10th Chart:出師準備Ⅱ



 関東大震災の時、未だ10に届かないガキでした。ちょうど18年前の今日、僕は東京の本所区に居たんです。



 僕の両親は下町で生まれ育った幼馴染でしてね、親戚の家も直ぐ近くで、正月やらの挨拶回りは特に楽だったらしいですよ。まあ、生まれも育ちもほとんど呉だった僕には、あまり関係の無いことでしたが。

 当時は、曽爺さんの三回忌が終わって少し東京でのんびりしてから呉へ戻る予定でした。

 朝から風が強い日だったのはよく覚えています。これは涼しくて過ごしやすい、なんて思って、呑気に外へ遊びに行ったので。

 昼飯時だったもので隅田川の周りを速足で歩いていた時に、ソレが起こりましてね。

 地面が揺れるなんてものじゃなかったですよ。砂埃の下の道路が、思いきり自分の足を蹴飛ばしたように感じました。たまらずスっ転んで、運悪く頭を打って気を失ったんです。


 思えば、あそこで最後の時まで寝てるのが一番幸せだったかもしれません。


 酷い熱さで目が覚めて、周りを見渡してみたら……もう酷いモノでした。家も地面も空も人もぜーんぶ赤、紅、朱。一回呼吸するごとに喉と肺に火箸を突っ込まれるような痛さと、人の焼ける嫌な臭いで充満するんです。

 そしたらすぐに、空から焼け焦げた木切れや、黒っぽい塊が、ごった返した人波の上に降ってきている事に気づきましてね。見上げてみたら、空まで届くような炎の竜巻がそら恐ろしい音を立てながら、遠くの方をのたうっていたんです。

 ゾッとするほど美しい、何てのは、ああ言うのを指すんでしょうね。馬鹿な話ですが、とっとと逃げればいいものを一瞬呆けた様に見蕩れてしまってたんです。

 もっと大事なことに気が付いたのは、たっぷり一分も経ったぐらいでしたか。


 竜巻が轟轟言いながら踏みにじってる辺りは、自分の近所でした。


 子供心に、家族がどうなったのかを悟ったものですよ。それで呆然としてたら、二つ目の竜巻が間近に迫っていることに気が付きまして、慌てて川に飛び込んだんです。いや飛び込んだというよりも、家の消火を諦めて竜巻から逃げて来た避難民の群れと一緒に、火炎に押されて叩き込まれたってところでしょうか。

 お察しの通り、川に入って一安心ってわけでもないですよ。

 誰も彼もが泳げるわけでもないですし、服を着たまま泳ぐのはコツが要りますからね。一緒に川に落ちた見知らぬ爺さんや腕っぷしの良さそうな兄ちゃん、こんなちっちゃな子まで数分もすれば仏さんです。

 不用意に顔を上げてしまえば川面を舐めた火炎に肺をやられてしまい、かといって潜りっぱなしでもね。息を吸おうとして、水面の仏さんを退けられずに仲間入りしたらしい仏もいっぱい見かけましたよ。

 ガキ相応の図体しかなかったのは幸いでした。炎が舐めて無さそうな水面を探して、彼方此方の隙間を見つけては息を吸い、流れに乗って、仏さんを掻き分けて下流へ下流へ下っていったんです。

 で、まあそれで助かればよかったんですが。地震に付き物と言えば津波でしょう?運よく火からは逃れられたんですが、今度は津波の引き波に攫われましてね。瓦礫や仏さんと一緒に気が付けば東京湾の上です。

 海の上は瓦礫に覆われて、炎の竜巻に巻き上げられた黒焦げの残骸が時折振ってくる地獄絵図でした。瓦礫の上は一見歩けそうで、這い蹲る様な視点だと岸の方まで続いているようにも見えました。

