9th Chart:出師準備
9月1日 柱島泊地 戦艦『扶桑』艦橋
外の見張り所へ出ると、まだまだ厳しい日差しが肌を焼き、瀬戸内海の熱風が全身を舐めていった。熱を反射し、比較的涼しい純白の二種軍装とはいえ、やはりこの国の夏は暑い。どこか日陰はないモノかと無駄な足掻きをしつつ、取り出した煙草に火を付けて紫煙を吸い込む。
「――――――、はぁ……」
「相変わらず不味そうに呑むな、砲術長」
「現実よりかはマシでしょう、艦長」
揶揄うような声に肩越しに振り返れば、「それは違いない」と言葉を零しながら、航海艦橋から炎天下の見張り所へと歩き出した老士官の姿が有った。
堂々とした体格の多い海軍士官にあるまじき、痩身矮躯であり枯れ木の様な印象を受ける。軍服のサイズは有ってはいるものの、どこか着られているような印象がぬぐえない。襟章には暗い赤の地に二本の太い金劫線が並び、3輪の銀の桜が咲いていた。
本来ならば即座に火を消して敬礼を行うところだが、有瀬はこの艦に着任して1週間もたたぬうちに、この何処か風変わりな老艦長の郷に入ることを選択したのだった。
茶目っ気を深い皺に刻んだ好々爺然とした海軍大佐――扶桑型戦艦1番艦『扶桑』艦長、
「露助も不甲斐ないモノよな。よりにもよってバクーを落とされるとは」
渋木の話を噛締めるように有瀬が頷く。
約一週間前に発生したフラグレスに対するカスピ海艦隊の完全敗北と、それに続くバクー油田砲撃事件。カスピ海艦隊は旗艦『アルハンゲリスク』以下、主力艦全てと補助艦の大半を失い事実上消滅。バクー油田は留守を守っていた魚雷艇部隊の奮戦も空しく大打撃を受けたと聞いている。油田を砲撃した艦隊は少なくとも戦艦2隻を含み、仕事を終えると夜陰に乗じて姿を消したらしく、その後の消息はつかめていない。
「知り合いの話では、早急な復旧は絶望的らしいです。政府は交渉中と発表していますが、この先どうなるかは……まあ帝国内外の燃料事情を知っている者なら――海軍の人間なら大体想像つくでしょう」
「貴様の古巣は特に大騒ぎじゃろう?」
「ええ、上から下まで大騒ぎですよ。油の供給を懸念して索敵機を減らそうとした天津の十一航艦に、神参謀が怒鳴りこんだらしいです。”全機刺し違えてでも、今日本に向かっている船団は無事に送り届けろ”とね。ついでに現状動かせる護衛隊全部突っ込もうとして、大川内参謀長に窘められたとか」
「呵々!神らしい、流石に大川内参謀長も一苦労かな」
「さて、どうでしょうね。元気にどやしつけてるかも」
そういえば、あの参謀長もこの艦長と同じく、傍目には強そうには見えない人だったなと、吐き出された紫煙の様な、益体もない感想が空に解けていく。
「おう、そうだ。火ぃ貸してくれんか砲術長」と思い出したように言う渋木に「どうぞ」とマッチ箱を放り投げる。ややあって骨ばった指に収まった品の良いキセルからも紫煙が揺らいだ。
「ふぅー。若い者の相手をした後の一服はやめられんな」
「また最後尾でイビキこいてただけでは?」
「ふん、聞かずともわかるよ。バクーの油が当てに出来ぬ今、南進論を抑えるものは最早どこにもおらん」
つい先ほどまで連合艦隊旗艦『伊勢』に足を運んでいた渋木がため息交じりの紫煙を吐き出した。
「”航空機の戦力化に先んじた帝国が、未だに対空砲火の一つもまともに上げぬフラグレスに負けるはずもない。今こそ欧州各国が放棄した東南アジア植民地を解放し、極東に一大勢力権を築く時だ”ようするに居座った強盗を蹴り飛ばして、空き家に住み着きたいってことよ」
「栄えある皇軍が、ブン屋の妄言染みた戦略振り回してどうするんですか」
【記録】において同時期に盛んに叫ばれていた言葉が急速に現実味を帯びつつある現状に溜息しか出てこない。しかしある意味で自業自得だった【記録】と比べ、今回は純粋な災害に等しい分、斜に構えて批判するというズルもできそうになかった。
