93話 イチゴショート(結視点)
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「……うっ」
……頭が痛い。今何時……?
「……あ」
スマホの画面を付けると、10時30分という数字が目に見えてくる。
そっか。私、つい寝落ちしちゃって……
「……水でも飲んで来よう」
3時間くらい寝たのかな。夜中に眠れなくなったらどうしよう……いや、明日は週末だから別にいいっか。
「ふぅ………」
まだ少し頭がじんじんして、右手で何度もおでこをさすりながらぼんやりと考える。
それが気になって仕方がなかった。もちろん美咲ちゃんのことは信じているし、立派な彼氏さんもいるから変に五十嵐君を狙ったりはしないはず。
でもそれを全部知っていてもなお、モヤっとした気持ちが未だに消えなかった。
五十嵐君の回りに女の子がいるという事実だけで、私は嫌な気持ちになってしまう。
「はっ……」
こんなに欲張りだったっけ、私。
……いや、もういい。さすがにそんなことないよね。後で五十嵐君に直接聞いてみればいいし。
そう思いながら、ベッドから立ち上がってリビングへ向かう途中。
「えっ……」
珍しく、本当に珍しくリビングに明かりが付いているのを見て、私はその場で
ドアの向うには確かに電灯がついていた。ここ一週間あまり見かけなかった、家族の気配。
ぐっと唾を飲み込んで、私は一歩先を踏み出す。それからドアを開けてみると……
「……結」
「……お母さん」
2日、いや3日ぶりに見るお母さんの顔が、きちんと視界に入ってきた。娘である私から見ても美しい、お母さんの姿。
そして、手にしている小さなキャリーバッグも一緒に見えてくる。
私はちょっとだけぎこちない笑みを
「おかえり」
「………うん」
「……今からまた出かけるんだよね?仕事、そんなに大変なの?」
「……そうね。ウチの会社は今がもっとも忙しい時期だし」
「うん……」
肯くだけで、私は何も聞き返さなかった。
本当に?本当にただ忙しいだけなの?他の何かがあったから顔出ししないんじゃなくて?
お父さんとはどうなの?お母さんはちゃんとお父さんと連絡取ってるの?ちゃんと……会ってるの?
二人はまだ……家族なの?
そんな質問を、すべて喉奥に飲み込んで。
私は、また笑った。
「大変だね。お母さんも」
「……結」
「いいよ、私もう子供じゃないもん。だから安心して」
実際、仕事の都合でお母さんが外泊するのはよくあることだった。昔の私はそれが嫌で嫌で仕方がなかったから、泣き虫になってお母さんに
でも今は違う。私はもう高校生なのだ。一人で立たなきゃいけない、そんな年頃なんだから。
お母さんは、なぜかすごく悲痛な顔をして私を見据えていた。
その視線が何を意味するのかは分からない。いや、分かりたくもなかった。
私は、まだまだみんな家族であって欲しいから。
「結……!」
「えっ」
次の瞬間、お母さんはまるで飛び込むようにして私を抱きしめてきた。
わけを分からないまま目をパチパチさせていると、すぐ耳元から暖かい声色が響いてくる。
「……私たちは、結を愛してるよ」
「おかあ……さん?」
「お父さんもお母さんも、優しい結のことが本当に大好きだから。だからこれだけは……これだけは信じて」
「……………」
「あなたは私の大切な娘よ。ずっと、いつまでも……私の大好きな、愛娘よ」
「……ど、どうしたの、お母さん?ちょっと………」
母の腕にグッと力が入ってるのを感じて、何故だか急に涙が込み上がってくる。
背丈も私とほぼ同じであるお母さんは、私の首元に顔を埋めて離さないと言わんばかりに私を強く抱き留めていた。
その腕の力で私への愛を証明するかのように、強く。
抱き返すこともできず、それから何分経ったのだろう。
お母さんはようやく腕を解いて、慈しむような眼差しと共に親指で私の頬を撫でてくれた。
「……いつもごめんなさい。行ってくるね」
「…………うん」
お母さんの体温で暖かくなった分だけ、体がひんやりしていく。
糸の切れた人形のように何度も肯いている私を見て、お母さんはまた悲しそうな表情で目を伏せた。
そのままお母さんを見送った後、私はリビングに戻ってソファーに体を預ける。
静かな時間が、また流れ始めた。
「………………」
心の中がどんどん冷えていくのが分かった。
なんでお母さんはあんなことを言ったのだろう。別に愛してるって簡単な言葉でもよかったはずなのに、あんな切実な顔で、まるで愛という感情を私に吹き込むみたいに……
「……暇だなぁ」
そういえば結局、今夜も一人なのか……まぁ、しょうがないよね。
……二度寝は出来そうにないし、まったり映画でも見ようかな。
「……………」
……いや、違う。今はそんな気分じゃない。なんだかものすごく
……お母さんのせいだよ。
あんなに強く抱きしめてくれたのに、愛してるって言ってくれたのに、なんでまた私を一人にするの。
お父さんもお母さんも、二人の間に一体何があったの?なんで………
目を閉じて、三角座りになった体勢で顔を膝あたりに埋める。
