86話  惚れた弱み

五十嵐いがらし 響也きょうや



「いらっしゃい。朝日向あさひなさん」

「うん、こんにちは」



平日の昼間、朝日向さんはいつものように僕の家に顔を出してくれた。

玄関で朝日向さんを迎えるのもすっかり馴染んできたから、我ながらも不思議だなと思ってしまう。今までは、ずっと遠くで眺めるだけだったから……

……本当、朝日向さんにはありがたい限りだよね。

幸せを噛みしめながら、僕は朝日向さんと共にリビングに足を向けた。



「お昼まだ食べてないよね?さっそく作るね」

「うん、ありがとう」



本格的に料理をするため、僕は前掛けをして冷蔵庫から具材を取り出した。後はお湯を沸かして、玉ねぎをみじん切りにして、めんを茹でて……

ほぼ機械的にレシピを思い返していると、リビングから朝日向さんの声が響いてくる。



「あれ?歩夢ちゃんは今日いないの?」

「ああ…うん。友達と出かけたんだ。夕方頃には帰ってくるらしいから、夕飯は一緒に食べれるんじゃないかな」

「そっか……えっ」



いきなり頓狂とんきょうな声が聞こえてキッチンから顔を上げると、朝日向さんはなぜか緊張した面持ちで僕を見据みすえていた。

僕は少しだけ首を傾げながら、問う。



「どうしたの?」

「あ、いや……じゃ夕方まで、この家には私と五十嵐君二人きりってこと……?」

「そうだけど……あっ」



言葉を聞くや否や、僕は朝日向さんが何を言いたいのかを察した。そっか、あと何時間も一緒にいるのだから………

…………うっ、変に緊張してきた。どうしよう。

意識すればするほどそわそわしてくる。もちろん、今までだって朝日向さんと二人きりになる場面は幾度もあったけど、でもだいたい歩夢と3人でいる方が多かったから……



「……ふふっ」

「…ど、どうかしたの?」

「ううん、五十嵐君の反応が可愛すぎて。ぷふふっ」

「ちょっ……朝日向さん!!」



でも僕の慌てっぷりを見て緊張がほぐれたのか、朝日向さんはクスクスと笑いながら立ち上がって僕に近寄ってきた。

そのまま僕の横に立って、茶目っ気たっぷりな表情を見せてくる。いきなりの急接近に、僕は体を強張こわばらせるしかなかった。



「そうね……」

「うっ………!?」

「五十嵐君が、私にいやらしいことをするはずがないもんね?」



包丁を握っている僕の手を優しくなぞりながら、朝日向さんは息遣いさえ届く距離でそう囁いてくる。



「……こら、包丁を握ってる時にはちゃんと集中しないと」

「…だ、誰のせいだと思って」

「ふふっ、これは私のせいじゃありません~ウブな五十嵐君が悪いんだからね?いちいち可愛い反応するから」

「…朝日向さん、前はもっと優しかったのにな」

「じゃ五十嵐君は、意地悪な私のことは嫌いなの?」

「………っ」



…………ズルい。これはズルすぎる。答えなど、朝日向さんだってとっくに知っているくせに。

好きだって、あの時にちゃんと伝えたから。

朝日向さんに好きになってもらうように、努力するって………宣言したから。

そんなことを口にするほど彼女に骨抜きにされている僕が、今さら嫌いだなんて言えるはずがないじゃないか。



「………す」

「す?」

「…す、好きに、決まってるじゃん………」

「………………」



顔が爆発しそうになって俯いてしまったが、何故か時間が経っても返事は全然返ってこなかった。

少しだけ顔を上げて、左にいる朝日向さんの方を見やる。そうしたら、僕に背を向けて天井を仰いでいる朝日向さんの姿がバッチリ見えてきた。



「ど、どうしたの…?」

「ううん…なんでも」



首を横に振りながら、朝日向さんは少し震えている声色でそう答えた。



「…ぱ、パスタ作ってあげるから、ちょっとだけソファーで待ってて……」

「…………はい」



だいぶ間をおいてから放たれた言葉に、僕はもう一度彼女に目を向ける。そして、今度ははっきりと気付くことができた。

