8th Chart:紅蓮の夜

 あと30分程度で日付が変わるころ、波の穏やかなカスピ海に面した工業地帯の沖合では、鈍色の影が白い航跡を長く伸ばしながら航行していた。

 鉄柱を大振りのナイフで削いで形を整えたかのような無骨さと、奇抜な姿から生まれる一種の愛嬌を併せ持つ小型艇――G-5級魚雷艇『B-202』

 のっぺりとした流線型の艇体中央から、小ぶりな操舵室が突き出している為潜水艦の様にも見えるが、れっきとした水上艦だ。

 艦橋に備えられた頼りない機関銃とは対照的に、後方の艇体には無骨な2本の魚雷が埋め込まれるように搭載されており、不気味な存在感を放っていた。

 そんな『B-202』を預かる年若い艇長のイワン・ヴラソフ少尉は、操舵室後方の天井から上半身を乗り出し、傍らの前照灯の光芒が吸い込まれていく重油の様な夜の海に熱心に双眼鏡を向けていた。

 曇天を思わせる灰色の瞳は、カスピ海はおろか、その先に横たわるシルク洋すらも見渡してしまおうというほどの気迫に包まれている。

 打って変わって後方では、機銃手のアレクセイ・マカロフ一等兵曹が欠伸を噛み殺し、仕事熱心な士官学校を出たばかりの新米士官に、面倒臭げな視線を向けていた。

 もう一つ欠伸を噛み殺しつつ後ろを振り返ると、ついさっきまで艇の航跡波の先に小さく輝いていた工業地帯の明かりは、すっかり闇に飲み込まれてしまっている。

 本来ならば今頃、行きつけの店でこの新米少尉を除いた5人でウォッカを煽っているはずだったのだが。どういうわけか乗りなれた水上を滑る棺桶に乗り込んで、ガキの使いまがいの仕事についている事に、今更ながら不満が鎌首を擡げた。

 イライラが募っていく最先任下士官の内情など露知らず、ヴラソフ少尉は弱冠の焦燥を滲ませながら双眼鏡を下ろすと、艇内の通信手へこの日8回目の確認を取るために艇内へと身をかがめる。ニキビ顔の二等兵は、出航から10分以内に二回は確認を取り続ける上官にうんざりとした表情を浮かべつつも、若者特有の純朴さで真面目に職務をこなし続けた。


「通信、まだ来ないか?」

「はい。いいえ、同志艇長。司令からの連絡は未だ来ておりません。作戦続行です」

「そうか……了解した」


 薄暗い夜間照明の中で微かに眉を顰めている通信手の言葉に若干肩を落とし、「何かあったら知らせてくれ」と8回目の台詞を呟いて元の位置に戻った。不満げに一つ溜息を吐き出してから、再び双眼鏡を前方の闇へと向けたヴラソフに、見かねた風にマカロフが言葉を掛ける。


「同志艇長、なにもそこまで血眼になって探さなくてもよいではないですか。どうせ、通信機の故障ですって」

「その可能性は否定しきれんが、だからと言ってカスピ艦隊全ての通信機が故障するものか?」


 コチラに振り向いた童顔は不愉快さゆえか顰められている。自分の子供ほども年の離れた士官学校を出たての新米に対し、海軍生活も長くなった一等兵曹は若干の皮肉を込めてヘラリと笑った。


「そのまさか、が起こるのが、赤色海軍ですよ。工廠の連中の怠慢ってとこです」

「バカな。我々とカスピ艦隊は連邦の最重要施設の防衛に直結するのだぞ?それを理解しておきながら、杜撰な整備をやるなどあり得んことだ。それとな、同志マカロフ。工廠への批判は党批判ととられかねん、口を慎むことだ」

「失礼しました、同志艇長殿」


「フン」と威張り散らしながら視線を前方の闇へと戻すヴラソフの背中へ、「態度だけは一人前な青二才が何を咆えてやがる」と内心で罵倒を投げつけ、黒光りする12.7 mm DShK機関銃を撫でる。

