97話  通告

朝日向あさひな ゆい



「じゃ、また明日」

「うん………」



家の前で、五十嵐いがらし君は片手を振りながら少し名残り惜しそうな顔をしていた。

私は俯いて、顔を上げて、また俯いて。どうしても今日という時間を先延ばしにしたくて、たまらなくなっている。人生で一番幸せな時間が次々と更新されていくような日だった。

今日、五十嵐君はちゃんと私と付き合っていることを学校のみんなに明かしてくれた。その後散々質問攻めに合ったというのに、彼は相変わらず笑顔で私に接してくれている。

それで放課後に一緒に五十嵐君の家に行って、歩夢あゆちゃんにも付き合っている事を伝えて、また祝福されて。

幸せ過ぎてバチが当たっちゃうんじゃないかと思えるくらい、私はこの幸福感を噛みしめている。



「どうしたの?早く入った方がいいよ」

「……五十嵐君は」

「うん?」

「五十嵐君は、私と一緒にいたくないの?」

「…………」



意地悪な質問だってことくらい、私もちゃんと分かっている。

でも、聞かざるを得なかった。少しでもこの瞬間を掴めて置きたいから。



「…朝日向さんとずっと一緒にいたいよ。当たり前じゃん」

「うっ………」

「でも、さすがにもう帰らなきゃ。今日は親御さんも家にいるって言ったでしょ?あまり心配かけるのは良くないよ」

「…………」



正論ばっかり。返す言葉が見当たらない。

なんで今日に限って、お父さんもお母さんも家にいるのだろう。ましてやこんな早い時間に。

……いや、もう午後の8時なんだから、そんなに早くはないけど。



「朝日向さん?」

「……分かってる」

「……全然分かってない顔だけど」

「意地悪を言う五十嵐君は、嫌いかも」

「ぷふっ、本当に?」

「………もう!」



私の気持ち、全部分かってるくせに……もう知らないから!!

そう叫びたい気持ちを押し殺してきびすを返そうとした、正にその瞬間。



「えっ………あ。うむ……」

「…………」



腕を引っ張られて、そのまま五十嵐君に抱き留められたまま。

私の唇は、五十嵐君の唇によって塞がってしまった。



「………すきぃ」

「……うん、僕もだよ」

「だいすき……」



また溶かされて、軽くついばむようなキスを何度も重ねる。

本当に、もうこの人なしじゃ生きていけない体になっている。キスを交わすたびに、日常を重ねるたびに痛感させられて。

私は五十嵐君のものになったって実感がして。それがまた気持ちよくて……

そのまま十分くらいキスを交わしてからようやく、私たちは離れることができた。



「また明日。夜に連絡するね」

「……うん、待ってるから」

「うん」



幸せな顔を見合わせたまま、五十嵐君は徐々に背を向けて帰り道についた。私はその後ろ姿を眺めながら両手を胸に当てて、彼氏さんがくれた温度を心の奥にため込んでから、家の中に入る。

このまま、この温もりが冷めない内に今日が終わって欲しかった。ならばこの日の出来事は、私にもっとも貴重な思い出として残るはずだから。

でも、ついに欲張りな私へのバチが当たったのか。

この日の夜は、最悪な通報と共に私を飲み込んでしまった。








「おかえりなさい」

「ただいま~~」



珍しく、今日はお母さんが玄関で私を出迎えてくれていた。顔は少しくもっていて、そこから何とも言えない後ろめたさを感じられる。

そんな顔つきのまま、お母さんはさっそく質問してきた。



「あの子、彼氏?」

「えっ…………」

「もう。声はずっと聞こえてるのに、いつまで経っても家に入って来ないんだから。私も困ってたわよ?」

「ど…………どこから聞いたの?!」

「まぁ、最初からかしら」



最初からって…………えええ?!じゃ、キスしているところもぜ、全部聞こえてっ………?!



