104話  したいと思う時

五十嵐いがらし 響也きょうや



とんだ無茶をしたあの出来事からやや一週間。

僕と朝日向あさひなさんは、駅の改札口の付近でお母様を見送っていた。



「じゃ、そろそろ行くから」

「…………うん」

「もう、どうせまた会えるでしょ?そんな顔しないの」



お母様は苦笑を浮かべているけど、朝日向さんはかげりが差した顔のまま俯いているだけだった。

……やっぱり罪悪感を感じているのかな。それも仕方ないっか。

本当に、お母様には色々なことをしてもらったから。



「響也君」

「はい」

「ウチの結を、よろしくね」

「……はい」



結果だけを言うと、朝日向さんはここで一人暮らしすることになった。

転校の件はもちろんお母様が学校側に謝って取り消してもらえたし、週末の間になんとか部屋も探し終えていた。

朝日向さんのお父様は既に引っ越しを終えて、ここからあまり遠くない場所で暮す予定だと言う。朝日向さんと会うのもそこまで難しくはないのだろう。

そして今日、すべての用事を済ませたお母様は実家にお帰りになる予定だった。



「じゃ、バイバイ。また後でね」

「はい、お気をつけて」

「うん。それじゃ……ゆい



優しい口調と共に、お母様は自分の娘に目をやる。朝日向さんは肩をビクッと跳ねてから、お母様と視線を合わせた。

部外者である僕でも分かるほど、切実な眼差しだった。きっと数えきれないくらいの感情が含まれているのだろう。

朝日向さんは少し迷って、そして……



「………お母さん」

「うん?」

「……ごめんなさい」



謝って。

力をいっぱい込めて、お母様に抱き着いた。



「………ごめんね。愛してるよ、お母さん」

「…………………」

「我儘で、ひどいことばかり言う悪い娘で本当に………ごめんね」



僕はそっと目を閉じて、その光景から背を向く。

大きなため息をこぼすと同時に、お母様の声が聞こえてきた。



「……ううん、違うわ。あなたはこの世界で、誰よりも素敵な娘よ………」

「……………」



母娘おやこ抱擁ほうようが終わるまで、僕はその場で立ち竦んでいた。

これはきっと、僕には許されない時間だから。

僕よりよっぽど強烈な絆で結ばれている、母娘だけの時間なのだ。









「そういえば驚いたな。お前があんなことするなんて」

「え?」



皿洗いをしている最中、連の言葉につい変な声が出てしまう。

僕は目を丸くして横を見る。そしたら、連は少し首を傾げてニコッと笑って見せた。



「ほら、朝日向の親御さんたちの前で、娘さんをくださいとか言ったんだろ?」

「そ、それは………!まぁ、そうだけど……」

「…もしかして本気じゃなかったの?」

「本気だよ!!そんなの当たり前じゃん!でもなんというか、心の準備というか………」



………ああああ。結婚……朝日向さんと結婚か。

もちろん嬉しいし、絶対に幸せにするってもう覚悟も決めてるし?問題はないけど……でも本当にとんでもないこと口走ったんだな、僕………



「ぷふっ」

「……なにがそんなに面白いの?」

「いや、今はヘタレてるから。朝日向から聞いた限りだともっと堂々としてたのにな」

「……あの時の僕はなんか変だった」

「まぁ、仕方ないか。誰にだってそんなことはあるから」

「え、連にもそんな経験あるの?」

「いや………俺はなんていうか」

「ちょっと、そこの二人」



そうやってたわむれていた時、部屋に通っている木製ドアが開かれてゆずりはさんがこちらに近づいてきた。

彼女は相変わらずその特徴的なアッシュグレーの髪を靡かせて、目を細めてジッとこちらを見ている。



「ちゃんと仕事しなさい。こっちはもう終わったんだからね?」

「こっちもほとんど終わったから。ソファーとかテレビは明日に届くんだろ?」

「まぁ……そうだね」



確かにあんまりやることはないかも……そもそも一人暮らしだもんね。掃除とかは4人でもう済ませたし、強いて言うなら買ったばかりのキッチン用品を洗うくらいだけど、それは今僕がやっているし。

リビングの掃除や家具の配置担当の連は、確かにやることがない。



「ふうん……じゃ、私たちもそろそろ帰ろっか。もう夕方だしね」

「えっ、二人とも一緒に夕飯食べて行くんじゃなかったの?」

「そうだよ、叶愛。そんなに急かさなくても………うっ」



…………うん?



