12th Chart:微睡む巨人

 

 11月も終わりに近づくころ、鏡の様なポトマック川では、寒々とした風がいくつかの枯葉を巻き上げ、川面に漣を作り消えていく。秋口までカナダガンなどで賑わっていた幅500m以上の雄大な流れは、それまでの喧騒が嘘のように静まり返っていた。両岸の桜並木は青々としていた葉を落とし、迫る冬を何処か寂し気に待っているようにも見える。空には鼠色の雲が低く垂れこめ、雲の薄い箇所を貫通した太陽光が歪なグラデーションを投影していた。

 1941年も終盤に差し掛かり、通りを歩む人々は厳しいくなり始めた寒風に首を竦め、暖かな暖炉を目指して足早に石畳の上を渡っていく。そんな、毎年のように繰り返される情景の中で、ペンシルバニア通1600番地に位置する白い家の住人は、イーストウィングの一室でこの巨大国家の頭脳たちと膝を突き合わせていた。


「12月初頭、それは確かなのかね?」


 ジロリとでも形容できそうな鋭い視線が、会議机の一角に陣取る壮年の男に突き刺さった。

 軽い音を立てた報告書の束が、良く磨かれた会議机の上に戻される。すぐ隣に置かれたカップから湯気が絶えて久しく、芳醇な香りも鳴りを潜めてしまっていた。

 かつてアメリカ合衆国の対外諜報任務は陸軍や海軍、国務省などが独自に行っていた。しかし、一昨年にそれらの非効率な諜報活動を一元的に管理する、新たな情報機関――情報調査局が設立される。従軍経験を持ち、連邦検事や司法長官の補佐官を務めてきた壮年の男――ウォルター・ドノヴァンは、この機関の設立の為に走り回った功労者であり、機関の長である情報調査官に就任していた。

 探る様な視線を向けるアメリカ合衆国大統領に、ドノヴァンは自信を持って頷く。情報調査局始まって以来の大仕事が、今一つ終わろうとしていた。


「はい、大統領。それが我が情報調査局の結論です。今年の12月初頭、恐らくは第一週から二週の間に彼らは行動を起こすでしょう」

「海軍はどうかね?」


 大統領の視線が、合衆国海軍長官ウィリアム・フレディ・ノックスに向けられる。どこかやぼったさを感じさせる海軍将官は、ズレた眼鏡を押し上げ、言葉を続けた。


「海軍も、情報調査局の見解と相違ありません。日本近海に派遣した潜水艦隊は、今月初旬まで確認されていた空母艦載機による大規模訓練の鎮静化を報告しています。また、沖縄近海まで進出した『スレッシャー』によれば、11月中旬より九七式飛行艇メイヴィスの偵察飛行が激増したとのことです。方位は主に西南西、南西、南東と報告されています」

「台湾、フィリピン、そしてトラックだな?」


「その通りでございExactlyます」と返答するノックスに、ご苦労とでも言う様に一つ頷いた。

『スレッシャー』はアリューシャン列島の孤島で補給を受けた後、遥々親潮に乗って南下していった潜水艦の一隻だ。12000海里を走破する健脚を備えた最新鋭のタンバー級潜水艦の一隻で、バクー油田砲撃事件より不穏な動きを見せている日本海軍の動向監視作戦――Operation sauryの為派遣されていた。


「――となると、日本軍将兵はいよいよ賽を手に持ったと言う事か」


 上座に座る男の皮肉交じりの感想に、出席者の数人の口角が微かに歪んだ。


「ハル、日本外務省からは?」

「石油の購入交渉以外に目立った動きは有りません。ですが、フィリピン放棄の意と相互不可侵の遵守を伝えた後、彼らの顔から微かに必死さが消えました。南下の時期について探りを入れてはみましたが、軍機であるため答えられないと」

「フン、そこまで我々を信用しているわけではない、か。よろしい、平和ボケをしていないようで何よりだ。国務省は引き続き、彼らと密接に連絡を取り合って欲しい。作戦が終わるころには、我々と彼らは隣国となるのだからな」


