7th Chart:届けぬ呪い

 天井から吊るされた蚊帳の隙間を、静かな寝息と共に夜風がすり抜けていく。縁側に位置する廊下には月の光が届き、明りの落ちた室内が薄ぼんやり浮かびあがっていた。

 永倉邸の一室、有瀬が海軍兵学校に入るまで使用していた自室とでも言うべき場所では、久方振りに畳の上で床につく彼の姿が有る。一定のリズムで上下する胸にも、脱力した顔と四肢にも、覚醒する気配は微塵もない。

 時計の短針は頂上を過ぎ、草木も静まり返っている。辛うじて遠くの方から鈴虫の鳴き声が伝わってくるが、耳を澄まさねば聞こえないほど微かなものだ。

 そんなほぼ静寂と呼んでいい空間に、木の軋む音が遠慮がちに響いた。同時に、半分ほど開かれた障子に人影が写り、畳に影を落とす。影は障子を回り込んで部屋に踏み入り、蚊帳をまくり上げる衣擦れのような音が続く。

 息を殺し、可能な限り物音を立てぬように、手慣れた様子で有瀬の傍に腰を下ろした影――永倉永雫は、月明りと闇に成れた目にハッキリと映し出される有瀬の寝顔へ視線を落とした。

 静かに寝息を立てる青年に、知らずと目尻が下がり口の端が僅かに上がる。


「有瀬……」


 蚊の囁くような声が漏れ、するすると伸びた華奢な指が、横たえられた手に伸びゆっくりと労わるように絡みついた。他人の体温が指先からじんわりと広がり、同時に胸の奥で熱く甘い棘がゆっくりと心臓へと突き刺さっていく。

 海色の瞳が揺れて彼の顔を視界に入れるが、起きる気配はない。当然だ、この男の寝つきの良さと眠りの深さは良く知っている。総員配置の非常ベルでも持ってこない限り、起きることはあり得ない。

 だからこそ、このように浅ましい行為に自分が耽れるのだと、頭のどこかで侮蔑するような思いが浮かんでは消える。

 お辞儀をするように上体を傾け、同時に両手で持ち上げた彼の手の甲に頬を付ける。途端に湧き上がってくる多幸感と、それに倍する罪悪感、嫌悪感に目を細める。半分熱に浮かされた様な吐息が微かに空いた唇を通り抜けていった。


 自分が何時から、この男にこのような感情を向けるようになったのか。


 今となっては大昔の事過ぎて覚えていない。解っている事と言えば、この想いを伝える未来は終ぞ来ないだろうという冷たい確信だった。


 ――アレの、永雫の事をどう思っておるのだ?

 ――…………妹、の様なものでしょうか


 数年前、有瀬が海軍兵学校へ入る前の晩。縁側で月を見上げながら養父と話していた彼の言葉が、自身の愚かな行動に灸を据える様に、ザクリと音を立てて突き刺さった。今でも思い出すたびに痛みを伴う記憶だ、当時の自分がどれ程の衝撃を受けたのか、想像に難くない。声帯が役割を放棄した結果、声なき悲鳴すら上げなかったことは、不幸中の幸いと言えるだろうか。

 あの後、彼らが何を話していたのかは知らない。

 届けるはずだった茶と茶菓子を台所に戻し、自室へと文字通り逃げ込んだ。気が付けば部屋の中で布団にくるまり、失意と絶望と自嘲でグチャグチャになった心を、何とかまとめようとこねくり回していたことをよく覚えている。


 理解していなかったわけではない。頭のどこかでは、彼が自分に抱いている感情が自身の望んだものではないと勘づいていた。


 私に向けられているのは、よく見ても親愛なのだと。幼くして両親を亡くすという、同じような境遇を経た、憐憫に他ならないと。その事実に目と耳を塞ぎ、独りよがりの片想いと認めることから、逃げていたツケなのだと。

 でも。それでも、彼は私にとって全てだった。

 誰の目にも、私は高性能な代物を生み出す道具に映る。

 国家の安寧へとつながる鍵の一つ、もしくは栄達や保身のために利用する駒、もしくは皇国を大艦巨砲と言う古臭い代物に誘惑する魔女なのだと。

 伏美宮殿下、嶋田長官、豊田長官、矢木博士、宇田川博士、呉工廠の技師たち、艦政本部の連中、連合艦隊司令部の馬鹿共。

 養父の宇垣纒も例外ではない。ここまで育ててくれた恩義は無論感じているが、その厚意も私の中にかつての親友だった父と母を重ねているから、呼び起こされたモノに過ぎないのだろう。言ってしまえば二人がこの世界に残したモノであるから、良くしてくれているだけだ。

 未だに永倉の姓を名乗らせているのがその証拠だと、下種な邪推すら頭に浮かんでしまう。

 そんな中で、彼だけは自分をただの一個人として見てくれた。

 得体の知れないものを生み出しはするが、意地っ張りで可愛げのない、只の小娘にすぎないのだと。悪目立ちする豪勢な道具才能では無く、それを握り振りかざす自分に目を向けてくれたのだ。