 いきなり発砲して脅かしてやろうかという、子供じみた復讐心が海鳴りと共に遠くの方を過ぎ去っていった。

 直後、足を引っ張られる感覚。視線を下に向ければ微かな明かりに照らされた艇内に、水雷射手のミハイル・クズネツォフ一等兵曹の揶揄うような赤ら顔がうっすらと見えた。


「随分、気が立っておられるな。同志少尉殿は」

「よっぽど艦隊が返ってこないのが不安らしい。代わってくれんか?ミハイルミーシャ。このままだと柘榴が1つ出来るかもしれん」

「血生臭い柘榴を作ってシベリア送りになる前に、ガソリン入れて頭を回せよ、同志」


「ほらよ」と鈍色のスキットルが足の間から上げられる。

 目の前の少尉がこちらを向いていない事を確認し、素早く中の液体を口へ流し込んだ。途端に、腹の中がカッと熱くなり、アルコールの濃厚な香りが後方へと吹き抜けていく。すきっ腹には少々きつい代物だが、面倒な任務の気付には悪くない。


「ったく。なんだって俺らが迷子探しなんかやらねばならんのだ」

「しかたねぇさ。駐留艦隊以外に、夜の海を走れるのは俺らぐらいだからな」

「連中だって羅針盤の読み方が分からんわけじゃねぇだろ、ほっといても戻ってくるっての。同志艇長の得点稼ぎも極まれりだぜ」


 苛立たし気にもう一口煽り、アルコール臭とともに溜息を吐き出す。

 元はと言えばこの出撃自体――つまり演習に出かけたまま連絡の取れないカスピ艦隊に捜索隊を派遣するという提案はヴラソフ少尉の発案だった。

 基地司令部の判断は、事をあまり大事にしたくないという司令の小心故か、明け方まで待ってみようというもの。しかし、そこに血気盛んな少尉が鼻息荒く意見具申を上げてきたため、厄介払いついでとアリバイ作りのために『B-202』を含む第23水域警備隊9隻の出撃を認めたのだ。

 この捜索隊は母港から出撃後、横一列の体系を作り演習海域までの航路を辿る。無論、その間に司令部や司令艇にカスピ艦隊の通信が入れば、作戦は直ちに中断される手はずだった。『B-202』は9隻の内最左翼。尤も北側を担当する事となっていた。


「まあ、そうカリカリするな。実際、少尉殿は本気で心配してるらしいからな。得点稼ぎってだけじゃないかもしれんぜ?」

「なんだ、何か聞いてんのか?」

「小耳に挟んだだけなんだがな、旗艦『アルハンゲリスク』に兄貴が乗り込んでるらしい」

「ああ、それでか」


 納得したようなマカロフが、脱力したようにつぶやいた。

 アルマトイ級戦艦8番艦『アルハンゲリスク』

 ソ連がまだロシアと呼ばれていた時代に、現在も腕を振るう造船技師であるウラジーミル・コスチェンコが生み出した、帝国最初の四〇センチ砲搭載戦艦だ。基準排水量 38,000 トン、最高速力 27 ktの大柄な艦体に、四〇センチ砲を三連装3基9門搭載する。最盛期には8隻もの姉妹に恵まれた、ロシア帝国海軍を象徴する艦だった。

 しかし、時間と歴史はこの鋼鉄の羆にも容赦はしなかった。帝政ロシア艦隊の藩屏であった彼女らもロシア革命時の混乱と内乱により、その数は半減してしまった上、財政問題により近代化改装すらままならないのが現状だ。

 さらに言えば、列強が続々と建造しつつある新戦艦や、立て続けに就役し始めた最新鋭のヴラジオストク級戦艦と比べると型落ちの感覚が出てきてしまっており、党内では”帝政時代の遺物”と呼ぶ風潮も作られつつある。

 とはいえ、それでも9門備えた四〇センチ砲の威力は未だ世界トップクラスであり、カスピ海艦隊にとっては十二分に中核の戦力であった。

 現存する艦は1番艦『アルマトイ』、3番艦『ノヴォロシースク』、7番艦『スィノプ』、8番艦『アルハンゲリスク』の4隻。

 カスピ海艦隊はバルト海艦隊旗艦となっている『アルマトイ』以外の3隻を擁し、今回の演習では機関不調でドック入りした『ノヴォロシースク』以外の2隻が参加している。その中で、カスピ海艦隊司令官イワン・ウラジーミロヴィチ・ユマシェフ大将が将旗を掲げていたのが、『アルハンゲリスク』だった。