「承知しました」と厳格そうな国務長官が頷く。

 現状、アメリカ合衆国と大日本帝国の間に大規模な貿易は存在しない。

 前大戦以来、ハワイにはフラグレス中部太平洋艦隊が居座っており、航行の危険が大きいアリューシャン列島周辺の迂回航路を取らなければ、民間船の日本との連絡は不可能になっていたためだった。


「大統領、確認なのですが。我々の動きは彼らに知らせずに良いのですね?」

「無論だ。我々は彼らと同盟を結んだわけでもないし、今のところ結ぶ予定も必要もない。私が彼らに臨んでいるのは、鶏の役だよ」


 先ほど情報調査局が提出したレポートの隣に置かれた機密書類へと視線を落とす。赤文字で【TOP SECRET】と印字された計画書には、前大戦終結後からアメリカ政府が極秘に推し進めてきた計画の総仕上げがまとめられていた。


「20年前、フラグレスとの全面戦争は、我が国に多大な損失を与えた。フィリピンの植民地、建造途中のパールハーバー、完成寸前だったパナマ。一つとして失ってはならぬものだった。幸い、先人たちの努力が実り、我が国は未だに超大国として君臨し覇権への切符を手にしたままだが、残念ながら今の合衆国国民達にその意識は皆無と言ってよい」


 広大な国土、豊富な資源、多くの人民、両海岸に分散した遺産工廠。アメリカ合衆国が支配する北米大陸は、神が設えたかのような好条件に恵まれていた。フラグレスの侵攻による植民地の消滅により、大きなブレーキを掛けられた欧州諸国を後目に、損失の補填をいち早く完了させ、発展へと進む余力さえ見せた最たる要因と呼べる。

 しかし、その結果発生したのは「アメリカさえあれば生きていける。欧州も、世界も必要ない。我々はこの楽園で過ごしていけばよい」という一種の停滞思想だった。未だ世界の半分をフラグレスに握られている中、目と鼻の先で瑞々しく実った果実を見落としかねない愚劣さに、米国中心の新しい世界秩序構築を目論む米政府が危機感を持たないはずもなかった。


「合衆国はウサギと亀の、ウサギになるわけにはいかないのだ。彼らが東南アジアの解放に立ち上がれば、合衆国国民達も目を覚ます。太平洋を再び我らの海とし、合衆国国民の目を外に向けるには、追い詰められた猿の蛮勇が必要なのだよ。せいぜい盛大に騒いで、眠気を吹き飛ばしてくれればよい。それ以上の事は望まん、何も、何もな」


 含みを持たせた嘲笑が、口の端から微かに零れていく。

 極東の猿は従来のやり方では勝てぬと見て、よりにもよって航空主兵と言う大胆な悪手を選択した。大統領の下には多方面からの分析結果が届いているが、そのどれもが同一の結論を出しており、それは彼を含む政府高官が、日本軍の針路変更を聞いて最初に抱いた直観とそう違わないものだった。


「……しかし、そのためだけにフィリピンを手放すのは少し惜しい様に思えますが」


 微妙な顔をしたノックス海軍長官が、ハル国務長官に非難のこもった視線を向ける。対するハルも「海軍に口を出される筋合いは無い」と不快感を滲ませ目を細めた。

 英仏白の元植民地、そして日本本土に近いこの群島は、東南アジアにアメリカ海軍の影響力を広げる強力な足場になる条件を備えている。海軍にとって、フィリピンはアジア方面における重要な拠点となりえた。国務省の判断が、少し楽観的に過ぎると思えたようだ。

 直後、ヘクター・スティムソン陸軍長官が咎める用に咳払いをし、続いて微かに敵意のこもった視線を海軍長官へ向けた。


「陸軍としましては、旨味の少ない遠隔地に拘るメリットは無いと考えますがな」


 棘のある言葉に、陸海軍の最高責任者の間で冷たい火花が散ったような気がした。

 フィリピンは米陸軍において因縁の地と言ってよい。

 約25年前、フィリピンには反乱鎮圧の名目で未だ八万の陸軍将兵が駐留していた。フラグレスの大規模侵攻が始まった時、米政府は在比米軍の撤退を決断し、太平洋艦隊を急行させる決定を下す。ところが、ほぼ同時に、パナマにフラグレス艦隊が出現したことが事態を狂わせた。

