94話  真夏の夜の夢

朝日向あさひな ゆい



五十嵐いがらし君は、思ってた以上に早く家に来てくれた。

電話が切れてから30分も立たないうちに家のインターホンが鳴って、私はすぐさま立ち上がって玄関に向かった。

ドアを開けたら、若干汗をかいている五十嵐君の姿が見えてきた。



「こんばんは」

「こんばんは……えっ、もしかして走ってきたの?」

「ううん、ちょっと速足で歩いただけだよ。ケーキ屋まではさすがに走ってたけどね。店閉まっていたらもったいないし」

「そんな……」

「これ、頼まれたケーキ」



五十嵐君は満面の笑みをたたえて、手にげているケーキ箱を見せてくれる。

その姿を見た瞬間、体中に電気でも流されたように心臓がどくんと跳ねて………何かに取りつかれたように、私は五十嵐君を見上げる。



「……………」

「……朝日向さん?」

「……あ、ううん」

「どうかしたの?」



首を傾げて微笑んでいる五十嵐君を見て、益々自分の弱さをなげいてしまう。

……そっか、五十嵐君はこんな人なのに。

疲れているだろうに、私の我儘に応えるためにわざわざ走り回ってケーキを買ってきて。にもかかわらず、嫌な感情一つ浮かべずに笑ってくれる人。とんでもない善人で、真っすぐな人。

……私が、信じてなかったから。

こんな五十嵐君も、いつかは私の傍から離れるんだと思い込んでいたから……五十嵐君のことを疑っていたから。

ふとそんな思いが頭の中をよぎる。そうだ、信じてなかったから。

五十嵐君をもっと信じていたら……私たちって、もう。



「どうしたの、朝日向さん?ぼうっとして……」

「……ううん」



いや……大丈夫。今だって全然間に合うから。

俯いて、五十嵐君には聞こえないくらいの小さくため息を零して、私はまた顔を上げた。

五十嵐君は相変わらず、目を丸くした純粋な顔を私に向けている。

それがとてつもなく嬉しくて、私は少々首を傾げてから言った。



「えっとね。ケーキ、何個買ったの?」

「一応、ショートケーキを二つ。明日にでも食べれるかなと思って」

「よかった。それじゃ一緒に食べない?五十嵐君もせっかく苦労して買ってくれたんだし、ちょうどケーキも二つあるじゃん」

「えっ、でも……」

「……まぁ、時間も遅いから帰るなら仕方ないけど」



いきなり提案されたからか、五十嵐君は戸惑ったまま目をあちこちに転ばせた。

動揺しているのが分かって、それがまた可愛くて、つい抱きつきたくなる。

でもその顔も段々と真剣なものに変わって、最後は……いつもの暖かい温度を顔に湛えてから、こう答えてくれた。



「じゃ、朝日向さんが寝るまでお邪魔してもいいかな」

「………………え?」

「あっ、ちがっ……!そういうことじゃなくて、その……い、いかがわしい意味じゃないんだよ?ただ朝日向さん、今夜は一人だって言ってたし。僕が途中で帰ったりしたら余計に寂しくなるかもしれないから、だから……朝日向さんが寝た後に帰る方がいいかなって……」

「……………」



…………………本当に。

この人は、なんでこうも……私が聞きたい言葉だけを言ってくれるのかな。



「…うん。じゃ、私が寝るまで一緒にいて」

「…分かった」

「うん……」



まぁ、夕方に寝落ちしてしまったから、夜にまともに眠れるはずもないけどね。

でも今こんなこと言ったら五十嵐君、絶対困っちゃいそうだし……ちょっとだけいじってみるか。



「ふふっ。でも五十嵐君も本当大胆になったよね~まさかそんなこと五十嵐君が先に言ってくるとは思わなかったよ。私、寝た後に何されちゃうのかな~~」

「ぜ……絶対にしないよ!!朝日向さんの信頼を裏切るような真似は絶対しないから!」

「………本当?」

「当たり前だよ。ていうか、許可もナシにそんなことできるはずないじゃん!」



……ちょっとはしてくれてもいいのに。

いきなり本番はNGだとしても、軽く抱きしめてくれるとか、キスとか…そういうのは全然OKなのに。

まぁ、でもこんな人なんだからね。私が頑張らないと……



「ふふん、分かりました。じゃ、とりあえず上がって。玄関で長話するのもよくないし」

「お、お邪魔します……」



だいぶぎこちない挨拶と共に、五十嵐君は恐る恐ると靴を脱いで家に上がってきた。前に怪我の手当をしてあげた時も家に来たというのに、なんでそんなにギクシャクするのかな……全く。