「ううっ……ううううう」

「…………」



羞恥に耐え切れずに両手で顔を覆い隠す。だってさっきの私たち、ずっとキスしてたから。恥ずかしいこともたくさん言ったから……

熱が段々と上がってきて、もうお母さんの顔をまともに見られる自信がなかった。ダメ、このまま穴にでも潜りたい……

そうやってわめいていた時。



「………本当に、ごめんなさい」

「えっ?」



急に私を抱きしめてくるお母さんにびっくりして、私は顔から手を離せて顔を上げる。

抱きしめられた行動で驚いたわけではなかった。さっきの声が、なによりも私を驚かせた。

さっきの声色は、まるで………



「荷物置いて、リビングに来なさい」

「………」

「大事な話があるの」



悲しんでいるようだったから。

普段のお母さんなら軽く私をからかったり、純粋にお祝いしてくれるはずなのに……でも今のお母さんは切なそうな笑みだけを浮かべていて、私に物凄い違和感を運んできた。

ずしんと心の奥底で何かが落ちてくる。心臓が急激に冷えて行く。

嫌な予感がした。こんな類の予感が外れることは、滅多にない。

段々と、五十嵐君から貰った温度が冷えて行くのが分かる。



「………わかった」

「うん」



不安を抱いたまま、私は自分の部屋に入ってカバンを下ろした後、ドキドキする鼓動を抑えながら部屋着で着替える。

手を洗って、私はそのままリビングに向かった。

そうしたらもう一週間も会えてなかった父と、悲壮ひそうな顔をしている母が、リビングの食卓に座っているのが見えた。私と五十嵐君が一緒にケーキを食べていた、あの暖かい食卓に。

でももう、あの時のほっこりとした空気はどこにもいない。

すぐにでも割れそうな、薄氷はくひょうの上を歩いているような緊張感がただよっているだけだった。



「…久しぶりだな、結」

「うん、お父さんおかえり。元気にしてた?もう、電話でもしてくれればよかったのに」

「……ごめんな」

「いいよいいよ。気にしないで」



あえて声を明るくしても、この場に降りかかっている陰鬱いんうつさは消せなかった。

私は両親と向かい合って腰かける。ああ、もうすぐ何かが来るのだとひそかに心の準備をした。

その心構えをすると同時に、お母さんの口が開かれる。



「結」

「うん」

「……大事な話があるって、言ったわよね」

「うん………」

「本当に、ごめんなさい………」



でも、いくら準備をしても。ある程度予想をしていたとしても。



「お母さんとお父さんは、離婚することにしたの」

「………………」



ショックを全く受けないことは、できなかった。



「本当に、本当にごめんなさい。結」

「……………………っ」



涙が膨れ上がって、少しでも力を緩めたら感情が漏れ出そうになる。そうならないよう、私は俯いて精一杯唇を嚙んでから顔を上げた。

お父さんは罪人のように首を垂れていて、お母さんは唇を震わせながら私の顔をうかがっている。

ああ………本当に。

本当に、終わったんだ…………



「……そっか」



かすんだ声でそう言い放つ。今は何も感じられない。感情が押し寄せて来ない。

だから今のうちに、もっとも現実的で重要な事を口にした。



「…私はどうなるの?」

「…………それは」

「もちろん、私はここにいるんでしょ?」



正直に言うと予想通りだった。いつかこうなることを、私はずっと前から感づいていたから。

だからその分、心の壁を硬くすることができたのだ。最悪だけれど、本当に想像したくもなかったけれど……父と母が疎遠そえんになったという事実は、娘である私が一番よく知っていたから。

でも五十嵐君さえ隣にいてくれるのなら、ぶっちゃけどうでもよかった。

私を励まして、私の傍を守ってくれる人は、もうとっくにお母さんとお父さんではなくなっていたから。

なのに。



「結は、私と一緒に実家に住むことになったの」

「…………………………え?」

「お父さんと話し合った結果、私が結を引き取って育てていくことにしたの。だからこの家は処分して、結は私と一緒に実家に戻ることになった」

「……………………………実家?」

「うん、そうよ。おばあさんの家」

「……………電車で三時間以上もかかる、あの家?」

「そうよ」



それを聞いて、その呆気にとられてしまうような通報を聞いて、真っ先に芽生めばえたのは。

他でもない、怒りだった。



「………ふざけないで」

「………ゆい」

「ふざけないで。なんで私がお母さんと一緒に行かないといけないの?冗談もほどほどにして!!」

「結、お願いだから少し落ち着いて……」

「お父さんは黙って!!!」



その叫びと共に自然と涙も吹き出てくる。もう理性は働かない。

感情任せで、私は私の中にあったものを吐き続けるだけだった。



「なんで口を挟もうとするの?法的にはもう私のお父さんでもなんでもないんでしょ?ろくに顔出しもしてなかったのに、なんで今さらそんなことが言えるの?意味が分かんない!!」

「…………」

「一週間だよ?お父さんは一週間もなんの連絡もなしにずっと外を出歩いてたんだよ?昔からずっとそうだった!!仕事がそんなに大事なの?この一週間ずっと会社で仕事ばっかしてたの?!!」

「ゆい………」

「あとお母さんも!!なんで?なんで私がお母さんと一緒にいなきゃいけないの?お母さんだって同じなんでしょ!?お父さんと同じじゃない!!いつも仕事、仕事、仕事、仕事、仕事、しごと!!!ずっと私をほったらかしにして放置して、いつも一人にさせたくせに!!!!どうして、どうして?どうして今さら??なんで?なんで私がここを離れなきゃいけないのよ!!!」