 けど瓦礫同士は波に揺られてぶつかり続けてるんです。浮力の無い足場を踏み抜けば、たちまち体を挟まれて腹を割かれるか、悪ければそのまま真っ二つ。自分と同じように流された生存者が岸へ渡ろうとして、そうやって瓦礫に喰われていくのを何人も見ました。

 どこの家のモノとも知らない扉に何とか乗っかって、また随分流された後。横須賀鎮守府で整備中に被災し、救助活動中の『夕張』に拾ってもらいました。板切れの上に転がったボロ雑巾を見つけてくれた角田砲術長は、文字通り命の恩人ですよ。

 『夕張』の乗員も良くしてくれました。サイダーはどうだ、羊羹は食うか、いやいやまずはお粥だとか。医務室の隅で膝抱えて震えるガキに、随分と気を掛けてくれたんです。


「それで、少しは人間らしい感情も戻ってきましてね。焼け野原になった帝都を見ても、”もしかしたら”なんて思いが抑えきれなくなって。居てもたってもいられず、自分の家の方へ走っちまったんです。――――まあ、ある意味で大当たりだったんですがね」


 能面のようだった有瀬の口角が、痙攣するように微かに上がった。


「炎の竜巻、火災旋風っていうらしいですが。要するに火を巻き込んだ強烈な上昇気流でしてね、通り道のモノを全部焼いて空に打ち上げるんです――――焼け焦げた家の基礎以外、何にもありませんでした。遺体も、骨も、遺品もね。避難場所になってた近くの被服厰跡も酷いことになっていたので、逃げおおせた可能性も皆無。晴れて、正真正銘の天涯孤独独り身になったわけです」

「で、その後永倉の家に拾われたと」

「最終的には。ま、そこへ行くまでに色々と見ることにはなりましたが」


 口調自体はあっけらかんとした者であり、視線は依然として呉の街に続く海を眺めている。しかし、欄干を握る手は、手袋の上からも解るほどきつく握りしめられていた。赤黒く見える瞳の中に、目の前の穏やかな海面は最早映っていない。


「人は誰かを遺して、いつか死ぬ。残されたモノの慟哭を聞くこともなく、時には想像する暇もなく」


 ぼそりと零された有瀬の言葉には、重苦しい実感が籠っている。避難所で見た煤で真っ黒になった母子や、焼け跡にうずくまって慟哭する若い男の姿。肉親の手らしき炭素の塊を大事そうに拾い上げる、20になるかならないかの娘。

 その地獄の中を、この地に生きた家族の痕跡を探して彷徨う自分。涙は頬の煤に幾条の筋を作り、目は灰と煤で充血し、手足どころか全身真っ黒くすすけている。

 目を閉じれば、今でもあの怨嗟と啜り泣きに満ち、黒焦げになった瓦礫と遺体が散乱した地獄を思い出すことができる。

 運が良かったから生き残った。などというという定型句で、この地獄に蓋ができればどれほどよかっただろうか。

 一瞬だけ、大昔に扉越しに聞いた啜り泣きが脳裏を過り、氷でできた杭を心臓に打ち込まれたような錯覚に陥る。

 ああ、そう言えば――彼女もこちら側の人間だったか。


「――――人を遺して死ぬのが怖いか」

「その覚悟ができる前に、こんな臆病者を想う奇特な人を作りたくはないんですよ。軍人なんて阿漕な商売を始めた以上は」

「伝え聞くところによれば、既に手遅れの様な気もするがな」


 痛いところを突かれた、と有瀬が空虚な笑い声をあげる。無論、この考えにもっと早く至っていれば、さっさと永倉の家を出ていっていただろう。永倉技師か雫さん、そのどちらかが存命であればの話ではあったが。


「手遅れだからこそ、でしょう。――せいぜいそれが兄貴分程度の感情だったとしても、長く同じ時間を過ごしすぎました。元を絶てないのであれば、少しでも被害を食い止める。ダメコンの基本では?」