暗くなった視界と頭の中で、突然と浮かび上がる誰かの笑顔。
「………五十嵐君」
……今すぐ、会いたい。
声を聞きたい。聞いて安心したい。あなたにずっと包まれていたい……
気付けば私は、もう自分の部屋に上がってスマホを手にして、さっそく五十嵐君に電話をかけていた。
理性の欠片もない、突発的な衝動が私を飲み込む。
五十嵐君は、思ってた以上に早く電話に出てくれた。
『もしもし』
「……うん、もしもし」
本当、不思議だな……
一年前までは全然知らなかったのに。気軽に声をかけていた恥ずかしがり屋の男の子が、私にとってこんなに大きい存在になるなんて。
声を聞くだけでも、こんなに幸せが湧いてくるなんて。
『えっと……どうかしたの?朝日向さん』
「ううん。ちょっと電話してみただけ。バイトはもう終わった?」
『うん、ちょうどさっき上がったよ。今帰ってるところ』
「そっか。今日もお疲れさま、五十嵐君」
『うん……ありがとう』
……会いたいな。
今すぐ五十嵐君に会いたい……でもこんなこと言うのはさすがに迷惑だよね。バイト上がったばかりで疲れているはずだから、こんな我儘を言うのはよくないよね。
うん、我慢しよう……今は声を聞いてるだけでも、満足だから。
『そうだ。僕、今日
「うん、知ってる。だって美咲ちゃん、とっさに昼休みに五十嵐君のこと借りてもいいかって言ってきたんだもん」
『借りるって………あはっ』
「もう、大変だったからね?真顔でそんなこと言うから、私すごく驚いてさ。それでその……美咲ちゃんと何を話したか、聞いてもいい?」
『特にはなにも。朝日向さんのことを話してたけど、朝日向さんが心配するような事は何もなかったよ』
「ふうん……そうなんだ」
……本当に?
そんな言葉がせり上がってきたけど、
それに五十嵐君の声は、すごく堂々たるものだった。ウソを付くのが下手な五十嵐君の性格を
『そうだ、朝日向さん。今食べたいものとかある?』
「うん?」
いきなり質問されて、思わず変な声を上げてしまった。
えっ、食べたいものって………なんで?
『今まだ商店街にいるからさ。なにか食べたいものでもあったら、週末にでも届けに行こうかなって』
「えっ、悪いよ。そんな………」
『……やっぱりその、いきなりだったかな。あはは………』
「……………」
……どうしよう。
少しは我儘を言ってもいいのかな。今すぐ会いたいって言えば、会ってくれるのかな。
五十嵐君との距離を縮めるのは未だに怖い。私は両親と同じ
それ以上に、今はただ………あなたに会いたい。
「別に……」
『うん?』
「明日じゃなくても、いいのに」
『………えっ?』
「……今すぐにでも、構わないのに………」
『………………』
自分でも声が震えてるのが分かる。
心臓がどくどく鳴って、抱えているクッションに顔を埋めてもがいてもなお、熱は冷めてくれなかった。
言った………
言ってしまった……!小学生みたいなこと言っちゃった………!でも……でも五十嵐君なら。彼なら……
……もう知らない。なるようになってしまえ……
「……ケーキ」
『うん?』
『イチゴショート。ほら、あの時の。五十嵐君が初めて家に誘ってくれた時に食べた、あのお店のケーキ』
『あ………』
こんな私でも、受け入れてくれるはずだから。
もう何がなんだかよく分からない。頭が白飛びしてどうしたらいいのか考えがまとまらない。まともに理性が働いてくれない。
自分の感情に流されて、好きの
怖いのに。
五十嵐君と別れるかもしれないという事実だけで、怖くて怖くて仕方がないのに……
『うん、分かった』
「…………」
『今営業中なのかは分からないけど、早く行ってみるね』
でも、そんな不安さえ吹っ飛んでしまいそうなほどの穏やかな口調で。
五十嵐君は、私にそう伝えてくれる。
「………うん、お願い」
『ぷふっ』
「……ちょっと、今なんで笑ったの?」
『ううん、なんでもないよ』
それから一息ついて、五十嵐君は若干からかうように訊いてきた。
『朝日向さん、今一人なんだよね?』
「…………」
ば……バレた?!
どうして?いや、どうやって?どうやって分かったの?えっ、私、そんなに表に出てた?そんな………
そんな………恥ずかしい……うううっ。こんなつもりじゃなかったのにぃ……
「…………うん」
『分かった」
………いや、ダメ。来ないで。会いたくない。こんな顔、こんな姿、五十嵐君に見せたくない………
うううっ……もう高校生なのに、子供でもないのに、こんな我儘言っちゃうなんて。
『ちょっとだけ待っててね。すぐ行くから』
………でも、こんな声はズルい。ズルすぎる。
五十嵐君、完全にあのモードだ。カッコいい時の五十嵐君モードだ……なんか声に力入ってるし。
はぁぁ………本当に、もう。
「うん………待ってる」
誰が誰に告白したのか、もう分からないよ……
でも、五十嵐君と会えると思っただけで心が跳ね上がってきて、嬉しくなって。
完全に惚れ込んだ乙女の声で、私はそう呟いてしまったのだった。
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