「兄貴が心配なのはわかるが、それこそ他人を巻き込むなって話だよコンチクショウ」

「おいおい、お前にも兄貴がいるんじゃなかったのか?」

「金欲しさに銀行強盗やらかす輩を、兄貴とは呼びたくないね。之でも、模範的なソ連邦人民だからな」

「ウォッカ片手に哨戒するヤツも相当だがな」

「素面で模範的なソ連邦人民が務まるかよ」

「違いない」


 クツクツと二人分の笑い声が、波濤の後ろへと吹き飛んでいく。ベタ凪の海を進む『B-202』の右舷側には、同航する『B-114』の前照灯の光が微かに見え隠れしていた。

 それからまた数分もたたぬうちに、再びヴラソフ少尉は通信手に確認を取ろうと艇内へと体を沈める。そろそろ通信手もキレるんじゃないかと、口角を意地悪く歪ませたマカロフの視界に何かが写り込んだ。

 アルコールが回り、歪み始めた視界が一気に覚醒し、闇に飲み込まれていく光芒の先へ目を凝らす。見間違いか、それとも……と思考が回り始めた瞬間、靄の様な光輪の中に鋭い艦首がヌッと姿を現した。


「前方に不明艦!距離5000!」


 切羽詰まったマカロフの声とは対照的に、「来たか!」と艇内から姿を現したヴラソフの声には喜色が滲んでいる。14ktで航行中の『B-202』の光芒の中に、灰色の艦体が見る見るうちに浮かび上がり始めた。

 鋭角的な艦首に幅の広い艦体。前方に2基、後方に1基配置された無骨な三連装砲塔と、艦の図体に対して不釣り合いと思えるほど小柄な前艦橋。その後ろから立ち上がるマスト。光の中に浮かび上がってくる艦影は、カスピ海艦隊の象徴とも言えるアルマトイ級戦艦の姿を形作っていく。

 その姿に対しヴラソフが顔を綻ばせる中、マカロフは有る部分を見て、覚めかけつつあった酔いが根底から吹っ飛ぶような感覚に陥った。


「両舷停止!通信手、通信を――――」

「待ってください同志!退避すべきです!」


「何を?」と思わず振り返ったヴラソフの視線に入ってきたのは、目の前に現れた”友軍”のマストを指さす生意気な下士官の姿。酸素不足の金魚の様に口をパクパクさせる男に不信感を覚えながら、指の先を辿ろうとした瞬間。海面上に閃光が瞬いた。


「なぁっ!?」

「うぉッ!?」


 外に身を乗り出している二人の悲鳴は、一瞬遅れて聞こえて来た砲声と、目と鼻の先で吹き上がった至近弾の衝撃にかき消された。水中で炸裂した砲弾の衝撃波がジュラルミン製の艇体を振動させ、不気味な軋みがそこかしこから上がる。破片がぶち当たったのか、前の方で鋭い金属音が響いた。硝煙の匂いと弾け飛んだ飛沫をたっぷりと含んだ衝撃波に打ちのめされ、反射的に身をかがめてやり過ごす。


「クソッ、同士討ちだ!通信手!さっさとこちらが友軍だと伝えろ!クズネツォフ!信号灯をよこせ!」

「少尉殿!あれは」


「黙ってろマカロフ!」と一喝したヴラソフは目を白黒させた水雷射手から信号灯をひったくると、光芒の中にその全容を晒しつつある友軍艦へ向けてモールスを打ち始めた。

 が、返ってきたのは信号灯の閃光では無く、甲板を赤く染め上げる十五.ニセンチ連装砲の斉射だった。発砲音を置き去りにした2発の砲弾が真上を飛び越し、後方で盛大な水柱を噴き上げる。艇尾から大波が押しよせ、減速しつつある19m程度の小舟が木の葉の様に揺れた。


「馬鹿共が、こっちは――ッ!」


 打ち上げられた飛沫を全身にかぶりながら思わず艇長が舌を打った直後、ガツンと後頭部を殴られつんのめる。「何を」と怒りと共に振り返ろうとした時、ごつい手が後頭部を掴み強制的に前方を向かせた。


