13th Chart:【浅間】にて
11月14日 呉市内 蕎麦処【浅間】
呉軍港と自宅のちょうど中間地点に位置する【浅間】は、子供のころからの行きつけの蕎麦屋だ。永倉の家に転がり込んだ後も彼女の両親に連れられたり、後見人の黄金仮面にご馳走になったり、また一人でも足を運んだりと、考えてみれば随分と長い間足繫く通って来たように思える。空いていれば決まって腰を下ろすカウンター端の一角は、もはや指定席と呼んで良いかもしれない。
「板わさと厚焼き玉子、蕎麦がき。締めに天ぷら蕎麦」
「かき揚げ丼特盛と天ぷら蕎麦、蕎麦にはイモ天とちくわ天も付けてくれ。あと冷で一本」
苦笑い気味に厨房へ戻っていく馴染みの店員をよそに、隣の彼女はすまし顔のまま頬杖をついた。つらつらと流れた注文の内容に「昼から重くないか?」と思わず出てしまった自分のボヤキは、いつも通り華麗に無視されてしまう。
暗い色の着物と女袴、そして薄い浅葱色の羽織に身を包んだ細身の体の何処に、アレだけの量が入るのだろうか。古くからの疑問への解答は、相変わらずその糸口すら見いだせ無かった。そもそも、ワシントン工廠条約に続く農業改革で、食料自給率の劇的な改善が見られていなかったら、彼女は生きていられたのだろうか?
「夜があまり食えんからな。今のうちに楽しんでおいて損はあるまい」
「今回も、一応夕食会も兼ねているんだろ?」
やれやれといった風に華奢な肩を竦め、「名目上はな」と番茶を啜る。
「実状は貴様も知っての通り意見交換が主だ、此処のように満足に食えるような席ではないだろうさ。それに……ああいう格式ばった料理はちと苦手だ」
貧乏舌と言うわけではないが、食事の内容よりもそれを取り巻く空気に抵抗を感じるらしい。
気品のある料亭で懐石料理に箸をつけるより、この場の様な近所の蕎麦屋で豪遊する方が性に合っていると言い換えてもいいだろう。
番茶がやや熱かったのか、少し眉顰めながら紺碧の瞳が壁の時計を見上げる。短針は11という文字に重なりつつあった。昼食時にはほんの少し早い時間帯だろうが、客の入りは上々で、周囲を見渡せば既に席は埋まりつつある。
「それで有瀬、時間は大丈夫なのか?」
「ああ、午後一の内火艇で戻る予定だからノンビリ食っても十分間に合う。できれば1日ゆっくりしたいが、艦に残った栗栖航海長に、あまり面倒をかけるわけにもいかんだろう。――上層部の方は居づらいし」
「それが本音だろ、この薄情者」
曇りの残るレンズ越しに放たれたジトっとした目を、それなりに厚い面の皮で跳ね返す。本日午後8時より、呉市内のある料亭で勉強会――甲鉄会の会合が開かれる予定であり、そこには永雫も呼ばれていた。
出席するのは、甲鉄会総裁の伏美宮殿下を始め、主だった者だけでも。
舞鶴鎮守府長官、
呉鎮守府長官、
第5艦隊長官、
連合艦隊参謀長、
海上護衛総隊司令、
同参謀長、
同作戦参謀、
大阪帝国大学理学部長、
などなど、甲鉄会に協力する高級将校や技術者が一堂に会する事になる。
主な議題は航空偏重の軍備を推し進める現状が、はたしてこの国の状況に見合ったものなのかどうか、転じて、捨て去られた大艦巨砲は本当にそのまま風化させるべきものなのかの討論。また、近年徐々に被害が増しつつある海上護衛戦における意見交換だ。
不定期に開催される会合であり、最前線や要職から外されつつはあるが、軍内に対して未だに一定以上の影響力を保持している大艦巨砲主義者や水雷屋達の、最後の砦とも言えた。
またそういった上層部の会合とはまた別に、特急士官や艦長の集中する佐官クラスの懇親会も同時に行われる。こちらは上層部のモノとは異なり、単なる飲み会と言う面が強いが、それでも出席者の多くは海上護衛隊に籍を置き最前線を駆け巡ってきた猛者達だ。内地でくすぶっている甲鉄会派の将校には得難い経験を無数に持っていた。
しかし、本来ならば佐官クラスの懇親会に出席するはずの有瀬は、この会合においてしばしば上層部の方へ出席する羽目になっていた。
