96話  恋人の日常

朝日向あさひな ゆい



恋人としての初めての週末は、特にこれといったイベントもなく流れていった。ウチの両親に気づかれる前に家を抜け出して、五十嵐いがらし君の家に遊びに行って、香澄かすみさんに付き合っていることを報告して……その後散々弄られてから、一緒に音楽を聞いたり話をしたりするだけの、普通な週末だった。

でも、私が生きてきた中では一番素敵な瞬間でもあった。



「………五十嵐君」



五十嵐君とただお話をしただけでも、私は雲の上に浮かんでいるようなふわふわした気持ちになってしまう。

ずっとドキドキして夜もまともに寝れなかった。昨日だって、五十嵐君とのチャット履歴を見てずっとニヤニヤしてたし……

今だって遠目に見える五十嵐君の姿を捉えて、胸をときめかせている自分がいる。



「おはよう、五十嵐君!!」



それを見た瞬間に大声を上げて走り出すほど、私は五十嵐君の魅力にとっぷりかっていた。

普段と違ってメガネの代わりにコンタクトレンズを付けた五十嵐君は、さっそくこちらに振り向いて暖かく微笑んでくれる。



「おはよう、朝日向さん」

「うん!それで……おはようのキスは?」

「そ、それは……い、今は学校行かなきゃだし」

「へぇ、平日はしてくれないんだ。私とのキスより学校に行く方が大事なんだ」

「それは断じて違うけど!!でも、その……」

「ぷふふっ」



無理を言っているのは分かっている。だってここは五十嵐君の家の前だし、周りにはまばらとはいえ人が行きかっているから。

ここでキスされたら、むしろ私が恥ずかしくて死んでしまう。

ただ、五十嵐君が困っている顔がすごく可愛らしいから。だから軽くからかってみたつもりだけど……



「……僕も知らないからね」

「えっ?」



次の瞬間、急に訪れてくる不慣れな感触に私は目を大きく見開いてしまった。

頬は暖かい何かで包まれて、唇を動かそうとしても何かに塞がっていて。

…いや、これは不慣れな感触なんかじゃない。この匂い、目に映る五十嵐君の前髪とまつ毛、これって……

き、き………?!



「…はぁ」

「え………えっ?え……」

「…これ、全部朝日向さんのせいなんだからね?」

「……………」

「……ほら、行こう。遅刻しちゃう」



力強く手を握られてまた心臓が一度ドカンと鳴る。わたし、さっき………

キス………されたんだよね。うん、まぁ……週末に何度もしてたし、それはいいけど……でも。

で、でもこれは反則なんじゃない?!なんなのさっきの不意打ちキスは?心臓止まるかと思ったんですけど、ちょっと!!



「ぐぬぬぬ……」

「……どうしたの?」



ずる、これはずる!!あんなかっこいい声で言われて、いきなりこんな優しいキスされて、恋人つなぎして……うぐっ……

ああああ……もうダメ、死んじゃいそう。これ以上なにかされたら私本当に死んじゃう………



「…その、朝日向さん?」

「は、はいっ!!」

「えっと……これ、ずっと繋ぐんだよね?クラスに着くまで」

「あ………」



躊躇ためらいが含まれている五十嵐君の言葉を聞いて、私は少しだけ我に返ってから頷いた。



「そんなの、当たり前じゃない」



これは、私たちが週末の間に決めた事項だった。

付き合っていることを隠さずに、学校でも堂々としていること。五十嵐君は私の評判を思って最初は反対していたけど、最後はちゃんと納得してくれた。

私は、隠す必要も理由もないと思った。確かに五十嵐君をよく知らない周りから見たら釣り合っていないように見えるかもしれないけど、私は五十嵐君がどれだけ素敵な人なのか、ちゃんと知っているから。

むしろ、私の方が五十嵐君に劣っていると思うくらいだから。それほど五十嵐君は自慢の彼氏だし、だからどこにでも堂々として欲しかった。

でも、この提案を飲んでくれる代わりに……



「……やっぱり、メガネかけるのもダメ?」

「…あのさ。これ、全部朝日向さんのためなんだからね?」

「……本当に私のためなら、今すぐその髪もぼさぼさにして欲しいけど」

「ダメだよ、絶対に」

「むぅぅ……」



五十嵐君は、学校でもメガネを外して髪型を整えることを要求してきたのだった。本人曰、私が変に思われないよう自分も頑張りたいと。

当たり前ながら私は目をいて反対したけど、結局は通用しなかった。

五十嵐君を見上げている今もちょっと不安になる。だって……



「……なんか見られてるよね、僕たち」

「……………むぅうううう」



これだから………!かっこよくなるから!!!悪い虫にでもつかれたらどうする気なのよ、もう!!

元から顔立ちも整ってるし、すっごく柔らかくて優しい印象だからただでさえ心配なのに、眼鏡まで外したらどうする気なのよ!

すっごく爽やかに見えるじゃない!!おまけにもう告白されたこともあるし!

