから、貴方は軍人よりも教師に向いているのだと。


「まさか。単なる親切心よりは、よほど信用がおけますよ。――お土産は必要ですか?」

「そうだねぇ。できれば惚気話の一つや二つを持ってきてくれれば、航海中に退屈しないんだけど。砂糖の節約になるからね」

「帰りがけに角砂糖でも買ってくることにします」


『扶桑』にとって、故国で過ごす最期の週末が始まろうとしていた。

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