「前の大戦は何とか乗り切った上、華府条約によって生活は目に見えて豊かになった。人間、成功が続けば欲がでるものさ。それにな、今も昔もブン屋にとって必要なのは真実では無く売れる記事だ。大衆は不都合な
「ま、今回ばかりは正論を振りかざしたところでどうにもならんがな」と細い肩が竦められる。どうやら、このひねくれものを自称する御仁であっても、現状には白旗を上げるしかないらしい。
「バクーの代替になりそうなのは米国ぐらいだが、あそこも古くからの同盟国を切り捨てるわけにはいかぬ。それに、ソ連の石油事情が逼迫し東側の足並みにがたつきが出たところを見計らって、油の提供を持ち掛け切り崩しに掛かる手もある。さらに言えば、米国にとって太平洋の対岸にある帝国が滅んだところで、痛くも痒くもない。シベリア開発が遅々として進んでおらぬソ連も、損切りを躊躇う愚行は冒すまい」
「要するに我らが大日本帝国は、欧州各国と敵対してでも南進し自活するしか道は無いと」
正しく八方塞がりな状況に惨憺たる気分が沸いて来る。たまらず吸い殻を携帯灰皿にねじ込み、2本目に火を付けた。
「…………我々にもお呼びがかかりますかね」
「かからんことに越したことはない。が、そうも言ってられんかもな。ひょっとすれば、ダニエルズの遺児と一戦交えることになるかもしれん」
「テネシー級以前なら何とかなるでしょうが、レガシー・ナイン相手はちと厳しいですな」
意地悪く口角を歪めた渋木に、”勘弁してください”と両手を軽く挙げた。
日本に八八艦隊計画が有った様に、太平洋を挟んだアメリカにもダニエルズ・プランと呼ばれる同様の艦隊増強計画が有った。
これらはフラグレスに奪われた要衝、スエズ奪還のために整備される予定だった艦艇群で、戦艦10隻、巡洋戦艦6隻を計画の根幹とする大規模な代物であったが、ワシントン条約の発効と共に中止される事となる。
条約発効までに就役したのは、コロラド級戦艦『コロラド』『メリーランド』『ワシントン』『ウェストバージニア』、サウスダコタ級戦艦『サウスダコタ』『インディアナ』『ミシガン』、コンステレーション級級巡洋戦艦『コンステレーション』『ユナイテッド・ステーツ』の合計9隻。アメリカ海軍唯一の16インチクラスの主砲を搭載する彼女たちは、【ダニエルズの遺児】、【レガシー・ナイン】と称えられていた。
なお、アメリカはワシントン条約以降一貫して大西洋重視を掲げており、サンディエゴを母港とする太平洋艦隊には、同地で建造された比較的古いコロラド級戦艦4隻が配備されているだけだった。
そして帝国海軍が進もうとしている西部太平洋には、レガシー・ナインを模した9隻の16インチ砲艦を擁する、フラグレスの大艦隊が待ち構えているのだった。
このレガシー・ナインの影法師をいかにして排除し、制海権を確保するか。南方作戦成功の是非は此処に掛かっていると言っても良かった。
「呵々!嘘つけ、コンス級程度なら蹴飛ばす気でおるじゃろう?」
「コンステレーション級は戦艦というよりもデカい巡洋艦ですから、確かに装甲は厚くはないでしょう。ですが、『扶桑』の装甲だって彼方此方ガタが来てどっこいどっこいですよ。夜戦で懐に飛び込んで殴り合いができれば、手数だけは圧倒できますが、如何せん図体がデカい。致命傷を貰って爆沈する前に、奴さんの予備浮力をどれだけ素早く削り切れるかがカギですな。ま、分の悪い勝負であることには変わり有りませんが」
ザっと頭の中で状況を想定してみるが、最大限理想的な条件を設定しても勝率は3割あるかどうかだ。バカみたいな話だが、島影を利用して角待ちラムアタックの方が確実なのかもしれない。。
無論、そこに『扶桑』と自分が生存する余地はない。
違法建築の如く聳え立った艦橋最上部に位置する射撃指揮所。総員最上甲板が下令される頃には木っ端みじんに吹き飛んでいるか、艦橋ごと崩れて薪に成っていることだろう。あの街に遺品が届くかどうかすら怪しい。
「帝国海軍戦艦乗りの美徳は
渋木の言葉に遥か彼方の呉に向けていた視線を隣へ戻す。カツン、と手摺を煙管が叩き灰が海風に攫われていった。