 彼が気が付くことは無いだろう。私が強大な戦艦の建造に固執するのは、彼を失いたくないがためであることを。

 不沈艦などと言う夢物語に時間と能力をつぎ込むのは、その特異な才能によって最前線へ出向くことを運命づけられた、彼自身を守るためであることを。

 A-801はその夢物語への一歩だ。あの艦ほどの規模ならば、本来ならば四十六センチ砲程度ならば楽に搭載できる。それを長砲身であるとはいえ四〇センチに抑えたのは、その分を防御重量や予備浮力に回すためだ。あの設計であれば、決戦距離から四十六センチ砲弾を撃ち込まれても簡単には沈まない。航空魚雷だって、十本やニ十本では沈まない工夫を凝らした。

 これに続く艦に対しては、それ以上の防御性能を付加するつもりだ。ありとあらゆる資源が不足するこの国において必要なのは、圧倒的多数では無く、絶対なる一に他ならない。


 だからこそ、現状は歯痒くて仕方がない。


 航空機の発展に、残念ながら水上艦は大きく後れを取りつつある。

 人間と言う存在は己の成功体験に醜いほど固執しがちだ。今、この段階で新しい選択肢を提示しなければどうなるか――多様性を失った生物の生末を考えれば容易に想像がつく。そして、この男が甲鉄会に所属する、砲術屋の甲種特急士官である以上、未来に待つのは戦艦艦長の椅子だ。

 化石の天才。100年前の英雄。そんな蔑みの言葉を投げつけられ、失意の元で早々に海軍を去るのであればまだ良かった。

 表舞台から姿を消したとはいえ、復権を目指す甲鉄会の面々にとって彼の才能は捨てるに惜しい。彼らの目論見通り、彼は海軍に残り海上護衛総隊でキャリアをスタートさせた。

 シルク洋における海上護衛戦で中小口径砲を操る砲術長として才能を開花させ、標的艦『摂津』では世界有数の母艦航空隊を手玉に取って見せた。

 そして今度は、帝国海軍の花形。連合艦隊の末席に加わることとなる。


「でも、少しだけ、安心した」


 ゆっくりと、私自身に言い聞かせるような言葉が漏れていく。

 扶桑型戦艦1番艦『扶桑』

 砲弾の投射重量だけならば長門型に匹敵する、帝国海軍が初めて建造したオンボロ戦艦。艦齢は優に20年を超え、艦体の彼方此方にガタが来ている。重要区画を強固に覆っているはずの装甲もサビつき、崩れかけている可能性すらある。

 真面な技術者であれば、あの艦はもはや実戦運用に耐えられる状態ではないと理解できるだろう。せいぜい、上陸支援の艦砲射撃に用いるぐらいが関の山だ。今でも、もっぱらの任務は乗員の育成であると聞く。

 そのような艦の砲術長になり、よしんば連合艦隊に実戦の機会が訪れたとしても、『扶桑』が砲焔に霞む艦隊決戦に参加することはない。

 一トンに達する巨砲の直撃を受け四散し、業火に焦がされ、重油の海に沈む結末が訪れることはない。航空機を主力と頼む連中が、海鷲の命を景気よく売りさばいている後方で、なんら戦局に関与することなく無為に時間を浪費するだけになるだろう。それか、燃料問題を理由に柱島に錨を下ろしたままという事も十分ありうる。

 大丈夫だ、まだ大丈夫。死神は、まだまだはるか後方だ。


「大丈夫、貴方は死なない。まだ、死なせない」


 彼が任官し、この家に帰ってきた際。寝入った後にこうして枕元で紡ぎ続けた願い呪いを、今再び口にする。この言葉自体、彼では無く私自身に向けた代物であると理解しつつも、技術者としては鼻で笑うべき言霊に縋る滑稽さに眉を顰めつつも、言葉にせずにはいられない。


 失いたくない、消えてほしくない、死んでほしくない。


 傍にいて欲しい、返ってきて欲しい、元気でいて欲しい。


 ――何より、愛して……


 喉の奥まで出かかった言葉を奥歯を噛締めて摺りつぶす。思わず自分自身を八つ裂きにしたくなるような傲慢さに、内心で吹き荒れる嫌悪感に、ギリと微かに歯が鳴った。

 駄目だ、ソレはもう願わないと決めたはずだ。

 彼の為に、自己陶酔染みた台詞しか吐けない女が望んでいいことではないし、何よりきっと彼はそれを望まない。ただ一人では無く、養父と同じように国家を守る道を歩むと決めた男にとって、それは何より邪魔な感傷だろうから。

 ここで踏みとどまることができれば、もう少し事情は簡単だったかもしれない。彼への想いを完全に捨て去れるほど私自身が強ければ、こんな無様を晒すことはなかったはずだ。


 けれど、私は弱い。


 脆弱な自己を守り、怠惰な己を律するためには理由が必要だった。

 何もかもを放り投げ、逃げ出そうとする自分を繋ぎとめる錨が。その鎖を手放したとき、私は考えることを止め、本当にただの道具になり果ててしまう。

 だからこそ、自身の弱さに殺意すら覚えながら、許されない願いを口にする。届かぬのでは無く、届けてはならない身勝手な呪いを口にする。


「こんな私でも、貴方を愛し続ける事を許して欲しい」


 こうして、夜ごとに自身の喉と心に釘を差す。空虚な想いを鋭利な刃として、胸の奥底に深く突き刺しておく。これ以上、この愚かな小娘がバカな行為を起こさぬように、今以上の重しを彼に乗せない様に。




 ――ああ、いつからだろう




 ――彼の前では泣かないと決めた誓いが、形骸となってしまったのは





 つう、と頬の上を一筋たれた熱に怒りすら覚えながら、しばらくその場を動けなかった。










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