106話  恋人の距離感

<灰塚 連>



「………あはっ」



待ち受け画面に戻っているスマホを見下ろしながら、俺は口角を上げる。

叶愛の寝顔が液晶に映っていた。横向きになって静かに寝息を立てている叶愛の顔。この写真はもう、とっくに俺にとってお守りみたいなものになっている。

彼氏彼女の関係になってやや半年、俺たちはついに春休みを迎えていた。



「早く行かなくちゃ……な」



スマホの画面をもう一度指でなぞった後、起き上がってリビングに向かう。ちょうどお母さんがソファーに座ってテレビを見ていた。



「あら、おはよう。いつもより起きるの早いわね?」

「まぁ……色々あって。そうだ、今日朝ご飯は要らない」

「どうして?」

「コンビニで適当に済ませるよ。今日も図書館行くんだから」

「……あんた最近毎日行くのね。図書館」

「……まぁ、勉強のためだし」



ウソは付いていない。叶愛と一緒にいると、特にやることがないからイチャついたり勉強したりするのがほとんどなのだ。

向かう先が図書館じゃなくて、彼女の家だってことはまるっきりウソだけど。

でもお母さんはまだ叶愛の存在を知らないし、変に口走ってお父さんの耳に届いたりでもしたら厄介なことになるので、今のところ明かすつもりもなかった。



「でも、サンドイッチくらいは作ってあげるから。それ食べて行きなさい」

「いや、でも……」

「なに?早く行かなきゃいけない理由でもあるの?」

「……………」



叶愛が待ってるから……とはさすがに言えないな。両親に変に勘ぐられたら大変そうだし……はぁ、仕方ないっか。

……ああ、早く会いたいのにな……



「分かった……シャワー浴びてくる」

「うん、行ってらっしゃい」



後ろ頭をかきながら答えた後、俺はさっそく着替えを持って洗面所に向かった。

そういえば、いつかは両親に叶愛のことをちゃんと紹介してあげなきゃだな……反対されるんだろうな、たぶん。

まぁ、反対されてもどうせ勝手に結婚するんだけど。








家を出てから20分くらい経って、俺はようやく叶愛の家の前に着いた。

インターフォンを押すこともなく、俺はさっそく財布から合鍵を取り出して鍵穴にさしてみる。門はすぐに開かれて、もう見慣れた風景が俺を向かい入れてくれた。

女の子一人で暮らすのには少し贅沢な広いリビング、その横にあるキッチンと食卓。そして……



「お~そ~い~」

「いや、まだ10時半だからね?約束はちゃんと守ったから」

「……むぅ」



ほっぺを膨らませながらも、すぐに駆け寄ってくる俺の可愛い彼女さん。

叶愛はすぐに俺に抱き着いて、背伸びをして顔を近づけてきた。



「………全く」

「ふふっ」



キスを交わすと、叶愛はすぐに口元を緩めて再び首に両手を回してくる。

その愛おしさに耐えられるはずもなく、俺も叶愛を抱き返してから大きく息を吸った。

ああ………落ち着くな。生き返る………



「だいたい15時間ぶりだね」

「違う、16時間だよ……俺、昨日18時に帰ったから」

「あっ、そうでした。ふふっ……夜に連絡までして。そんなに寂しかったの?」

「寂しいと言うか……会いたかったんだよな、とにかく」

「………またそんなことサラッと言って」

「もう慣れてもいいんじゃないの?」

「時間と場所関係なく不意打ちしてくるんだもん。慣れるはずがないじゃん」

「ええ……そうかな」



自分じゃあまり実感がないけど。でも叶愛が喜んでくれるのならそれでいいっか。



「朝ご飯、食べてきた?」

「………ごめん。朝、お母さんに捕まっちゃって。食べてきた」

「じゃ、後でお昼一緒に食べようね」

「……叶愛は朝ご飯、ちゃんと食べたの?」

「まぁ、元々は連と一緒に食べるつもりだったけど……でも連も知ってるでしょ?私が朝ご飯あんま食べないの」

「………ごめん」

「本当にもう……ふふふっ」



少し申し訳なさを感じながら言うと、叶愛はしょうがないと言わんばかりの顔で再び俺を見上げてきた。

さも愛おしそうに俺の頬を両手で包んでから、茶目っ気たっぷりな声を発してくる。



「じゃ、後で埋め合わせしてもらおうかな」

「まぁ、俺にできることならなんでも」

「ふうん、昨日は何もしてこなかったくせにな~~」

「……まさか」



叶愛の言葉の意味を察して、一瞬で背筋がぞっとしてしまう。

そうだ、叶愛がこんなことを言う時はだいたい………エッチを誘う時だから。



「……今日はいっぱいするんだからね?」

「……ふうん、じゃ今から?」

「………………あれ、えっと………そ、そんなつもりじゃなかったけど……」

「ぷふっ」

「ちょっと!!」