「ふふふっ、家まで送ってくれるよね?連」

「あ……ははっ……ははは」

「私、今日は二人きりで食べたいな~なんて」

「………あああ、そういうことか」



わけのわからない杠さんの合図を見て連は何を察したのか、奇妙な表情でこちらに顔を向けた。



「ごめんな、響也。てなわけで」

「…………うううん?」

「結~私たちそろそろ行くね~~?」



杠さんがそのことを伝えると、朝日向さんもだいぶびっくりした様子で部屋から出てきた。



「えっ、もう?いや、今日の夕飯は私のおごりで……」

「………ちょっと、結。耳貸して」



杠さんはまた目を細めてから手を振って、朝日向さんに顔を近づけた。

そして耳打ちで何を話したのか………朝日向さんの顔が、まるで染料せんりょうでも使ったかのように、段々と赤くなって行く。



「………っ」

「ふふふっ」

「………はい、頑張ります……」



…………ううううん?



「じゃ、私たちはもう行くから。また学校でね」

「あ……うん。今日はお疲れさま!連も、杠さんも!」

「ああ~二人ともまた学校でな」



簡単な挨拶だけをして、二人はついに出て行ってしまった。残された僕たちの間には重たい沈黙だけが残る。

……二人ともどうしたんだろう。なんか一気に空気が変わったからなにがなんだかよく分からないけど……まぁ、僕は今の仕事だけしていればいいっか。

そう思って、再びシンクに視線を向けた時。



「………五十嵐君」



いつもの五倍以上はつつましい口調で、朝日向さんがごにょごにょと言ってきた。



「あ、うん。どうしたの?」

「………その、えっと」

「うん……?あ、夕飯のこと?そうだね、何食べる?一緒に外食でもしよっか。僕も家に帰らなきゃだし……」

「は?」

「………え?」



………ううん?

あれ?朝日向さんの顔、なんか急に冷えて……



「…………帰る?家に?」

「うん?あ、うん。母さんも歩夢あゆも待ってるから………」

「………ちょっと待ってて」

「……ええ?」



そう言い捨てて、朝日向さんはまるで嵐でも吹いてるかのようなスピードで部屋に戻ってドアを閉めた。

………なんだろう、これ。

えっ、まずい。朝日向さんの顔すっごく冷えてたんだけど。僕が何かミスしたのは間違いないけど……え?

どこでミスったの、僕?え、どこ!?



「ただいま」

「あ、はい。おかえり……」

「……それ、手伝おうか?食器洗い」

「ううん?あ、いいよ!これももうだいたい終わったし……」

「へぇ………じゃ、終わるまで見ててあげる」

「は、はい……?」



なにこれ?!?!?ものすっごく気まずいんですけど、ちょっと?!

朝日向さんは何故だか、だいぶご機嫌斜めな眼差しで僕をじっと見据えていた。おまけに腕を組んで、片足もトントンと鳴らして……うっ。

いや、どこで……?どこで地雷を踏んだの?!昼にお母様の見送りの時に?いや、その後一緒に買い物してた時は全然平気だったよね!その後家に帰ってきてみんなで一緒に荷物ほどいて片付いて……え?

……ダメ。全然分かんない。ええええ……?



「………えっと」

「うん?」

「……朝日向さん、もしかして怒ってる?何か気に食わない部分でも……?」

「ううん、ないよ。全然。五十嵐君と二人きりなのに、気に食わない部分があるはずないじゃない」

「…………そ、そうですか」

「うん、そうだよ」

「…………………」

「…………………」



洗い物を全部片づけるまで、時間的にはだいたい5分くらいしかかからなかったけど。

でも僕にとっては、今までのどんな時間よりも長かったような気がした。朝日向さんのご両親を説得している時以上のプレッシャーが感じられる。

それでもどうにか後片付けを全部終えてタオルで手を拭いてから、僕はゆっくりと後ろを向いてみる。

朝日向さんは相変わらず、僕に半眼を向けていた。



「………えっと、僕。もう帰った方がいい?」

「はあ!?」

「ひいぃ?!ご、ごめん。いや、僕……何を間違えたのか全然分からなくて。えっと……」

「…………」

「………いや、やっぱり帰った方がいいんじゃ」

「……………本当に」

「え?」

「なんでいつもこうなのかな!!」

「うわっ?!ちょっと、あさひなさ……?!」



言い終えるも前に、朝日向さんは僕の手首を引っ張って部屋まで引きずり込んできた。そしてそのまま、僕をベッドに押し倒して上に乗っかってくる。

今まで感じたことのなかった鮮明な香りと体の重みに、僕は文字通り圧倒されてしまった。



「……あ、朝日向さん?」

「……あんなにかっこよかったのに」

「え?」

「お母さんとお父さんの前ではあんなにかっこよかったのに!!なんなの、五十嵐君はもしかして二重人格なの?!あの時は………!な、名前で呼んでくれたり、絶対に幸せにすると言ってくれたり、それにお………お嫁さんにもらうって、そんなことまで言ったじゃん!」