「………………………」

「ふざけないで。私は絶対に行かない。私はここにいるから。一人で自炊でも何でもするから!」



視界がうるんで前がまともに見えない。立ち上がった時に勢いよく食卓にぶつかった太腿ふとももがジンジンする。涙で顔がぐちゃぐちゃになっているのも分かった。

それでも、お母さんは首を振って私の願いを跳ね返した。



「………ダメよ、結。どれだけあなたに恨まれようとも、私はあなたと一緒にいる」

「じゃここにいてよ!!!なんでこの家まで丸ごと処分しようとするの?なんで?!私は?!お母さんは私の立場になったこと一度でもある?私は二人のあやつり人形なの?!わたし、わたしはね。夜はずっと一人だった。週末だってろくに家族と会えなかった!一緒にいても二人がギクシャクしているのばっか見えて!!!そんな、そんな状態でようやく…………ようやく、ようやく私は五十嵐君に会って、やっと幸せになれると思ったのに………!!」

「………結」

「………なんで?なんで………なんで私から何もかも奪い取るの?ねぇ、なんで?なんで私を苦しめるの……?やだ、認めない……五十嵐君と離れたくない。叶愛かなちゃんとも離れたくない。美咲みさきちゃんとも離れたくない。私は、私はここにいる。二人で勝手にして。私はここで一人暮らしするから。五十嵐君と、ずっと一緒にいるから……」

「………ごめんなさい。私は何があってもあなたを、一人にはさせない」

「私は一人なんかじゃない!!!!!!!!」

「どうせ一人なのよ!!!!!!!」



その叫びは、お母さんの悲鳴は私以上に上ずっていて。

お母さんは、そのまま私に駆け寄って肩をグッと掴みながら。

目尻に涙を浮かべて、今まで見たことのない表情で、私に訴えかけてきた。



「ええ、知ってるわよ。いい親なんかじゃなかったってこと、誰よりも私が知ってるわよ!!ええ、認めるわ。私たちはあなたを苦しめた。最悪の親だった!それだけは認めるわ。でも、でも私たちは本当に、本当にあなたのことを愛してるのよ!」

「………………だったらここにいさせてよ!!」

「そういうわけにはいかない。結に……結に酷い思いをさせているってこと、分かってる。本当に、本当にごめんなさい。それだけは一生謝るから。でも、でもね。私はあなたを一人にはできないの。私たちが離婚した後、あなたが一人でどんな思いをするか………一人でどんなに苦しむのか、それが心配でたまらないの。離婚したそばから自分の子をほったらかしにするなんて、私にはできないわ」

「………お母さんがそれを言うの?お母さんにそんなこと言える資格があるの?!今まで――!」

「ええ、ないわ。ないに決まってるでしょ!!でも私は結を一人にはさせない。あなたにどんなに恨まれようとも、絶対に!」

「……わたし、一人じゃない」



あえて力を言い放つ。そう、私は………

わたしには、彼がいるから。



「私には素敵な友達もたくさんいるし、なによりも………五十嵐君がいる。わたし、彼氏がいるの。私の全部を受け止めてくれて、私のために努力してくれる、彼氏が」

「……………結」

「お母さんとお父さんが心配するようなことはなにもない。だから………!」

「本気で言ってるの?」



その冷たい言葉をかけられた瞬間、まるで電気が通じているコンセントを抜かれたように、すべての思考が一斉いっせいに止まる。

お母さんは、信じられないと言わんばかりの目をして、私を見据えていた。

射貫かれそうになって、私はつい体をぶるぶると震わせてしまう。

なんで。どうして?五十嵐君は………五十嵐君は違うの。

私は知っている。五十嵐君だけは違う。お母さんたちのような結末には………



「私に、顔も性格も何にも分からないあの彼氏に、結のすべてをたくそうと?」

「………五十嵐君は、違う」

「ええ、誰もがそう思うわ。自分たちだけは特別だって。別れるはずないって。ずっと上手くやっていけるって。根拠こんきょもなにもない淡い幻想を抱いて、何も見えない暗がりの中を彷徨さまよい続けるの。学生時代の恋って、そんなものだからね」

「違う!!!」

「違わないよ?だって、その張本人たちが目の前にいるじゃない」

「……………あ」



その言葉を聞いて思い出す。お母さんとお父さんの馴れ初めは………

二人も…………二人も、高校の時から……



「そんな曖昧な関係性に頼って、あなたを放っておくわけにはいかない。高校生には何も背負えないから。責任を取ることだってできないから。学生同士の恋愛なんか……軽いから」

「……あ、ああ……」

「………ごめんなさい」



もう疲れ切った顔で、お母さんは告げてくる。

なによりも重くて苦しい言葉を、簡単に。



「あなたには、転校させてもらうわ」

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