 合衆国にとってパナマ運河は東西海岸を結ぶ生命線であり、10年の歳月をかけて建造してきた一大プロジェクトだ。完成まであと一歩と言う所で、フラグレスに奪われたのではたまったものではない。

 そんな時、フィリピンの陸軍司令部から「心配無用」という心強い電報が届く。在比米軍はフィリピン内の各拠点に防御陣地を作り、持久戦を行うことで太平洋艦隊来援までは十分持ちこたえられると判断していた。

 この連絡を基に、合衆国政府は太平洋艦隊をパナマ運河救援に派遣する決定を下し錨を上げたが、坂を転がり落ちる様に状況が悪化していく現実は変わらなかった。

 太平洋艦隊の新鋭艦と同程度の能力を持つ艦を含んだ艦隊を、何とか撃退してサンディエゴに帰還した海軍将兵に待っていたのは、フィリピン陥落と在比米軍の全滅という最悪のニュースだった。

 大洋の向こう側から送られてくる悲鳴のような救援要請を繋ぎ合わせ、フィリピン陥落の一部始終を解読した担当者は、あまりの凄惨な内容に天を仰いだという。

 まずフィリピンに襲来したフラグレスの艦隊は、アジア艦隊と刺し違える形で制海権を確保し、レヴィオンを上陸させた。

 当初、上陸したレヴィオンの総数は精々1個旅団程度と目されており、これならば各地の防御陣地で十分駆除できると判断されていた。しかし上陸初日から、マニラ湾口に浮かぶコレヒドール島の司令部に送られてくるのは勝利報告では無く、もはや断末魔に等しい救援要請だった。

 事態を憂慮したコレヒドール司令部はマニラ市の防御陣地構築を急がせるか、それとも稼働できる全軍でコレヒドール島に撤退し持久戦を行うかで意見が割れ、結局、戦後の事を考えマニラ死守の方針を打ち出したが、すべては遅きに失した。

 司令部の混乱を考えれば驚異的と評価できるほど、急速な築城作業が行われたマニラ市の防衛線に突入してきたレヴィオンは、師団どころか軍団十万単位の大群だった。

 新旧入り乱れた機関銃と、かき集められた野戦砲、急ごしらえとはいえ構築された陣地は幾度かの突撃を破砕したが、数日後には全線にわたって突破され、戦場も市街地は阿鼻叫喚の地獄へと変貌した。撤退もままならず市街戦に引きずり込まれた在比米軍はフィリピンの住民ごと文字通りされ、湾口に浮かぶコレヒドール司令部も間もなく制圧されることとなる。


 ――太平洋艦隊は何処にありや、何処にありや。全世界は知らんと欲す


 コレヒドール司令部から打たれた恨み言に近い最後の電報は、今日まで続くアメリカ陸海軍の確執をより強固にしたと言えるだろう。

 フィリピン派遣軍は海軍に見殺しにされた。実状は如何あれ、海軍の来援が間に合わなかったことは事実であり、アメリカ陸軍将兵に根付いた海軍に対する不信感・反感は、未だに根強いものがあった。

 敵意を滲ませるスティムソンの視線をノックスは真正面から受け止める。度の強いレンズの向こうには「臆病者め」という侮蔑が込められていた。

 前大戦以来ギクシャクとしてしまった両軍のトップの間に不穏な空気が流れた直後、いかにも几帳面な銀行家然とした官僚――ハリー・モーゲンソン財務長官の冷ややかな声が響いた。


「フラグレスの息の根を止める方法が無い以上、下手な領土拡張は悪手です。領土が広がれば、それを守るために多くの艦と人がいる。決して不可能と言うわけではありませんが、フィリピンの奪還による経済効果と、戦災復興とその後維持費を考えると、国務省は利口な判断をしたと考えます。海軍にとっても、遠隔地への補給がさらに増えるのは負担になるのではありませんか?」


 流れる様に2対1に押し込められてしまったノックスは、微かに頬を痙攣させるが不快感を爆発させる愚挙は起こさなかった。

 いくらフラグレスによって海軍の発言力が強い現在であっても、あまり強引な主張を繰り返すわけにはいかない。海軍長官の椅子を狙う将校は、それこそごまんといるのだ。ようやくたどり着いた栄光のポストを、こんなことで失うのは馬鹿げていた。


