98話  悔しさ

五十嵐いがらし 響也きょうや



どうして。

朝日向あさひなさんに最初にその話を聞いて真っ先に浮かんだのは、そんななげくような言葉だった。

学校から帰った後、二人になった途端に泣き始める朝日向さんに事の顛末てんまつをすべて聞いた僕は今、あるビルの前に立っていた。



「……………」



どうして、いきなりこんなことになってしまうのか。最初から薄々気付いてはいた。

朝日向さんのご両親の仲があまりよくない事も、そのせいで朝日向さんが不安がっていたことも、なんとなく察してはいたけど。

でも、こんな最悪な事態になってしまうとは……くっ。



「………うっ」



別れたくない。

遠距離恋愛だってできるのは分かってる。離れている間にも、朝日向さん一筋である自信もあった。

でも………まだ付き合って一週間も経ってないというのに、いきなり離れ離れになってしまうなんて。気安く納得できるわけがないじゃないか。

だから僕は、このビルの前である人を待ち続けていた。回りが暗くなっても、立ちっぱなしだったせいで足が痛んできても、ずっとずっと待ち続けた。

自分が出過ぎた真似をしているのだと、分かっていても。



「………あ」



そんな僕の願いが届いたのか、ビルのガラスドアの向うからある女性の姿が見えてきた。

端正なシャツと黒いワイドパンツを着こなして、できる女性っていう雰囲気を漂わせている人。その姿を見て、僕はすぐにその人のところへ駆け寄る。

間違いない。ちょっと疲れたようには見えるけど、あの顔。そしてあの印象は。

朝日向さんのそれと、あまりにも似ているから。



「し、失礼します!!」

「………あら」



朝日向さんのお母様はいきなり声をかけられて驚いたのか、目を丸くして僕を見下ろしてきた。

僕は緊張で爆発しそうになる心臓を押さえつけて、目をぎゅっと閉じて、深くお辞儀じぎをする。



「そ、その……朝日向ゆいさんのお母様で、間違いないでしょうか」

「…そうだけど」

「娘さんとお付き合いをさせて頂いている、五十嵐響也と言います」

「……そっか。あなたが」



頭を下げているせいでお母様の顔は見えなかったけど、でも最後の言葉には少しだけほんのりとした温度が感じられた。

でも緊張しすぎたせいで、その温もりが僕に届くことはなかった。唇を強く噛んで、僕はあやまちを犯さないよう注意しながら精一杯言葉を紡いでいった。



「あの……本当に、いきなり押しかけてしまって本当に申し訳ないのですが……とんでもない無礼を働いているのも分かっているのですが、どうか、少しだけお時間をいただけないでしょうか」

「…………」

「……お願いします」

「…顔を上げなさい」



僕は一瞬体をビクッとしてから言われるがまま、徐々に顔を上げた。

でも次第に目に映ってくるのは冷酷れいこくな拒絶の眼差しではなく、仕方ないと言わんばかりの苦笑が交じった優しい顔だった。

呆然ぼうぜんとしている僕に対して、お母様はさっきより緩んだ口調で言ってくる。



「喫茶店にでも行こうかしら。もちろん私のおごりよ」

「えっ……と……」

「その行動力だけは買ってあげるわ。さぁ、行きましょう」



まともに返事を返すも前に、お母様は僕に背を向けてぽてぽてと歩き出した。

僕はしばし唖然あぜんとしてから、ふと我に返ってその後ろ姿を追いかけた。







改めてみても、やっぱりうり二つの母娘おやこだった。

朝日向さん特有の溌剌はつらつとした雰囲気はないものの、朝日向さんが年を取って成熟したらこんな風になるんじゃないかと思えるくらい、二人は似ていた。

仕切りのある喫茶店の中、僕はそんな人と向かい合って生唾を飲み込んでいる。思ってた以上にも優しく接していただいて少し安心したけれど、緊張を全部ほぐすわけにはいかなかった。