「はい、はい。とにかく座ろう?立ちっぱなしなのも良くないしさ」

「むぅぅ……」



今日最初に見た時と同じく、叶愛はまたほっぺをパンパンに膨らませてくる。そのむくれた表情も可愛くて、また大声で笑ってしまった。

持ってきたカバンを適当に置いた後、俺は洗面所で手を洗ってから再びリビングに戻った。そしたら、まだ目を細めたままこちらをジッと睨んでいる叶愛の姿が映ってくる。

また幸せで噴き出しそうになるけど、どうにかして抑え込んだ。



「…………」

「はいはい、俺が悪かったから」



ソファーに座っている彼女の横に腰かけてから、俺は自分の膝を両手でトントンと軽く叩いてみせた。

すると、叶愛は待っていたかのように俺の太ももの上に座って体重を預けてくる。

そのまま、俺はまた彼女の体をぎゅっと抱き寄せた。さっきより叶愛の香りがもっと濃くなって、幸せがむくむくと込み上がってくる。



「もう………また抱き着いて」

「これに勝てるやつがいるもんか。自分の彼女がこうして甘えて来るのに」

「…連はね、意外と抱きしめるの好きなんだよね」

「………そう?」

「うん、絶対そう。だって家にいる時しょっちゅう抱き着いてくるんだもん。学校にいる時もそうだし」

「……学校のアレは、叶愛がうながしたんでしょ?」

「ひ………人のせいにしない。もう、どうしてこんな甘えん坊になったのかな……昔はあんなに頼もしかったのに」

「誰のせいでダメになったと思ってるんだ……これは正当防衛だからな」

「ふふふっ」



……抱き合うの、自分も好きなくせにな。俺が先に離そうとしたらいつも嫌だってただこねるくせに。

誰のせいだ、本当……

でも甘えん坊という言葉を聞いて、今朝の通話の内容がふとよみがえってくる。

そっか、確か話したいことがあるって言ってたよな。



「そうだ、そういえばなんかあったの?今朝になんか面白い話あるって言ったじゃん」

「あ………それね」



叶愛は少々間をおいてから、自分の腰に回されている俺の腕をぎゅっと摑んで背中を預けてくる。

お互いの息遣いが感じられるほどの距離になってから、ようやく叶愛は口を開いてくれた。



「ユリの夢を見たんだ、昨日」

「………えっ」

「久しぶりに見たんだよね。テスト期間中に、ユリがわざわざ私のために差し入れ作ってくれる夢だった」

「………大丈夫?」



自然と自分の声に力が入ったのが分かった。

だって叶愛にとって昔の家族、特に妹さんの存在は大きな傷跡きずあとなのだ。夢にうなされて泣き叫んでいた叶愛の姿を、俺は未だに忘れていない。

でも叶愛は俺の反応を見て、少し苦笑を浮かべるだけだった。



「大丈夫。悪夢じゃなかったよ。だからそんなに張り詰めた顔しないの」

「………いや、でも」

「言いたいことは分かるけどね。でも本当になんでもなかったから、安心して」



それでも心配だったので、俺は急いで彼女の顔色を確認した。

……確かに青白くなっているようには見えないけど。それでもまだ不安が残っていた。

叶愛にとって過去は不幸の象徴であり、時間が経った今でも本人を苦しめる疫病神やくびょうがみみたいなものだから。

叶愛が過去に取り付かれてどんな行動をしようとしたのか、俺はちゃんとこの目で見ていたのだ。

でも次の瞬間、少し突飛なタイミングでいきなり横から笑い声が聞こえてきた。



「あはははっ」

「……何が可笑おかしいんだよ」

「ううん、私すごく愛されてるなって実感して。ふふふっ」

「……そりゃ、当たり前だろ」

「…………夢の内容は、後でじっくり話すから」



その言葉を発した後、叶愛は体の向きを変えて俺を真っすぐ見つめてくる。

お互いの視線が空中で合わさって、絡んで溶けて。

少し潤ってとろけている叶愛の瞳を見ただけでも、心臓がドクンと鳴る。

ああ、これは……

する時の、流れ…………



「………しよ?」

「………ベッド?それともここ?」

「ベッド」

「……俺、今日参考書持ってきたんだけど」

「じゃ、今日それ持ってきたのはミスだったね」

「やっぱりそうなるか……」



まぁ、一応分かってたけどな………



「連」

「うん?」

「……愛してる」

「うぐっ………」



速攻でキスをしてくる彼女さんにときめきながら、俺は漏れ出る笑いをグッと込めて彼女を優しく抱きしめた。

お母さんには勉強するって言ってたけど……でもまぁ、いいよね。勉強より大事なことっていっぱいあるから。

俺たちは抱き合ったまま、ベッドに向かった。

そして結局、叶愛の言う通り持ってきたカバンが開かれることはなかった。

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