「よく言う。――ならば、聞き方を変えるか。手前自身は、どう思っておるんじゃ?」


 渋木の問いに、有瀬はゆっくりと向き直る。べっこう眼鏡の向こうに向けられた瞳は、様々なモノが渦巻いているようにも、逆に何もかもが存在しないガラス玉のようにも見えた。


「――――同居人の妹分、ただそれだけです」


 暫く、そのまま無言の空間が横たわった。

 『扶桑』の機関からの低く唸るような声と、風と波の音、遠くの方を進んでいく漁船の焼玉エンジンの音ぐらいしか聞こえてこない。

 枯れ木の様な老人はそのまましばらく、見た目以上にドス黒いモノを背負い込んでいる青年士官を見つめていたが、ややあって観念したように溜息を吐き出した。


「是非もなし、か。とりあえず、戦に行く前にその件にはケリをつけて置け。それが、手前の出師準備よ」

「了解。では、午後の艦内巡検に行ってきます」


 敬礼を交わし一歩踏み出した直後、「老骨の独り言だが」と声が聞こえ思わず振り返る。有瀬に背を向け、欄干に上体を預けて呉を眺める渋木は、まさに独り言のように言葉を続けた。


「靖国に持っていくのは、手前の魂だけにしておけ。あまり、シャバの彼是あれこれを持ち込むと先に逝った連中に示しがつかん」

「ご忠告、痛み入ります」



遠ざかっていく足音が聞こえなくなってから、渋木はもう一度キセルに煙草を詰め紫煙を吹かす。


「結局、使える命は手前一人分。上手く使えばそれなりに保つが、使い道はよく考えることだ。砲術長」


 目の前に揺らいだ煙は、残暑の残る風に吹き流されていった。







同日 柱島泊地 連合艦隊旗艦 『伊勢』 後部甲板


 ふと時計を見ると、思いのほか時が過ぎていたことに漸く気が付く。火を付けたばかりの煙草を消して参謀長室へ戻ろうかとも思ったが、今すぐ戻っても吸い終わってからでもそう変わらんだろうと思い直した。

 頭上を覆う飛行甲板が屋根となり、残暑厳しい昼の日差しは完全に遮られ、程よく冷えた涼風が、艦尾と飛行甲板の間のスペースを吹き抜けていった。

 自分の乗る『伊勢』のすぐ隣、目と鼻の先に波の穏やかな柱島付近に停泊している同型艦『日向』の姿を見ることが出来る。


 かつて伊勢型戦艦と呼ばれていた面影は、艦首部から三分の一を残して跡形もなくなっていた。


 ひょろ長い扶桑型よりも幾分かがっしりとした前艦橋の後方に、2基ずつ背負い式に据えられていた連装砲4基は全て取り払われ、格納庫と広大な飛行甲板と化している。飛行甲板前縁からは火薬式の射出機が突き出し、甲板では数機の零式水上偵察機が翼を休めていた。

 かつては予備射撃指揮所が設けられていた後部艦橋は、航空・通信管制を行う司令塔に様変わりし、張り出しの設けられた甲板の縁から、ずらりと並んだ対空火器が陽光を反射している。

 前甲板の幾分か絞り込まれたデッキ上には四五口径三十六センチ連装砲が背負い式に2基据えられており、この艦がかつては戦艦であったことを物語っているが、その姿は随分と空虚に見えてしまう。

 伊勢型戦艦改め、伊勢型航空戦艦。航空主兵を至上とする連合艦隊司令部により、情報通信能力と防御力を両立させ、なおかつ安く済ませるべく生み出された忌み子だ。


【連合艦隊司令長官は最強の艦に座上し、指揮官先頭、陣頭指揮を本分とする】


 古来より伝えられてきた帝国海軍の伝統は、近年台頭してきた実力主義と最強の艦を否定する航空主兵によって大きく様変わりしつつある。

 そんな風潮の中で伊勢型航空戦艦に求められたのは、直接的な戦闘能力よりも指揮能力だった。

 搭載した30機以上の水上偵察機を以て緻密な索敵線を張り巡らせ、空母よりも高いマストは通信波の捕捉で優位に立つ。元が戦艦である上、主砲や副砲の撤去と格納庫などの上部構造物の増設により、艦内容積には余裕がある。さらにバルジの増設により、もとから優れていた防御能力は更に高められ、空母の様な撃たれ弱さは無い。