初めて会合に出向いた際、先に甲鉄会に入っていた永雫に魔窟への道連れとして選ばれた結果、かねてから彼の能力に興味を抱いていた伏美宮殿下に、本格的に目を付けられたのが原因だった。「天才とはいえ永倉技師もまだ若い、爺共の魔窟には同年代の護衛の一人でも居なければ心細かろう」とニヤニヤしながら同席を求めた――命令どころかもはや勅令に等しかったが――面長の皇族をよく覚えている。
「道連れなら奥井技師が居るだろう?」
「奥井か……」
困ったような顔の有瀬に、永雫が露骨に眉を顰める。
中島飛行機特殊航空機研究班、
甲鉄会に協力する中島飛行機の重役の手引きで参加した男であり、同年代の天才技師と言う事もあって、永雫とも積極的に交流している。優男然とした明るい好青年で、社内では結構な争奪戦になっていると噂されていた。
しかし、表情を見る限り彼女からの異性としての評価は余り高くはないようだ。不機嫌そうな顔を浮かべたまま料理と共に運ばれてきた徳利から手酌で注ぎ、無言のまま猪口を傾ける。
「そこまで悪くはない選択だとは思うけどな」
「それを決めるのは私だ、貴様じゃない」
板わさを摘まみながら投げかけてみた言葉は、冷たく堅い返答に打ち砕かれた。紺碧の瞳は微かに怒りすら込められて細くなり、苦笑いを浮かべる海軍士官へと向けられる。
「それは失礼。でも、憎いわけでは無いのだろう?」
「鬱陶しいだけだ。頭の出来は認めている」
吐き捨てるような言葉と共に首を横に振り、湯気の立つ厚焼き玉子を頬張る。卵の味を潰さず、互いに高め合うように考えられた出汁が加わった逸品だが、あまり堪能している風ではない。猪口に残った冷酒で余韻ごと流し込むと、アルコールの残る溜息を吐きながら言葉を続けた。
「KA-5は確かに良く出来たものだし、その技術も腕も大したものさ。それに次のKA-6が飛べば、井上本部長も
中島飛行機が所有する飛行場で、試験を繰り返している特殊航空機の事は有瀬も聞いており、その実状もある程度は知っている。永雫から件の航空機の写真を見せられた時は思わず眩暈がしたものだが、現状実際に飛んでいるのだから受け入れる他無かった。
試作カ-五号哨戒機、離昇600馬力を出力する寿Ⅱ型改を心臓に持つ航空機であり、海上護衛総隊と中島飛行機が正式採用に向けて改良を繰り返している、ミサゴ計画の成果の一つ。
その最たる特徴は従来の固定翼航空機では無く、出力軸に直結したメインローターとテイルローターをもつ回転翼機であるという点だった。
特に試作カ-五号機の姿はユニークであり、マッコウクジラの頭に似たガラス張りの操縦席の後ろに、トンボの様な細長い尾部が突き出した姿をしている。写真を見た有瀬が、内心でアメリカから苦情来ないよなと冷や汗が流れるほど、カ-五号の姿は【記録】の中での戦後航空機、
「だが、それとこれとは話が別だ」
タンッ、と子気味良く猪口を卓に戻した永雫がそれまでの評価をバッサリと切り捨てる。酒が入ったからか、それともまた別の理由か、白磁の様な頬は微かに朱が指しているように見えた。
「聞けば、あの男は会社の内外問わず引く手数多で、しかもまんざらでもないという話じゃないか。どうせ、遊び歩いているに違いない。アイツのモノになるくらいなら、一生独り身で結構」
「アレだけの計画を引っ張ってるんだ、遊び歩けるほど暇があるようには見えないけどな。今のうちに唾を付けておきたい者達の、牽制合戦の結果だと思うけどね。君自身、彼の相談には気前よく乗っているんだろう?」
「必要だからな。私が既に手一杯な以上、向こうは向こうで進めてもらわないとやってられん。艦の性能を劇的に上げようとしているんだ、何時までも
「何度言えば解るんだ?」と吊り上がった目が隣の海軍士官を射抜く。
機嫌は際限なく急降下を続け、周囲の気温が3度は下がったような底冷えのする怒りが伝わってくる。その威圧感は、新兵ならば思わず道を開け、歴戦の将校であってもそれとなく道を譲るに違いない。
