103話 思いのすべて
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「………明日か」
ベッドで横になったままぼんやりと天井を仰ぐ。窓の向こうから日がどんどん沈んで消えて行くのが見えた。もう夕方だ。
私は未だに、誰にも転校や引っ越しすることを伝えていなかった。
私の様子がおかしいからと言って
行きたくないから。
みんなに言ってしまったら、本当に私がこの理不尽な現実を受け止めることになってしまいそうで。
それが怖くて、結局引っ越し前日になっても言い出せなかったのだ。
「子供だな……私」
私がもっと大人だったら、成長してたら
……目が痛い。なんかすごくジンジンする。泣きすぎたのかな……そういえば喉も乾いてきたし、水でも飲んで来よう……
そう思って、私はベッドから立ち上がってリビングに向かった。
リビングに通っているドアを開けると、ちょうどお母さんとお父さんの姿が見えてくる。二人は何かを話していたけど私を見た途端、体を強張らせて慌てたような表情をした。
「あら、結……」
「………」
「……水飲みに来ただけだから」
あえてそっぽ向いてから、私は台所にある冷蔵庫の中でペットボトルを取り出した。
その間、両親がいるリビングには恐ろしいほどの沈黙が降りていた。
………こうなると分かっていたら、旅行なんて行かなければよかったな。だったらもっと明るく振舞えたかもしれないのに。
そっと目を閉じただけでも浮かび上がってくる。全身びしょ濡れになったままぱっと笑って見せる五十嵐君の顔が。
二人きりで何時間も過ごしていた五十嵐君の部屋が。
………ああ。わたし、本当ダメだな、私……
そうやって、再び自己嫌悪が湧き上がろうとした時――
「……うん?」
突然家の中でインターフォンが鳴って、私たちはお互い訳が分からない顔でお互いを見つめ合った。
えっ、こんな時間に……?
「お母さん、出前とか頼んだの?」
「ううん、違うわ。私が出てみるね」
お母さんはそう言ってさっそく玄関に足を向ける。まぁ……どうせ宅配業者さんくらいだよね。
私をごくりとコップの中の水を飲み干して、そのまま部屋に戻ろうとした。
でも、次の瞬間。
「あら、あなたは…………」
「…………お久しぶりです」
その声を耳にした時。
思うよりも先に体が動き出して、私はバタバタと足音を鳴らしながら廊下の方へ駆け出した。そしてドアを開けた次に見えてくるのは……
「………………あ」
「…………こんばんは」
「…………五十嵐、
「はい、そうです」
…五十嵐君だった。
私がこの世でもっとも大切に思っている男の子。
そんな彼はいつになく真剣な顔をして、お母さんに揺るぎのない眼差しを送っている。この目つきを、私は知っていた。
心臓が、ドカンと跳ね上がる。
手に汗が滲んでいく。頬に熱が上がるのを感じながら、耐え切れずに私は片手で口元を
五十嵐君は、深くお辞儀をしてから言った。
「本当に申し訳ございません。ですが、もう一度だけ話を聞いていただけないでしょうか」
「……………」
「お願いします」
お母さんは後ろにいる私を一度振り向いてから、深くため息をついた。
「それで、どうして来たのかしら」
冷たい声色で、お母さんは口火を切る。
私たちは今、リビングのテーブルを囲んでお互いを見つめ合っていた。五十嵐君は私のすぐ隣に正座をして、両親と向かい合っている。
お母さんは腕を組んで不機嫌な顔を隠しもせずに五十嵐君を睨んでいた。お父さんは最初は突然の事態に慌てていたものの、いつになく真剣な顔をしている。
漂う空気が重すぎて、横にいる私までハラハラしてしまう。
だというのに、五十嵐君は真っすぐな口調で言葉を返した。
「一つだけ、お願いしたいことがあります」
「そう、言ってみなさい」
「朝日向さん…いえ、結さんの一人暮らしを、許可していただけないでしょうか」
……………五十嵐君。
「そのお願いは、前に断ったはずなんだけど?」
「…部外者である僕がこんなことを言うのは、とんでもない無礼だと承知しております。でも、もう一度だけ考え直してください」
「冗談じゃないわよ、あなた」
お母さんは、一瞬にして冷え切った口調で言い放つ。次第にその口調は、私まで体を震わせるほどの刺々しいものに変わって行った。
「既に転校の手続きも終えたし、引っ越しの日付さえもう決まっている。あなたのそんな幼稚な
「ちょっと、お母さん!!」
「結は黙っていなさい!これはあなたの安全と未来がかかった問題なのよ。あなたにどう言われようとも、すべてを決める権利は私にある!!」
「それとこれとはなにも関係ないじゃない!!五十嵐君に謝って!!!」
「朝日向さん」
物静かな言葉を聞いて、まるで冷水をかけられたようにふと我に帰る。
急いで横を見ると、五十嵐君は薄笑みを浮かべたまま首を振っていた。
大丈夫だよと言わんばかりの顔で、ちっとも
……これって。
私が告白されたあの時と、同じ……
「お母様の言うことは、ごもっともだと思います」
「……じゃ、なんでまたそんな馬鹿馬鹿しい事を口にするのかな?」
「まだ、言い足りないことがあるからです」
五十嵐君は驚くくらいの意志を込めて両親を見据えている。見たことのないその横顔に、私はつい呆けてしまった。
お母さんは、少し目を見開いてから五十嵐君との視線を絡ませる。
「あの時、お母様はこうおっしゃってました。所詮は高校生同士の恋愛なんて軽いものだ。現実なんか全く気にせず、感情と勢い任せになってしまうから上手く行くはずがない。そうおっしゃっていましたよね」
「…そうだけど?」
「……僕は、そうは思いません」
「は?」
「全世界の高校生がそうだとしても、僕と結さんの関係だけは違います。違うと言い切れます。結さんがどう思っているかは分からないのですが、少なくとも僕は、結さんと付き合ったからにはちゃんと責任を持つ気でいます。責任を持って……幸せにする気でいるんです」
「……………」
五十嵐君は話し終えた後、少し俯いて膝の上に乗せた拳を強く握りしめた。その手がぶるぶる震えているのが見える。
お母さんは口を少し開いていたけど、段々と落ち着きを取り戻して冷酷さを増して行った。
「それを私に信じろとでも?」
「……っ」
「前にも言ったわよね?結は私の大切な娘よ。そんな娘を、出会って間もないあなたに任せろと言うの?」
「それは……」
「それに、これが勢い任せじゃなくてなんなのかしら。引っ越しする寸前にいきなり家に押しかけてきて転校を取り消してください、一人暮らしを許可してくださいとただをこねて。ええ、これが証拠ね。あなたに責任が取れない証拠!こんな子供じみた真似をして、私に信じろとでも?!」
「…………」
「ふざけないで欲しいわ。あなたたちにはまだ分からないのよ!今はまだ夢に浸りながらお互い好きすぎて離れませんとか言えるよね。でも、人間の関係なんて大したことでもない言葉や行動の一つで簡単に崩れちゃうのよ?!あなたを信じられるわけがないじゃない!」
絶叫に近いその言葉を聞いて、五十嵐君はもちろん私さえまともに言葉を紡げなかった。
そう、お母さんは既に経験したから。日常的なズレから生じた破局がどんなものなのか、今痛感しているから。
私たちは今、恋を信じてない人に恋の信憑性を語っているのだ。
「………っ」
それにお母さんの言うことも、すべて恨めしいほど正論だったから何も言い返さなかった。忘れかけていた怖さがまた襲い掛かってくる。
――いつかは五十嵐君と別れるかもしれない。
想像したくもない最悪な状況が私に吹き込んでくる。あなたも、いつかはこうなるかもしれないと。
その最悪は今、私の目の前にいるこの二人で。
こんな………こんなの………
「はい、すべて知っています」
でも、五十嵐君は……
「僕たちがまだ幼いということも。責任を取ると言ってもすべてが子供の
眩しいくらいに、挫けなかった。
「今はまだ子供の戯言に聞こえるかもしれませんが、僕は本気で結さんを幸せにする気でいます。結さんが転校して幸せになれるのなら、どんなに苦しくても僕は笑って見送るつもりです。でも……でも、結さんにとってそれは、幸せではないじゃないですか!」
「…………………」
「お別れのことを告げられてから約十日間、僕は傍で誰よりも結さんの頑張りを見てきました。精一杯現実を認めて、笑おうとして、愛している人達と最後まで笑顔で接する結さんの頑張りを、誰よりも見ていたんです!でも………でも結さんは僕といる時には、いつも泣いていました。離れたくないって……そう言ってました」
メラメラ燃え上る視線を送りながら、五十嵐君は言い続ける。
「ここには、結さんが大切に思うことがたくさんあります。僕以上に結さんを笑顔にする学校の友達、ここで積み重ねた思い出、僕との関係を含めて……本当に、ここには結さんにとってかけがえのないものが、たくさんあるんです!」
「…………」
「ですから、お願いします。もう一度だけ考え直してください。身の回りが心配だと言うのでしたら僕が付き添います。寂しくないように、傷つかないように丁寧に接しながら尊重します。本当に、本当にこれがすべてなんです。今の、高校生の僕が引き出せられる、搾り取られる思いのすべてなんです!」
「………………………」
「お願いします。結さんの大切なものを、どうかそのままにしておいてください。一度だけ……一度だけ、僕たちにチャンスをください!」
頭を深く下げながらも、五十嵐君は声を上げて両親にそう伝える。
私はその姿を横で眺めて、言葉の意味を
たまらなく嬉しくなって、また涙を零しそうになるのをぐっとこらえた。
「……………」
「……はっ、はははっ」
この長い沈黙を最初に破ったのは、お父さんだった。
「そっか……これが子供の、君の本気というわけか」
「……………はい」
「名前、確か五十嵐響也君だっけ?」
「……そうです」
「今の言葉だけを聞くとね、君は将来……」
お父さんは若干間をおいて、それから……
「結を、お嫁さんにもらおうと思っているのかな?」
そんな、爆弾みたいな言葉を投げてきた。
私と同じく、五十嵐君も当たり前のように驚いて即座に顔を上げる。横で眺めた表情には、ちょっとした驚愕さえ滲んでいた。
でも五十嵐君は私を振り向いて、お互い数秒視線を絡ませて、また少し笑ってから………
「はい」
本当にさらっと、そのことを宣言した。
「今はまだムリだと思いますが。いつかは、きっと」
「…………そうか」
お父さんはその答えに納得したように、それ以上は何も言わなかった。
でも、お母さんはなんともいえない複雑な表情で、まだじっと五十嵐君を凝視していた。
「…………………」
心の奥底で、何かが
お母さんは切なげな声で、ついに私に視線を送りながら質問してくる。
「……結は?」
「………」
「結はどうなの?結は……どうしたい?」
お母さんの声を聞いてると、また涙が膨らみそうになる。
お母さんが私のことを愛しているってことを、私はずっと昔から感じていた。私のことをどれだけ大切にしていたのかも、きっと。
でも………私はね。
「……ごめんね、お母さん」
「…………」
「私は、この人と一緒にいたい」
もう少しだけ、成長してみようと思うの。お母さんの懐を離れて、自分で未来の足場を踏みながら、ずっと。
失敗してもいい。私が挫けそうになった時は、いつも五十嵐君が傍にいてくれるはずだから。
私を支えてくれるはずだから。
「………………そう」
数えきれないほどの感情を息で吐き出してから、お母さんは。
ほんの少しだけ、苦笑を湛えて見せた。
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