五十嵐君をリビングまで案内した後、私たちはキッチンの食卓で一緒にケーキ箱を開ける。中にはイチゴショートケーキが二個、綺麗に並んでいた。

さっそくお皿と牛乳を持ってきて、私は五十嵐君と向かい合って座る。



「本当にありがとう。まさか、こんな風に買ってきてくれるとは思わなかった」

「まぁ、ちょうどバイト上がった頃だったしね。でも本当に、僕も頂いちゃっていいの?」

「何を言ってるの、五十嵐君が買ったものだから当たり前でしょ?そうだ、ケーキの値段教えて?後でちゃんと払うから」

「…はい。それじゃ、ありがたく………」

「ぷふふっ、もう」



恥ずかしそうに顔を赤らめる五十嵐君。こうしていると、前にケーキ屋さんでお話したことが思い浮かんでくる。

あの時もめっちゃ緊張してたよな、五十嵐君。まさか、放課後に自分の家に通わないかって誘われるなんて。

思い返すと少し驚いてしまう。あの五十嵐君がそんなことを言うなんて……そっか、五十嵐君はあの時もちゃんと、私のことを好きでいてくれたのか。



「いただきます」

「うん、いただきます。ありがとう」



……いや、よくよく考えたらただ漏れだったんだ。五十嵐君、感情を隠すのめちゃくちゃ下手なタイプだから。

あの時の私にとって、五十嵐君はあくまで友達に過ぎなかった。だからそういう合図も全く気にしなかったんだけど……今は違う。

今はちゃんと、五十嵐君を目の前にして、心臓をドキドキさせている自分がいる。

ケーキはびっくりするくらい甘くて、ふわふわしていた。



「……不思議だな」

「うん?」

「こんな夜遅い時間に、私の家で五十嵐君とこうしているのが、なんだか不思議」

「あ……あはは、そうですね……」

「あ、ちょっと!なんでまた敬語~~?ね、なんでぇ~?」

「うぐっ……」

「ふふふふっ」



………好き。

うん。信じられる。いや、そうじゃない。

信じたい。五十嵐君を信じて、前に進みたい。お母さんとお父さんのことを思い出すと未だに怖いけど。

でも、五十嵐君なら……違うはずだから。



「ありがとうね、五十嵐君」

「うん?」

「わたし、今すごく幸せ」



その言葉を伝えると、五十嵐君の唇が徐々に薄く開いていった。心の芯から熱い何かが流れてくるのが分かる。全身に流れ込んで駆け巡って、溶けて行く。

……そっか、これか。

これが、私が望んできたもの……



「こちらこそ、いつもありがとうね」

「うん?なんで?」

「それはその……いつも仲良くしてくれるから。後、歩夢あゆの面倒もよく見てもらってるし、美味しい料理だって作ってくれるし」

「えええ~本当にそれだけ?ほら、他にも色々あるんじゃない?」

「色々って……いや!ないよ!絶対にないから!」

「あ、また顔赤くして。何を想像していたのかな?」

「くっ……ぐぅ……」



時間が経つのも忘れて、私たちはそのままじゃれ合い始めた。五十嵐君もいつの間にか緊張がほぐれてきたのか、自分の家にいるみたいな軽いノリで話してくるようになった。

二人仲良くケーキをたいらげた後、五十嵐君は自分の家でするようにシンクの前に立って皿を洗い始める。その背中に抱きつきたいのを我慢しながら、私は深く息を吐いた。

そして、ついに五十嵐君が皿洗いを終えた瞬間。私は話を切り出した。



「それじゃ、私の部屋行こっか」

「………え?」

「ぷふっ。なんでそんなに驚いてるの?私が眠るまで、一緒にいてくれるんでしょ?」

「それは確かに……でも、いや!ええっ?!」



そういえばそっか。五十嵐君を私の部屋に上げるのはこれが初めてなんだ。今まで五十嵐君の部屋には散々お邪魔してたのにな……



「ほら、早く」

「あっ、ちょっ?!」



むずむずするのがもどかしくて、私は五十嵐君の手首を掴んで引っ張りながら家の階段を上がった。そして自分の部屋に入ってから、後ろへ振り向く。

案の定、五十嵐君はまるで初めて男の子の家に上がった女の子みたいにもぞもぞしていた。

……もう、私の方が女なのに。



「じゃ、私は大人しく横になるから。五十嵐君は近くの椅子に座って」

「あ、うん……」



部屋の電気を消したまま、私は窓に差し込む月明かりだけに依存してベッドに横になる。幸い、五十嵐君の顔は明かりに照らされて暗闇の中でもはっきりと見えていた。

もちろん、簡単に寝るつもりはない。

ていうか、寝られるはずがない。夕方にだいぶ寝ちゃったし、好きな男の子と自分の部屋で二人きりというこんな状況で寝られる女の子なんて、この世にはいないと思う。

布団をかぶった。五十嵐君はうろうろしながらもベッドの近くにある椅子に座って、こちらに身を乗り出してくれる。照れていながらも優しい眼差しを送ってくれるのが分かった。