対する有瀬は、”ああ、また失敗したか”と彼女に気が付かれないように息を吐くだけだった。
奥井技師が永雫に想いを寄せているらしいと言う事は、以前に王から聞いていた。そんな中、一度だけではあるが甲鉄会の会合で話をする機会があった。
最初は若干警戒されたものの、話してみれば技術者としての熱意にあふれた、真っ当な価値観を持つ好青年で、彼女に対し純粋な憧憬を抱いている印象を受けた。憧憬が何時しか恋慕に代わると言うのは小説でも使い古されたネタで、酷くありきたりな――言い換えれば妥当な変化と言えるだろう。
一方、一体彼の何が彼女にとってそんなに気に入らないのかについては、未だに良く解っていない。性格的には確かに似通ってはいないが、そこまで忌避するほど乖離しているようにも見えない。
もしかしたら、彼女自身も何故自身がそれほどまで奥井技師の事を嫌っているのか、言語化できていない可能性も十二分に存在してしまうのだが。見え透いた虎の尾を踏む気には成れなかった。
それらの考察とは別に堆積している内心の奥深くに蟠る黒々とした想いに厳重な蓋をし、この場でこれ以上突くのは辞めておこうと結論付ける。
後どれほどの時間が自分に残されているのかはハッキリしていないが、事を急ぎすぎて何もかもが無駄になるのは良くある話だった。
「はい、お待ちどう。かき揚げ丼と天ぷら蕎麦二つね」
丁度良く、馴染みの店員が盆に蕎麦と丼を持って現れる。
躊躇いなく自分の前に天ぷら蕎麦が、永雫の前にはちくわ天とイモ天が追加された天ぷら蕎麦と巨大なかき揚げが目を引く丼が置かれた。
上陸を許可された海軍将兵も良く顔を見せる蕎麦屋らしく、その量は半端なモノでは無い。しかし、当の本人は特に驚いた風でもなく、玉ねぎやニンジン、小エビ、ゴボウ等がまとめられたキツネ色のかき揚げに、念入りに息を吹きかけた後、温度を確かめるように控えめに齧り付いた。
「そう言えば、中佐殿。12月の頭に『扶桑』はフィリピンをやるって本当ですか?」
「っ!んげほッ!?げほっ!」
「随分ハッキリ言い切るな。どこで聞いたんだ?」
親父が陸軍出な事もあり階級に「殿」づけで呼ぶ店員に興味深げな目を向けつつ、思いきり咽た同居人の背中を摩ってやる。当然と言えば当然だが、彼女に『扶桑』が出撃することは全く言っていない。それにしても、驚きすぎだろうとは思うが。
「いやいや、もう町中その話で持ち切りですよ!海軍さんに何とかしてもらわないと、来年の冬は越せませんからね!フランスとベネルクスがごちゃごちゃ言ってるそうですが、連合艦隊に掛かればフラグレスとまとめて鎧袖一触!そうでしょう?」
若者らしい純朴さで興奮したように捲し立てているが、その根底にあるのは明確な【不安】だろう。
バクー油田陥落、それに続く石油供給停止の報は既に民間にも知れ渡り、連合艦隊が南方資源獲得に向けて作戦行動を起こすらしいという噂も、仏白が強硬に反発しているという情報も出回っている。
之まで度々紙面の端を彩ってきた海上護衛総隊では無く、それを凌駕する極東アジア最強の艦隊。世界に先駆けて、いち早く航空機主体の軍備に転換した新進気鋭の軍勢に掛けられる期待は生半可なモノでは無い。
それが、
数瞬考えを巡らせた有瀬だったが、軽く首を横に振って「そう言う事は、口に出すべきでないよ」と諭すように呼び掛ける。
「得体の知れない幽霊共や我々を見捨てた諸外国の間諜が、近くに浸透していないという保証はどこにもないんだ。軽々しく軍の作戦を口に出すことも、広げることも、慎んだ方がいい。敵を知り己を知れば、という故事があるが、わざわざ知らせてやっては世話無いだろう?我々の業界では、それを利敵行為と言ったりするからね」
利敵行為と言う剣呑な響きに「し、失礼しました」と店員が青ざめる。当の本人は「少し脅かしすぎたか」と小さく笑い、気にするなとでも言う様に軽く手を振った。