 今後、開発中の新型の単発水上爆撃機の完成や、カタパルト射出に対応した艦爆が実戦配備されれば、限定的ながらも対艦攻撃手段を得ることすら可能だった。


――しかし、随分とさっぱりしたものだな『日向』


 作戦指揮における情報や通信能力、抗堪性という点では合理的な選択であり評価すべき部分もあるが。自分を含めた大艦巨砲主義者にとっては、中途半端な代物と言う評価・印象が大勢を占めていた。


――飛行甲板と格納庫は非装甲であり、一発でも敵弾を受ければ格納庫内の機体は多くが破壊されるだろう。砲戦においては三十六センチ4門ではニューヨーク級どころかワイオミング級にも圧倒される。戦艦、と言うよりも三十六センチ砲を積んだ水上機母艦と呼ぶべきかもしれん


 かつて自分が初めて指揮を取った戦艦が戦闘能力を度外視された姿になったことに対し、思う所は有る。自分のような甲種適正を持たない海軍将校は、艦長と直属の戦隊司令部の間に立つことで疑似的に大型艦の艦長としての指揮経験を積む。自らが舵輪を握ったわけでは無いが、あの時の経験は確実に自分の中に根付いており、連合艦隊参謀長の一部となっている。

 そして『日向』の向こう側には、喉に刺さった魚の小骨の様な、事あるごとに頭に上れど、どうする事も出来ない悩みの種が浮かんでいた。


「おう、ここに居たか」


 女々しい感傷と一緒に詮無い考えを切り上げ、今度こそ戻ろうかとした時、聞き成れた声が背中に掛けられた。

 振り向かずとも、その声色で誰が来たのかを即座に理解する。海兵で同じ釜の飯を食い、会議では度々顔を合わす間柄だ。間違うはずもない。


「まだ帰ってなかったのか、山口」

「参謀長がこんなところで黄昏ているのを見つけたらな、話の一つも聞いてやろうと思ったのさ」


 隣に歩み寄ってきた男に振り返る。満月の様な丸顔に、落ち着いた印象を与える瞳。帝国海軍きっての猛将という評価に微塵も異論はないが、その風貌とのギャップはどうにも埋まりそうにはなかった。

 航空母艦『飛龍』、『蒼龍』を有する第二航空戦隊司令官、山口正成ヤマグチマサナリ海軍少将。第一航空戦隊に勝ると噂される猛訓練を施し、その名前から人殺し大楠公と揶揄された男だった。

そして自分――連合艦隊参謀長、宇垣纒と海兵の同期の桜でもある人物だ。

 山口は宇垣の隣に立つと、彼の視線の先に浮かぶ鋼の城塞を見やり「ああ」と小さく声を上げる。不機嫌そうな仏頂面が常の戦友が、ことさら眉間に皺を寄せている理由を察知したようだった。


「『扶桑』……第五艦隊か」

「まあな。――理屈は解るし道理ではあるが、他に使い方は無かったのかと、そればかり考えておるよ」

「工廠に入れて鋼材に出来んこともないが、バラすにも油が居るものな。黒島参謀の案以外となると、他の参謀連中が言う様に、堤防か今まで通りの練習艦が精々だろう。だが、確かに」


 丸顔の猛将は、微かな遣る瀬無さをにじませた短い溜息と共に、言葉を続けた。


「流石の俺でも。『扶桑』と『山城』はフィリピンで沈むまで戦えってのは、酷だと思うがね」






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