「…………えっと」

「なのになんで肝心なところだけはいつもヘタレるの!五十嵐君は……その……」



………これ、もしかして。



「私に……その、全く興味がないの?」



さ、誘われてる………?!

人生最大のピンチな予感がして、僕は素早く両手を振りながら否定した。



「あ、いや!そんなわけないじゃん!朝日向さんはいつも魅力的だし、二人きりでいるとドキドキしっぱなしで……朝日向さんに、その………興味がないわけ、ないじゃん」

「………でも、今日は帰ると言った」

「それは……さっきも言った通り、お母さんたちが待ってるから」

「そう、香澄かすみさんね……」



そう言いながら、朝日向さんはもはや全身を僕の方へ傾けて両手で頬を包んでくる。心臓が止まるくらいに鼓動が跳ねて、もう訳が分からなくなった。

段々と頭に血が登って行くのが分かった。これは…………ヤバい。

そんな状態で、朝日向さんは話を続けた。



「さっき香澄さんに許可取ったの。今日は五十嵐君のこと任されたんだから」

「えええ?!ちょっ、僕の意志は?」

「ちなみに香澄さん、もし五十嵐君が一人で帰ってきたらぼこぼこにするって言ってたから。もう勘弁して」

「…………………お母さん?」



いや、おかしいでしょ。本当に僕のお母さんなの?



「……五十嵐君は、私を幸せにしてくれるんだよね?」

「………うん。それは、間違いないよ」



不安な目つきに対して強い肯定を返した。朝日向さんは口角を上げてから、顔を近づけてくる。

頭が麻痺まひしそうなほど甘い香りが、全身を包む。

長い髪の毛が頬をくすぐって、僕の視界を覆った。目の前のすべてが朝日向さんだった。

微かに開いているピンク色の唇とか、少しうるおっている瞳とか、真っすぐに通っている鼻筋、白い肌……心臓がドクンドクンと鳴って、体がますます火照っていく。

今でも信じられない。僕がこんな素敵な女の子の彼氏だなんて。

この子と、未来を約束した関係になるなんて。

それが嬉しくて、幸せで……僕もつい両手を上げて、朝日向さんの頬を包んでみる。

驚くくらい、朝日向さんの肌は柔らかかった。



「……私、前に言ったよね。いつ、五十嵐君とああいうことをしたいのか」

「……うん」

「……今しかない気がするな」



ほぼ鼻先が当たるくらいに顔を近づけて、朝日向さんは喜びに満ち溢れている表情をする。

朝日向さんが何を言っているのか、僕は直ちに察することができた。だって、朝日向さんは前々から……

もっとも幸せな時に、初体験をしたいって言ってたから。



「……響也君」

「……なに?」

「名前で呼んで?さん付けせずに」



心の中がくすぐられるような感覚を感じながら、僕は応える。



「……結」

「うん」

「……好きだよ」

「……私は、ただの好きじゃない」



涙を零しそうなほど瞳を潤してから、結は……



「……私は響也君のこと、愛してるよ」

「……うん」

「きっと、これからもずっと……響也君だけを、愛し続けるから」



柔らかくて優しい、キスをしてきた。

すぐに恍惚こうこつな感覚に陥る。お互いが溶け合って一人になる感覚だった。目を閉じて、息をすることも忘れて何度もキスを交わして。

その後、目尻に浮かんだ結の涙をそっと拭いてから、僕も伝える。



「愛してるよ」

「………はい」

「これからも……ずっと、よろしくお願いします」



……ああ、いけないな。もう二度と泣かせないと誓ったのに。



「………はい、旦那様」



こんな幸せそうな表情に、また涙を塗ってしまったから。










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この作品もそろそろ終わりが見えてきましたね。明日からは毎日投稿する予定なので、何卒宜しくお願い致します。皆さん、本当にありがとうございます。

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