「結構。次からは気を付けてくれ、馴染みの店員が特高にしょっ引かれたなんて聞きたくないからね」
「以後気を付けます、中佐殿」
「殿は要らないんだけどなぁ」と以前から突っ込み損ねてきた点を、厨房へかけていく背中へ零したとき、右の袖が引っ張られる様な感覚を覚えた。
視線だけを向けてみれば、自分を見上げる二つの紺碧。
堅く強張った表情は、喉の奥からあふれ出しそうな言葉や感情を、無理やりに押し込めているようにも見えた。
数秒か、数分か。音も無く固定された時間は、何度か喘ぐように開閉された口によって再び動き出し、ややあって震える唇から漏れた言葉が微かに渡ってきた。
「今の話は、本当か?」
艦政本部での一件以降、よほどのことがない限り自宅に籠りっきりだった彼女にとっては、店員の話はまさに青天の霹靂だったのだろう。
王ならば外から噂を仕入れることができるかもしれないが、海軍軍人の家の使用人として、通すべき情報と黙殺する情報は弁えている。恐らく何かの思惑があっての事だろうが、伝える
御陰で、自分がこんな役回りを押し付けられる羽目になったが。
無言のまま益体も無いことを逡巡している間に、同居人の言葉は続く。
「答えてくれ、有瀬。『扶桑』が、貴様が……」
全く、何という顔をしているんだ。と、知らず目を細めてしまった。
仏頂面か得意顔か、それとも能面すら連想させる、すまし顔か。大体この3つの表情を行き来している彼女にとっては、穏やかな微笑み以上に希少な顔だ。
ここまで悲痛さが外に出ている顔を見たのは、いつ以来だったかと考えを巡らせようとして、慌てて意識の外へと放り投げる。行き着く結論は、決して愉快な記憶では無かった。
「ただの噂、……そうだろう?」
右の袖を握りしめる永雫の手は、関節が白くなるほどきつく握りしめられている。この程度で皺はつかないだろうが、内心で形の無いナニカが安全深度を超過した耐圧殻のように軋む音を聞いた。
容赦なく精神の中で反響する音を雑音として無視し、自由になっている左手を微かに震える彼女の手に重ね、この商売を始めてから随分と上手くなった微笑を張り付けて見せる。
「ああ、噂だ。流言と言うのは、本当に性質が悪い」
幼子に言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡ぎ、硝子細工を扱うように華奢な指を一本ずつ引きはがしていく。今まさに、空虚な詭弁を弄しているのはどの口だと、危うく張り付けた微笑に意味が加わりそうになった。
ややあって、氷のように冷たくなった彼女の手が、するりと掌から力なく零れていく。斯くして状況は何一つ改善の目を見ず、情けないことに、この場で出来ることはもう何もない。
「冷めないうちに頂こう。伸ばすには惜しい蕎麦だってのは、知ってるだろう?」
揺れる紺碧から逃げるように視線を外し、汁が染みて膨らみつつある天ぷらを齧り、蕎麦を啜る。ジワリと衣からあふれる汁と、旬である故か甘みの強いエビ。噛めば噛むほど蕎麦の香りが広がる手打ち麺。
そういえば、出撃前の最後の上陸には、いつも此処の蕎麦を食べに来ていたことに思い至る。
週明けの17日早朝に出航予定であることを考えれば、なるほど、確かに今日の食事もそれに当てはまるかもしれない。
内地で取る最後の食事が、伸び始めた蕎麦と汁を吸いすぎてグズグズに成りつつある天ぷらと言うのは何とも締まらない。
だが少なくとも、共に食事をとる人物の人選に限っては、何一つ不満は無かった。例え、それが身勝手極まりない理由だったとしても、言語化する事すらおぞましく思える汚水の様なナニカが原因だとしても。
「………」
しかし、無言のまま箸を動かす彼女に、気の利いた言葉の一つすらかけてやれず。それどころか安堵染みた充足感を感じてしまっている自分には、何度目か分からない殺意を覚えずにはいられなかった。
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