6章

105話  幸せな日常

ゆずりは 叶愛かな



静かな部屋の中で、ノックの音が響き渡る。

私は短くはい、と答えてからまたシャーペンを走らせた。



『お姉ちゃん』



でもそのあどけない声を聞いて、私は反射的にビクッと肩を震わせてしまった。

横へ振り向くと、妹のユリが少々首を傾げながらにんまりと笑っていた。両手には木製のトレーが乗せられている。

私が呆けている間、ユリはさっそく机の上に皿を置かせて再び笑って見せた。



『これ、差し入れ』

『……ありがとう』



差し入れは、サンドイッチだった。

両親は私を気にかけることもなく、基本的に私のための食事や差し入れとかも全く準備してくれなかった。だから今のようなテスト期間は、私にとってもっとも疲れてひもじい時期でもある。

ユリは毛布をかぶったまま勉強している私を見て、どんな思いをしたのだろう。

今じゃ、もう分からない。



『……あまり夜更よふかししちゃダメだよ?ちゃんと自分の体調にも気をつけてね?』

『………うん』

『……お姉ちゃん』



正直に言うと、この頃の私はユリからかけられるすべての言葉に嫌気が差していた。

あなたには分からないじゃない。あなたはいつも周りから愛されているから。両親にも期待されて、なんでもすらすらやってしまうから………

そうやって自分の中の劣等感が爆発して、ユリに当たり散らかしたことも何度かあった。私は、正にヒステリックな女だったから。

なのに……



『頑張って』



ユリは、そういう姉を決して見捨てずに、いつも傍にいようとしていた。



『私、応援してるからね。お姉ちゃんのこと』

『………うん』



どうして、どうしてこんなに優しくするの。こんな私を、なんでいつもかばおうとするの。

両親に怒られて叱られてると、いつも私のために声を上げてくれて。自分もテスト期間だというのに、わざわざ私の分まで差し入れを作ってくれるなんて。

ユリは、あのいままわしい男が母を自殺に追い込んでまでして産んだ子供なのだ。私にとってユリは、忌々しい存在に過ぎない。

だから一層のこと、ユリもあの人たちと同じく私を見縊みくびったり、貶したりして欲しかった。

そうすれば、私はすべてを家族のせいにして楽になれたのに。



『2時まではちゃんと寝てね?約束だよ?』

『………………』

『もう………ファイトだよ、お姉ちゃん』



応援しないで。

優しくしないで。私が悪いみたいじゃない。私は被害者なのに。

あなたを受け入れられない私が、せせこましくて図々しい人間みたいじゃない。

ユリが部屋を出てから、私は机に置かれているサンドイッチに目を向く。綺麗な皿の上に乗せられている、ツナとレタスがたっぷりと入ったサンドイッチ。

一つを摘まみ上げて、口に運んでみる。

砂糖でも入れたのか、マヨネーズの味と共に甘い味が口の中に広がっていった。



『………うくっ………ううう……』



なんで。

なんであなたは、こんな私の妹なのよ………なんで。

私の妹じゃなかったら。だったら、私は…………








「………あ」



……カーテンの隙間から光が差し込んでくる。

起き上がってカーテンを閉めてから、私はまたベッドに横たわりながらつぶやいた。



「……久しぶりだな」



ユリの夢を見るなんて。

かつての私にとってユリの存在は悪夢そのものだった。夢の中のユリは、いつも化け物の形象をして私を襲ってきたから。

こんな状況を望んでいたのではないのかと。私が死んで嬉しいんじゃないのかと。ねちっこく、執着的に私を苦しめていたユリ。

でも、今日は違う。ちゃんとまともな夢だった。ユリが出て来るのに悪夢ではないなんて、これが初めてなのかもしれない。

………そっか、彼がいるから。

二度寝することを諦めて、私は上半身だけ起こしてから隣にあるスマホに手を伸ばした。

画面を付けると、9:30という時間と共にメッセージの通知が来ていた。



「………れん



その名前を口にするだけでも、胸の奥から暖かさがじわっと広がっていく。

幸せが持ち出してくる笑顔を湛えながら、私は内容を確認した。



『起きてる?』

『……寝てるの?』

『おやすみ、叶愛』



………………ああ、もう。

十分間隔に届いたメッセージを見ながら、私はそっとスマホの液晶を撫でてみる。今すぐ声を聞きたいという衝動に駆られてしまう。

まだ朝の9時半か。今は……まだ寝てるかな?

……でもごめんね、こんな辛抱のない彼女で。

心の中でそう謝りながらも、私はスマホを操作して連に電話をかける。しばらく無機質な着信音が鳴って、そして……



『あ………うん……もしもし?』

「うん、もしもし」



だいぶ眠気が残っているような連の声が、耳元に聞こえてきた。



「ごめん。起こしちゃった?」

『………ううん、いいよ。普段もだいたいこの時間に起きるから』

「……そう、よかった」

『……えっと、なんで電話したの?今日午後にも会えるじゃん』

「……………」



ああ……もう慣れてもおかしくないのに、まだドキドキするなんて。でも、付き合い出した頃よりは慣れたのかな……

そんなことを思いながら小さく息を吐いた後、私は率直な気持ちを伝えた。



「……声が聞きたくて」

『……そっか』

「うん……」



少し間をおいてから、連はさっきより優しい口調で訊いてくる。



『……今日は、早めに行った方がいい?』

「うん。むしろ今すぐ来て欲しいくらい」

『それはムリだな……シャワー浴びなきゃだし』

「……どうせまた汗で汚れるのにな」

『…………叶愛』

「ふふふふっ」



…………ああ、幸せ。毎日毎日が幸せ過ぎて死んじゃいそう……

私が、連の彼女だなんて。

付き合い初めてもう半年以上も経ったのに、まだ実感が湧かない……



「今日はいつもの五倍くらいは甘えるんだから、覚悟してね」

『いつもの五倍ならさすがに死んじゃうかな……』

「……死ぬのダメ。絶対。とにかく、早く朝飯食ってウチに来るの。シャワーは浴びなくていいから」

『今日はやけに甘えん坊モードだな……』

「……そうかもね。後で連にも話してあげる」

『え?なにを?』

「私が甘えたがる理由」

『……なにかあったの?」



茶目っ気を抜いて、さっきより真剣になった声色で連はそう言う。本当に生真面目なんだから。

でも愛されているなとまた感じることができて、私は顔を綻ばせながらも首を横に振った。



「ううん、何もなかったよ。でも面白い話ならあるかもね~とにかく、連に早く会いたいな」

『……分かりました。じゃまた後で』

「うん、待ってるから」

『うん………できるだけ早く行くね』



電話を切った後、私は隣にあるクマのぬいぐるみにぎゅっと抱き着きながらもがき始める。



「うっ………っ……はああ……」



クマさんに完全に顔を埋めて、拳で何度もベッドのシーツを叩いた。

それでも全身に巡っている熱は、なかなか簡単には引いてくれなかった。

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