全く、この彼氏さんは………!!



「朝日向さん?えっと……もうだいぶ人も増えてきたから、その……」

「離さないから」

「そ……そうですよね。はい……」

「……私のなんだから」

「え?今何か言った?」

「なんにも言ってない。このバカ」

「えええええ……?」



……本当に、もう。

私の気も知らないで……このバカ。







私たちは、学校の門をくぐってからようやく安堵の息をつくことができた。

本当に、普段の何倍以上に視線を浴びせられた気がする。普段こんなことにそこそこ慣れている私ならまだしも、五十嵐君はもう疲れ切ったような表情をしていた。

その顔を見てると罪悪感が湧いてきて、私は五十嵐君の手をそっと離してから小さな声で謝る。



「その……ごめんね、五十嵐君」

「うん?」

「私がわがままを言ったせいで、もう疲れてるように見えるし……余計に負担をかけたから」

「…そんなことないよ、朝日向さん」



驚いて振り向くと同時に、五十嵐君はまたぎゅっと私の手を握って優しい声色で伝えてきた。



「僕だって嬉しいからね。朝日向さんにちゃんと彼氏だと思われていることが。だから、別に気にしなくてもいいよ」

「………そんな」

「確かにちょっと疲れたかもしれないけど、朝日向さんと並んで歩く方がよっぽど幸せだし。だから、このままでいいよ」

「………………………」



………この人は、いつも。

また、こんな風に私をとりこにして……



「……朝日向さん?」

「……知らない」



赤みがさした顔をそむけながら、私は速足で下駄箱に向かう。でも手だけは離さなかった。

……たぶん、今日で噂が広まるはずだよね。

ならその前に、親しい人たちにはちゃんと先に報告しなきゃ。週末はなんかずっと浮ついていてろくに言えなかったし。

そんなことを思いながら、私たちは手を繋いだままクラスの引き戸を引く。すると、クラスメイト達の視線が一気にこちらに飛んでくるのが分かった。

その視線が恥ずかしかったけど、私はなるべく堂々と教室の中に入ってから言った。



「……じゃ、また後でね」

「う、うん………」



ううう。恥ずかしい……じれったい。もどかしい。むずがゆい。なんなのこの気持ち、もう分からないよ……

でもこれで五十嵐君に悪い虫がつかないのなら、うん……絶対にこうした方がいいよね。



「ふうぅ……」



一度息を整えてから、私は机の横についてあるフックに鞄をかけてから周りを見回す。

そして真っ先に、叶愛ちゃんのところへ駆けつけて行った。



「おはよう、叶愛ちゃん」

「……うん。おはよう、結」



やっぱり、ショックだったのかな。五十嵐君とあんな風に手を繋いだままに入ってくるのは……



「その……じ、時間大丈夫?報告したいことがあって」

「ふふっ」



その内容を察したのか、叶愛ちゃんはニッコリと笑ってから肯いてくれた。



「うん、行こう」



そう言って、叶愛ちゃんは私をある空き教室に案内してくれた。普段全く使われていない階にある教室だった。

二人になった途端に安心感が芽生えてくる。それでもおずおずしながら、私は話を切り出した。



「その………」

「うん」

「実は、五十嵐君と付き合うことになったの。噂が流れる前に、叶愛ちゃんにはちゃんと報告しておきたくて――」



言い続けようとした瞬間。急に綺麗なアッシュグレーの髪が目の前でなびいているのが分かって、私はそのままこおり付いてしまう。

叶愛ちゃんは私をぎゅっと抱きしめて、暖かい口調で言ってくれた。



「おめでとう、結」

「あ…………」



言葉を貰った途端に急に涙が膨れ上がってきたけど、どうにか目じりに力を入れて、ぐっと抑え込む。

私もまた、叶愛ちゃんの背中に手を回してから言った。



「ありがとう、本当にありがとう。叶愛ちゃん……」

「うん。よかった。でも……ふふっ、うすうす気づいていたんだよね、私」

「……もう、叶愛ちゃんの意地悪」

「でも本当によかった。どちらから告白したの?やっぱり五十嵐君?」

「それは、話したらけっこう長くなるから……また後ほどにね」

「そっか……分かった」



うん。本当に長くなるもんね……なんか色々あった感じがするし。

今すぐ全部話すのはさすがにムリだったので、それはまた次の機会にたくすことにした。今はそれより、もっと大事なことを聞いておきたい。

私はちょっとだけ緊張を覚えながら、しかし興味津々な態度で口を開く。



「えっと、叶愛ちゃん」

「うん、なに?」

「その………聞きたいことがあるんだけど」

「うん?」

「その……………」



恐る恐る、私は言葉を紡ぐ。



「え、エッチのテクニックとか、教えてもらってもいいかな……」



それを聞いた叶愛ちゃんは、文字通りあの真っ白い肌を真っ赤に染めてから、全身を震わせて……叫び始めた。



「え………えええええ?!」

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