………私は。



「あのね、五十嵐君」

「うん」

「……手、繋いでもいいかな」

「えっ?!」



この雰囲気のせいなのか、それとも普段からもってきた寂しさのせいなのかは分からないけど。

私は、いつも以上に大胆な頼みごとを口にした。



「手繋ぐのと、寝ることと……関係があるのかな」

「…もう、どうでもいいじゃん。早く」

「あ、はい……」



本当に純粋すぎるというか……いや、もしかして私がアピールしてるのまだ気付いていないのかな。

でも手はちゃんと暖かいし……まぁ、よしとしますか。



「…どう?寝られそう?」

「ううん、全然。後3時間くらい経ったら寝られるかも?」

「それは勘弁してほしいな……僕が先に眠っちゃいそうだから」

「…それでもいいじゃん、別に」

「…………えっ?」



さすがの五十嵐君も、この言葉の意味はきちんと察したのか。

彼は目を見開いて私と視線を絡めてくる。私はその視線をかわすことなく、握られた手にもっと力を入れたまま、五十嵐君を見上げた。



「……………」

「……………」



静かな空気。淡い光だけが差し込む部屋の中で、私の視界は五十嵐君におおわれる。

目に映るすべてが輝いて見えた。心臓が踊り出す。手から汗が滲み出てものすごく熱かった。

目の前のこの人が愛おしすぎて、離したくないって本能がうったえてくる。体の奥底で、何とも言えないもどかしさが宿る。

ずっとずっと、五十嵐君だけを見つめていた。何も言わずに、何も考えずに、ずっとずっと。そしたら……

本能が先に、言葉を紡ぎ始めた。



「五十嵐君」

「…………うん」

「このまま、五十嵐君を家に帰したくないって言ったら……どうなるの?」

「……………」

「私が眠るまで抱きしめてって言ったら……どうする?」

「…………………」



まるで時間が止まったみたいに、五十嵐君は視線で体を射貫いぬくように私を凝視ぎょうししてくる。そうやって、どれほどの時間が経ったのだろう。

五十嵐君はついに椅子から立ち上がって、布団の中に潜り込んで……

その暖かい体温で、私を包んでくれた。

私よりずっと大きい体で、大好きな匂いで……私をわせる。



「………ぷふふっ」

「…なんで笑うの?」

「ううん、五十嵐君らしくて。嫌なわけじゃないから、このままでいて」

「………はい」

「もう……また敬語」



そう言いながらも、私は五十嵐君の首元に顔を埋めて大きく息を吸ってみる。

五十嵐君の体臭と共に微かな汗の匂いが感じられた。不思議にも、嫌な気持ちにはならなかった。

だって私は、もう五十嵐君の匂いにハマっているから。

ウソだ。心が落ち着くのと同時に、こんなにドキドキすることができるなんて。



「………五十嵐君」

「うん?」

「………ううん」



………離れないで。

ずっと、私と一緒にいて……

そう叫びたい気持ちを押し殺して、私は顔を上げる。



「……………」

「……………」



こんな夜がいていいのかなと思えるくらいに、幸せが満ち溢れてくる。

五十嵐君の目には私だけが映っていて、私の視界にもまた、五十嵐運だけが映っていて。

その整った顔立ちと、大きな黒ぶち眼鏡と、真っすぐ通っている鼻筋と……

いつも優しい言葉をかけてくれる、唇………