「……失言でした」

「まあ、そこまで恐縮する必要もあるまいノックス長官。君の開拓者魂は、合衆国軍人にとって美徳だ、誇りたまえ。スティムソン長官も、今後は海軍との共同作戦が増えるんだ、なんならこの後二人で腹を割って話してみたらどうかね?この部屋は空けておくとも」


 薄く笑みを浮かべる大統領に、陸海軍長官の背筋にゾクリとしたものが走り抜ける。一億を超える合衆国国民から信任を受け、障害を患いながらも行政府のトップに立った男。一般的な組織人から見れば、【怪物】以外の何物でもなかった。


「ああ、そうだ。欧州の友人達の旗色はどうなっている?」


 数秒の沈黙の後、興味を失った大統領の意識が国務長官に向けられる。互いに知ることは無かったが、彼らはほぼ同時に、仲良く小さな溜息を吐き出した。


「フランス、ベネルクスは未だに強硬な姿勢を崩しておりません。開戦もちらつかせていますが、実際に行動を起こすのは、日本の侵攻が完了してから更に数年先になるでしょう。特にフランスはソヴィエトに対日圧力をかける様に働きかけているようですが、反応は鈍いようです」

「当然だろう、バクーとカスピ海艦隊消滅は大きい。その上、大粛清からの再建の途上だ。身から出た厄介事を持ち込まれて、流石の鉄の男も頭を抱えているかもしれんな。三国条約側の足並みは当分揃うまい」

「一方、ドイツ帝国ですが、既に太平洋の植民地経営に関心を失っているようです。我が国のフィリピン放棄と同じく原則として不干渉を表明しましたが、今後の資源貿易において便宜をはかるよう密約を交わしたそうです」

「ほう、ヒトラー外相も抜け目が無い」

「そして、マレー半島、オーストラリア等を領有していたイギリスも、資源貿易の優遇と引き換えに進駐を認める見込みです。英独共に、日本の西太平洋での勢力圏構築を認めることで自陣営に引き入れる動きを見せています。フランスとベネルクスの強硬な反応も、英独の引き込み工作が原因の一つと考えられます」

「ベネルクスは条約側に着くか」

「国務省では、凡そ70%程度と見積もっています」


 ベネルクスが条約側に着いた場合、かの地を防壁兼進攻路と定めていたドイツ帝国は苦境に立たされることになる。イギリス海軍によるネルソン級の売却も、表面上は裏目に出た形だ。そのリスクを冒してでも、英独は東南アジアの資源――アメリカの代替になりうる資源供給先を欲していると言う事になる。


「では、ベネルクスが条約側に付くことを前提に、今後の戦略を組み立ててくれたまえ。英独の動きに関しては静観で良い。――ノックス長官、太平洋艦隊の準備は?」

「はい、既にサンディエゴにて準備中です。この分ですと、十分パールハーバーにクリスマスツリーを飾れるでしょう」

「大変結構。では情報調査局及び陸軍と密接に連携し、時期を見定めて作戦を開始してくれ。吉報を期待している」


 海軍、陸軍、そして情報機関のトップが力強く頷く。この20年で力を蓄えた合衆国が大きく飛躍できるかどうかは、この作戦の成功如何に掛かっていると断言できる。身が入らないはずもない。


「国務省や商務省には苦労を掛ける。資源輸出について一時シェアを奪われるかもしれんが、禁断の果実に手を伸ばした国々は、いずれ必ず合衆国に泣きついてくる。その時に、纏めて回収してやればいいだけの事だ」


 老いてはいるが未だに活力のみなぎる手が傍らのカップに伸びる。大統領は冷めきった黒い液体に微かに目を細め、一息に流し込んだ。苦い液体が喉を潤し、微かな芳ばしさの残る息を吐き出す。


「直に、商品は山ほど手に入るのだからな」


 会議室に合衆国第35代大統領、フレドリック・デラノ・ルーズヴェルトの栄光を確信した低い笑い声が静かに続いた。

 室内照明の光に照らされる会議机の上。冷笑を零すルーズヴェルトの見やる先には、【Harvest Plan】と印字された機密文書が異質な存在感を放っていた。



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