「バカはアンタだ!マストを見ろクソ野郎!」


 光芒の中の戦艦は、完全にその姿をこちらに晒している。見間違えるはずもない、アルマトイ級だ。

 重心の低下を狙ったのか、列強の戦艦の様に背負い式にはせず甲板に並べられた3基の主砲塔。図体に比して小柄な上部構図物。艦の中央付近に搭載された3基の十五.ニセンチ連装砲は、彼らから見て右舷前方に位置する『B-202』を指向できる2基がこちらを睨んでいた。

 そして、艦橋の後方から伸びあがるマストは――――――幽霊船の様に閑散としていた。

 戦闘の興奮に支配されかけていたヴラソフの顔が、氷山の様に青ざめる。


「バ、かな」

「これで分かっただろ!奴はフラグレスだ!退避を!」

「そんな、そんな筈は……」


 目の前に広がる現実に喘ぐような声を上げた瞬間、ヴラソフの醜態を嘲るように第3射が至近弾となって着弾する。『B-202』の両舷を挟むように着弾した2発がほぼ同時に炸裂し、無数の破片が艇を襲った。

 長く海軍生活を続けてきたマカロフは背筋を走った悪寒に従い、とっさに操舵室の天板に身を投げ出して左右から突入する鉄の暴風をやり過ごす。耳に異物をねじ込まれるような衝撃波に耐えた刹那、この場には場違いなほど熱い液体が全身に降りかかったのを感じる。殆ど直観的に事態を察しつつ身を起こした彼の前に有ったのは、無数の破片によって剣山と化した有機物の塊だった。

 最後まで不愉快な死に方をする男だと、無意識のうちに舌を打った。


「――役立たずがっ。操舵手ヴァーリャ!取り舵一杯!両舷前進一杯!逃げるぞ!」

「い、いいんですか!?」

「艇長は戦死した!ミンチになりたくなけりゃ走れ!」


「了解!」と戸惑ったヴァーリャの声と共に、『B-202』が甲高く咆えた。漂流する流木と化していた魚雷艇が自らの役割を思い出し、水を得た魚の様に海水を蹴り走り出す。

 彼らの操るG-5級魚雷艇は高名な航空機設計者、アンドレイ・ツポレフによって生み出された高速艇だった。高々19mの艇体は航空機と同様に軽く強靭なジュラルミンによって構築され、心臓として航空機用エンジンAM-34をベースとした高出力水冷エンジンを2基搭載している。軽い艇体に強力なエンジンを得た結果、最高速力は50ktを超えることすら可能な戦闘艇だった。

 水冷エンジンの咆哮が大きくなるごとに、惰性で進んでいただけの艇体は見る見るうちに加速し、海面を跳ねる様に駆け始めた。

 操舵輪を握るヴァーリャは一度右へフェイントをかけた直後、目と鼻の先で開く砲焔の閃光を横目に思いきり取り舵を切って、左へ艇首を回し始める。直後、フェイントに釣られた敵の射弾が、艇尾を円周の外側へ振りながら大きく旋回を始めた『B-202』の後方へ水柱を突き立てた。ハズレ弾の作り出した白い瀑布が、一瞬だけ『B-202』の姿を敵から隠した。


「魚雷投棄!」


 タイミングを計った水雷射手のミーシャが、我が子同然に整備を続けていた2本の魚雷を躊躇いなく切り離す。

 後方で控えめな飛沫が踊ると、重量物を下ろした『B-202』は後方から蹴飛ばされたかのように加速し、艦尾を襲うはずだった1発の砲弾を寸でのところで回避した。

 しかし、その程度の小手先の技だけで敵の凶弾から逃れることはできない。旋回を終えようとする『B-202』の後方へ向けて、ほとんど水平近くにまで倒された6本の砲身から矢継ぎ早に砲弾が送り込まれる。

 後方に移ったアルマトイ級の姿を模したフラグレスが閃光を発するごとに、轟音と飛翔音が響き渡る。その一瞬後、ランダムに回避運動を続ける『B-202』の右に、左に、時には正面に大木とすら思える水柱が吹き上がった。暗い夜空に伸びあがった白い腕が、小癪な水雷艇を力づくで水底に叩き落とそうとするかのように崩れ落ち、ジュラルミン製の艇体を不気味に振動させ、弄んだ。