「同調金属のお陰で、儂らは直観的に艦を操ることができる。極論してしまえば艦を動かすことのみに限れば、前提の知識も経験も必要ない。――だが、実際に殺し合いをしたという経験と戦訓は主力艦1隻よりも遥かに価値がある。菊の御紋と心中しても、得するのは本人とその上の責任者だけさ。この国は資源が無い、唯一誇れる【人】まで失うわけにはいかんのだ」
「いざと言う時は、ためらわず艦を捨てて逃げろ。と言う事ですか」
艦艇の損耗が比較的激しい海上護衛総隊ではノウハウの保護の為に、艦長が艦と運命を共にすることは比較的古くから忌避されるようになり、実際それで生き残り別の艦の艦長に成った士官も多い。しかしそれは、海上護衛総隊に所属する艦はたとえ巡洋艦クラスの艦であっても、艦首に菊の御紋が据えられることは無く、徹底して”道具”として扱う事で成り立っているという側面もある。
旧癖が色濃く残る連合艦隊を始めとする海軍の主力においては、菊の御紋が取り付けられた主力艦から、末端の駆逐艦に至るまで、艦と運命を共にせず、脱出する事に対して否定的な意見が支配的だった。
しかしどうやらこの艦長の考えは、装備は妥協したとしても、せめて人は失いたくないという海上護衛総隊司令部のモノに近いらしい。
「応とも。手前も知っての通り、儂は縁側で茶でも飲みながらポックリ逝くつもりなのでな。貴様らがとっとと逃げんと、儂も艦を降りられん。退艦拒否者は片っ端から海に投げ込んでしまえ。なんなら、いざという時の為に稽古ぐらいつけてやろうか?」
「遠慮しておきますよ」
背中をさすりながら苦笑する。
この艦に着任の挨拶に訪れた際の事だ。
艦長室で挨拶を済ませた後握手を求められた。特に拒否する理由もなかったので右手を出したのだが、その瞬間に視界は回転し、強かに艦長室の床に叩き付けられていたのだ。
悶絶する自分を見下ろした渋木は「
なお、後に永雫にその話を漏らしてしまい、ニヤニヤと笑みを浮かべた彼女に「よし、偶には鍛え直してやる」と死刑宣告を食らって、1時間ほど転がされ続けるというオチも付いた。幼いころから合気道をやっていたと言うが、完全に有段者で通るだろう。徒手空拳では落第ギリギリの成績だった自分は受け身を取るだけで精一杯で、情けなさに死にたくなった。
たぶん、いや確実に。あの時の永雫は指導に力が入る教師と言うより、無力な玩具にじゃれつく猫というのが適当な形容だっただろう。
「ふぇっくし!」
「あら?お嬢様、風邪ですか?」
「知らん。またぞろ何処かで噂でもされているんだろ」
「有瀬中佐だったりして」
「何故奴が出てくるッ!」
「そういえば、宇垣の義娘はそろそろ抱いたか?」
唐突な爆弾を放り込まれ思いきり咽る。いったい何を言い出すんだこの狸爺と非難がましい視線を向けるが、当の本人はニンマリと人の悪い笑みを浮かべていた。
「なーんじゃ、面白くないのぉ、この根性なし。いや、甲斐性なしか」
「流れる様に罵倒しないでいただけますかね。自分と彼女は特に何にもないですよ、単なる同居人なので」
ケホケホと喉の調子を整えるついでに咳ばらいをする。しかし、当の渋木に自分の弁明を聞き入れた様子は無い。疑わしい、というよりも生暖かさを感じさせる目向けていた。
「同居人、か。さぁて、妙じゃなあ。宇垣の話によると――」
「同居人ですよ、艦長」
今度は有無を言わさぬ声。言葉の中に剣の様な冷ややかさを感じた渋木は、微かに視線を細め、海の向こうの呉市街を見透かそうとしているかのように、広島湾の穏やかな水平線を眺める青年士官の横顔を注視する。つい先ほどまで老人の揶揄いに狼狽えていた若者の顔は、表情というべきものがすっぽりと抜け落ち、能面の様な印象を見る者へ与えていた。
「元々ね、僕はこの場にいるはずではなかった人間なんですよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます