102話  決意

五十嵐いがらし 響也きょうや



「あら、おかえりなさい」

「うん……ただいま」



……疲れたな。

キャリーバッグを自分の部屋に置いてから手洗いをして、僕はさっそくキッチンに向かった。

とりあえず水が飲みたかった。喉がつかえてずっとカラカラだったから、少しでもうるおしたかった。

ペットボトルの水をコップに注がずにそのまま飲み込んでいく。飲んで、一息ついて、また飲んで、一息ついて。



「…………ふぅぅ」



ため息をつして、また飲んで。

ペットボトルが空になった頃にはもう、お腹がパンパンで少し気持ち悪いくらいだった。



「どうしたの?」

「……うん?」

「旅行、楽しくなかった?」



母さんは何を言いたいのか、食卓の椅子に座ったまま薄笑みだけを湛えてこちらを見ている。僕を16年間包んで、守ってくれた笑顔だ。

それを向けられると、さすがにウソは付けなくなってしまう。

首を振って、僕は否定した。



「ううん、楽しかったよ。すごく楽しかった」

「そっか」

「……ペアリングも買ったし、思い出もたくさん作ったし、本当に……幸せだったよ」

「なのに、どうしてそんな顔なの?」

「………………」



母さんは椅子から立ち上がって僕に寄りかかってくる。いつの間にか僕より背が小さくなっているけど、感じられる大きさは目に映るそれとは段違いだ。

ちょっぴりしわが寄っているその両手を僕の首に回して、お母さんは優しい口調で言ってくれた。



「響也」

「…………うっ」

「いっぱい頑張ったね。よし、よし」

「…………ううっ……」



朝日向あさひなさんには、本当に散々泣かれてしまった。

昨夜は泣き疲れてそのまま寝落ちして、起きてからも泣き顔で僕を見つめていたのだ。一緒に手を繋いで家まで送ってあげた時には、もう目の周りがすっかり赤く腫れあがっているのが見えていた。

それをまた慰めて、泣き止むまで僕のふところを貸して。そのまま家に帰ってきたわけだが………

その間、僕は一度も泣かなかった。

ずっと大丈夫だよとか、気持ちは一緒だとか、安心してとか、そんなことばかり言っていた。朝日向さんに無様な恰好をさらしたくなかったから。

一人前の男なら、好きな女の子の前で涙を見せるわけにはいかないから。

………でも。



「母さん……」

「……どうしたの?」

「僕は………ぼくはっ」

「………響也」



それでもやっぱり、辛いことに変わりはなくて。

強がって気持ちを切り替えうとしても心が付いてきてくれない。こんなことで悲しむのは贅沢じゃないかと思いながらも、僕は母さんを抱きしめて泣き始めた。

せっかく付き合い始めたのに。

一年以上も片思いをして、ようやく思いがみのって幸せな時間が広がっていくのだと信じていたのに。朝日向さんも、僕と同じ気持ちでいるのに。

やっぱり僕は大人じゃない。大人なら、ここでどうせまた会えるからと気持ちにケリを付けて笑っていられるかもしれないけど、僕は……僕は、まだ幼いから。

大人から見たらガキでしかないから。でも……



「……くっ……うぐっ……くぅ……」

「……………」

「……母さん」



でも……なんで?

なんでこんなに好きなのに離れなきゃいけないの?なんで今さら??なんで………

僕には本当に……証明できないの?



「僕がもし、もっとたのもしい印象だったら………」

「……響也」

「もう少し大人びいていたら……少しは違ったのかな」

「……………」



あの時、朝日向さんのお母様に言われた言葉が、ずっと頭の中を彷徨さまよい続けていた。

あなたには責任が取れない。高校生の恋愛なんて、感情任せて進めていくもの。非現実的な妄想。



「こんなに好きなのに……覚悟ももう出来ているのに。なんでかな……」



あの時も、あらゆる言葉が喉奥に詰まっていた。

違います。僕と朝日向さんの関係はお母様が思っているほど薄っぺらい関係ではありません。

でもどれだけ言い切っても、その言葉が届くことはなかったのだろう。僕たちはまだ幼いから……なんの証明もできないから。

母さんは僕に回していた手を解く。その代わり、それを僕の頬に持って行って、目尻の涙をぬぐいながら優しく撫でてくれた。



「受け入れなきゃいけないものも、この世にはあるからね」

「…………やっぱりそんなもんかな」

「でも」



次の瞬間、お母さんは声にはっきりと力を込めてから言った。



「変えられるものだって、この世にはあるんだよ」

「……………」

「……あなたはいつも、周りのことばっかり気にしながら生きてきた。私はそんな響也に感謝しつつも、時には……あなたが、我儘であって欲しかったの」

「……母さん」

「頑張りなさい」








真っ黒になった部屋に上がって、電気も付けずにドアの前でじっと立ち竦む。暗闇の中、僕は頭の中である声をよみがえらせた。



『別れたくない……別れたくないよぉ……』



帰り際に言われた、朝日向さんの言葉が思い浮かんでくる。

朝日向さんは、僕にどうして欲しかったのだろう。

引き留めて欲しかったのか、駆け落ちしよって言って欲しかったのか、もしくは……ただ、慰めて欲しかったのか。

どちらも正しいようで、どちらも違う気がした。

僕はどうなんだろう。僕はどうしたいのか。

………そんなの、決まっているじゃないか。



「…………」



目をつぶって再び考えを巡らせる。僕は一緒にいたい。彼女と一緒に未来を歩んで行きたい。

でもそのためには、この気持ちが本物であることを朝日向さんのご両親に伝えなければいけない。証明しなければいけない。

どうしたら証明できる?子供の勢い任せのいたずらじゃないってことを、どうしたら上手く伝えられる?



「…………っ」



薬指にめられたペアリングを見下ろしながら考え続ける。果たして僕なんかに変えられるだろうか。

何度思っても出てくる結論は変わらない。とんでもない無茶ぶりしか思い浮かばなかった。

我儘で、礼儀なんか見つけられなくて、正に子供が思い至るような茶番劇ようなものしか浮かばないけど。

それでも今この気持ちは、16歳である僕にできる最大限の本物だった。それを、否定したくはない。

だから………



「ふぅぅ……」



もう一度だけ、ぶつけてみよう。

朝日向さんの言う通り、僕はどうしょうもないヘタレなバカだから。

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