通信手ダーニャ、司令部に通信だ!」


 硝煙をたっぷりと含んだ海水を全身に浴びるブラソフは、無駄とは分かりつつも機関銃の安全装置を解除しつつ、艇長代理の役割を果たそうと努力する。


「フラグレス艦隊見ユだ!平文でいい!………復唱はどうした!?」


 直ぐにすっ飛んでくるであろう復唱が来ない艇内に、嫌な予感を抱きつつ足元を覗き込む。ガソリンの匂いが普段よりも濃い暗い穴倉の中に有ったのは、血の海にうずくまる戦友の姿と、そこかしこにべったりと血糊が付いた内壁だった。


「っ!おいミーシャ!」

「駄目だ。さっきの至近弾で、通信機とダーニャがやられちまった。……俺も、ちぃと当たり所が悪かったかな」


 口の端から赤黒いものを流しながら、それでも不敵な笑みを浮かべて見せるミーシャの姿に、獣の唸り声の様な音が喉の奥から漏れる。次から次へと湧き上がる感情を必死にこらえ「そうか、少し休んでろ」と言う反応をかろうじて絞り出した。

 今すぐ艇内へ飛び降りて手当てをしてやりたいが、今外界を直接視認できるのは自分だけだ。『B-202』は操舵手の命を守るため、窓に増加装甲を溶接していた。至近弾の破片の中、操舵手であるヴァーリャの命を守る役には立っているようだが、それと引き換えに視認性を極端に悪化させている。ここで持ち場を離れることは、敵の面前から目隠しのまま逃げ切るのと同義だった。

 最悪だ、いったいどうしてこうなった。とこの世の全てを呪いながら、上体を起こす。既に艇はフラグレスを後方に、一目散に離脱を始めている。前照灯が消えたこともあり、後方で瞬く副砲の閃光以外に光はない。


「他の艇は――――」


 視線を味方がいるはずの南へ向けた時、この災難は自分たちだけに起こったわけではない事を悟った。

 暗闇の中にぽつぽつと光が瞬いては遠雷の様な音が轟き、打ち上げられた水しぶきの滝の様な音がおどろおどろしく伝わってくる。

 それだけでなく、波間の向こうに一際巨大な火柱が一つ、二つと続いて打ちあがった。低く垂れこめた雲を煌々と照らす焔の柱、その根元に何が、誰がいたのか、何が起こったのか考えるまでもない。


「ああ、畜生。まずい、まずいまずいまずい!」


 フラグレスは1隻ではない、艦隊だ。それも、カスピ海艦隊と真正面から殴り合えるレベルの大艦隊だ。間違っても、港に残された魚雷艇部隊の手に負える相手じゃない。いやそもそも――

 マカロフがこの先待ち構える最悪の未来に考えが至った瞬間。それまでの砲撃が小鳥のさえずりに聞こえるような轟音が、後方から叩き付けられた。

 咄嗟に振り返った彼の目に飛び込んできたのは、仰角を一杯にまで振り上げた四〇センチ砲から迸る紅蓮の閃光。耳をつんざき、内臓を震わせる轟音を残して砲弾が飛翔する先に何が有るのか。この地を守護する、第23水域警備隊に所属する者の中で理解できない者はいない。


「やめ」


 最後の言葉を口にする前に、『B-202』に1発の一五.ニセンチ砲弾が飛び込んだ。

 細長い魚雷艇の中央に位置する操舵室の後方基部に命中した砲弾は、ジュラルミン製の外板と水雷射手の亡骸を引き裂いて突入し信管を作動させる。円筒形の魚雷艇が一瞬内側から膨れ上がったかと思った直後、タンクから漏れ出て艇内に充満していた気化ガソリンが誘爆を引き起こした。

 途端に膨れ上がった火球と、天まで焼かんと立ち上る柱の中に『B-202』だったものが瞬時に飲み込まれ、黒焦げの無機物と有機物の霰がカスピ海に散布されていった。

 それから17秒後、水平線上に辛うじて浮かんでいた地表に数か所の閃光が生まれ、続いて真っ赤な火炎が夜空を赤く燻り始めた。



 後に「紅蓮の夜」と呼ばれる事件。1941年8月24日に発生したフラグレス艦隊によるにより、歴史の荒波は再び世界を襲い始めた。





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