「………………五十嵐君」

「……うん」

「私の傍から、離れないで」



雰囲気に酔って、ムードに当てられて、私はついそんな言葉を口走ってしまったけど。

それは、五十嵐君も同じだったのか。



「…離れないよ。ずっと一緒にいる」



そんな言葉を、伝えてくれて。

もうこの洪水こうずいを抑えるのもできなくなって、私は五十嵐君の首元に両腕を回してから彼を抱き寄せた。

目をつぶって、そして……



「……………」

「……………」



人生で、たった一度も感じたことのない柔らかい感触を、私の唇に残した。

体を密着させて、足を絡めて、ほぼすがりつくようにして、私は体の全部を使って五十嵐君を捕まえる。

そして五十嵐君もまた、私を離さないと言わんばかりに、私を抱き寄せる腕に力を入れた。

五十嵐君が染み込んでくる。匂いで酔いそうになって、頭がくらくらした。

それでも、私の気持ちを五十嵐君にも分かってほしいから。だから息が詰まってきても、私は決して唇を離さなかった。

でも………



「………ぷうっ」

「ぷはっ?!」

「ぷあっ……はぁ……はあああ……」



………えっ………これって。



「ぷはぁ………ああ……うう……ううっ……」

「はぁ…………はぁ……ぷふっ、ぷふふふっ」

「くっ……!」

「あはっ、あははは!!あはははは!!あははっ!!五十嵐君、今すっごいむせた!!あはははっ!!」

「だ……だって初めてだったし!!こ………これは……!ぐうううっ……」

「あはは……ああ、もう。なんで……あははっ。ウソ。五十嵐君、キス下手すぎ。あははっ……まさか人生で初めてのキスがこんな風になるとは思わなかったよ、もう」

「……僕、もう帰るから」

「あっ、それはダメ。知ってる?今の五十嵐君は私から逃げられないんだよ?絶対に離してあげないから」

「うううううっ………くうっ……」



………ああ。もう、なんでこんなに可愛いの、もう………

幸せ過ぎて、怖くなってしまうじゃん……



「……好きだよ」

「……………」

「私も五十嵐君のことが、本当に大好き」



こんなあなただから、私はこんなことが言えるの。

あなたは、誰よりも素敵な人だから……



「……うん」

「……次は誓いのキス、してくれる?」

「……何を誓えばいいの?」

「私の傍から離れないって、誓って」



五十嵐君は未だに恥ずかしがって視線をらしていたけど、間もなく私の頬についた髪をかきあげながら。

私が一番よく知っているそのカッコいい時の顔で、そう断言してきた。



「じゃ、そこにもう一つだけ付け加えるね」

「うん?」

「朝日向さんを絶対に、幸せにして見せるから」

「…………………っ」

「ずっとずっと、朝日向さんだけを……大切にするね」



…………………もう。



「………バカ」

「目、閉じて」



まだ心の準備もろくに出来ていないというのに、五十嵐君は先に私の唇を奪ってくる。

私はただ彼に圧倒されて、溶かされて。ふところの中にもぐって、彼の頬を手で包んでその甘い感触を何度も何度も味わうだけだった。

真夏の夜の夢に浸っているかのように、ずっと。

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