相手は、あの朝日向さんのお母様なのだ。僕にとっては、好きな人をこの世に生んでくれた恩人なのだから。

そしてその人はただいま、右手で頬杖ほおづえをついて興味ありげに僕に視線を飛ばしていた。



「会社の住所は、結に聞いたの?」

「……はい。前に何度かお弁当を届きに行ってたって、朝日向さんが」

「そうね。でも連絡をくれても良かったじゃない?私、退勤時間が不規則なんだからいつ会えるかも分からなかっただろうに」

「……お仕事をされている間に、変に気を紛らわせるようなことを増やしたくはなかったんですから」

「………………」

「えっ、と………」



少しだけ目を見開いて、お母様はしばらくなんの反応もせずにぼうっと僕を見据えてきた。

緊張で冷や汗をかいてしまいそうになる。向けられた視線に対して顔を背けないのが精一杯だった。

やがて、お母様の口が開かれる。



「………なるほど。こういうところね」

「…はい?」

「ううん、なんでもないわよ。こっちの話。それで、私になんの用かしら。それを先ず聞かないとね」



………来た。もっとも大切な話題。

今日、泣いている朝日向さんを見送ってからすぐ、ここに来た理由。

頭を下げて、声にありったけの力を込めて、僕は言い放つ。



不躾ぶしつけなお願いなのは存じていますが、どうか……朝日向さんの一人暮らしを、許可していただけないでしょうか」

「…………」



最初に浮かんだ対策がこれだった。あまりにも無茶ぶりで、無礼で不躾で、受け入れられる可能性も低い無鉄砲むてっぽうな正面突破。

でも、解決策がこれしか浮かばなかった。僕たちはまだまだ幼いから。感情に流されやすいから。青臭くて、未熟だから。

それでも………朝日向さんは僕にとって、僕自身よりも大事な存在だから……



「結がうながした……はずはないでしょうね。あの子は他人に迷惑をかけるのをもっとも嫌がる子だから」

「はい。僕が勝手に……勝手に押しかけてきただけなんです」

「……どうして?どうしてここまでするの?」

「………娘さんに、誓ったんです」

「なにを?」

「ずっと傍にいるって。幸せにするって……誓いましたから」



恥ずかしくて死にそうになる。僕は彼女のお母様の前でなんていうことを口走ってるのか。でも………

本当にこれが、これだけがすべてだった。朝日向さんと一緒にいるって、あの夜に誓ったから。

大人から見たら幼稚ようちな約束だとしても、僕は死ぬ気で守るつもりだったから。でも……



「……そんな理由なら、尚更ダメよ」

「…………どうして」

「響也君だっけ?あなたの行動力だけは認めるわ。あなたが心から結のことを大切にしているのも、愛しているのもちゃんと伝わった。でもこれは私たちの問題なのよ。私と、結の問題なの」



………………っ。



「響也君ももう知ってるわよね?あの子は人一倍に寂しがり屋なの。あの子の傍には必ずしも誰かが一緒にいる必要がある。ここまで来たということは、響也君もウチの家庭事情をだいたい知っているってことだよね?」

「………はい。朝日向さんから聞きました」

「………話が早くて助かるわ。私はね、響也君。あの子が心配なの。本当に、ずっとあの子を放置してきた私がこんなことを言う資格はないのだけれど、私は……あの子を愛している分だけ、今までかまってあげられなかった分だけ、あの子を見守ってあげたいの。会社も休んで、母親としてのまっとうな義務を果たしたいのよ」

「…………」

「それに、離婚した直後に娘を一人にさせるなんて、あんな危険な事を許すはずがないじゃない。たとえ、あなたがいたとしても……ね」



ゆっくり頭を上げて、僕は朝日向さんのお母様と目を合わせる。

お母様は、明らかに申し訳なさそうな顔をしていた。

その感情が、怒りを露わにするより何倍も辛いその感情が、僕の喉を詰まらせる。



「……ごめんなさい。あなたが結をどれだけ幸せにしてくれたのか、あの時結の反応を見ただけでも分かった。そんなあなたに感謝どころか、こんな大人の事情に巻き込ませちゃって、悪いとも思ってる」

「…………いえ」

「でも、一人暮らしの許可はできないわ。あなたを信じるには、私はまだあなたのことを何も知らないもの。今の印象だけで娘を任せるには……あの子のことが、私にとっても大切すぎるのよ。もう私には、あの子しか残っていないのだから」



ああ、やっぱり……こんなことに。



「それにあなたはまだ若すぎる。結に対してなんの責任も取れないじゃない。学生同士の恋愛なんて一瞬の気の迷いよ。現実じゃなくて、気持ちだけで進んで行くものだから」

「………そんな」

「そんな非現実的な幻想に娘を任せるわけにはいかないわ。学生同士の恋愛なんて軽くて、もろくて、崩れやすいものだから」



一瞬にして、言葉が込み上がってくるのが分かった。

違います。ぼんやりとしたものではありません。僕たちはちゃんと、真剣にお互いを見つめ合っているんです。お母様は僕たちのことを何も分からないじゃないですか。

………でも、やっぱり口には出せなかった。

とんでもない失礼だという理由もあったけど、なによりも……お母様が言うことにも、ある程度は納得が行くのだから。

そしてこれは朝日向家の問題であって、元々部外者である僕がどうこう言うのも間違っているのだ。

それに、なによりも………



「私はもう、どんな恋も信じられなくなっているの」

「……………」

「話はもう終わりよ。響也君と娘には悪いけど、もうウチで決めたことなの」



彼女は、恋の虚しさを一番よく痛感しているはずだから。

僕を項垂うなだれて唇を噛む。分かっていた。

変えられる要素ようそなんてほとんどなかったってことも。それを変えるには、自分がまだまだ幼くて弱いことも。

でも…………でも………



「……ごめんなさいね。響也君」



本当に、このまま……離れ離れにならなきゃ、いけないの………?

そんな悔しさだけが頭の中を支配して、結局僕はその後にもまともに口を開けなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る