少し俯きがちになっている彼女の耳たぶが、すっかり赤くなっていることに。



「て……手!手洗ってくるね、じゃ!」

「あ、あさひなさ…!」



言葉が紡がれるも前に、朝日向さんはまるで逃げだすようにして去って行く。



「ふうぅ……っ」



取り残された僕はさっき言い出した言葉を反芻はんすうして、もう料理どころじゃなくなって、変な声が漏れないようにするのが精一杯だった。








お昼ご飯を食べ終えてからは、流行りのドラマを見て過ごすのが普通だった。

今日も朝日向さんは僕と一緒にソファーに腰かけて、熱烈な眼差しでテレビの画面を凝視している。ドラマに夢中になって、体も少し前屈みになっていた。



「あ、ひどい!!!須美すみちゃんは何も悪くないのに!!」

「ぷふっ」



本当、リアクションが面白くてついつい笑っちゃうんだよね。

そうやってくすりと笑っていた時、ちょうど見ていたドラマが終わってまた少しぎこちない時間が流れ始める。

一緒にいる時間が増えると、お互い特にする話もなくなるのだ。陰キャな僕にとっては一番きつい時間でもあった。

でも今度は違うのか、朝日向さんは少しだけ声のトーンを落として僕に振り向いてきた。



「その、五十嵐君。きたいことがあるんだけど」

「うん?なに?」

「今週の週末さ。ほら、みんなでプール行くって約束あったじゃない?それで五十嵐君は……」

「あ………うん。僕はその日もシフト入ってるからね」



3日ほど前にれんに誘われたことを思い出す。みんなで屋内プールなんて、こんな貴重なチャンスは僕なんかにはもう二度と訪れないかもしれないけど……

でも、シフトを確認したところでそのチャンスは失われてしまった。午後の一時から夕方まで、ずっとシフトが入っていたのだ。

だから惜しい気持ちを押し殺して、連にちゃんと電話で断ったんだけど……



「その……他のバイトさんに代わりを頼むとかは……ダメかな」

「えっ?」

「ほら、その……夏祭りも一緒に行けなかったんでしょ?家でこうしてくつろぐのもいいけど、たまにはどっかに出かけて……楽しく遊びたいなって」

「……僕と一緒に、行きたいの?」

「あ、当たり前でしょ、そんなの。もう…なんでそんな自信ないのかな」

「あ、いや………」



両手を振りながら朝日向さんの言葉を否定する。これは自信の問題じゃなくて……

単に、朝日向さんがそこまでして僕と一緒に遊びたがることに感動したから。だからあんな質問をこぼしただけで。

でも朝日向さんは、相変わらず気に食わない様子で目を細めた。



灰塚はいづか君と叶愛かなちゃんが付き合い始めたってこと、もう知ってるよね?」

「…うん、それはもうバッチリ」

「……じゃ、ほら。色々あるじゃない?一緒に行くって言っても二人だけの時間も作ってあげなきゃだし、3人で行ったら人数が合わないと言うか……もし五十嵐君抜きで3人だけで行ってしまったら、わたし……ナンパされるかもしれないよ?」

「な、ナンパ!?」

「そ、そうだよ?別に変な話でもないんでしょ?それ目当てに来る人もたくさんいるから」

「…………………」



自然と目に力が入るのが分かる。

そうだ。いつも我が家で一緒にいるから感覚がうすらいでいたものの、朝日向さんはものすごく人気者なのだ。男から告白された回数は両手でも数えきれないくらいだし、スタイルもよくて目を引いてしまうほど可愛いから。

そんな朝日向さんが一人でうろうろしていたら…………絶対に、男たちに絡まれるはず。



「うぐっ……うぅ……」

「……ふふふっ」

「…な、なんで笑うの?」

「ううん、純粋だなって。わたし、五十嵐君のそういう純粋なところ、割と好きだよ?」

「す、すきって………!」

「うん。あと恥ずかしがり屋なところも。まぁ、とにかくこのままじゃ二人と一緒に行動するしかないね?付き合い出したカップルの間に割り込むしかないな~~守ってくれる人もいないのに、私一人でいたらナンパされちゃうもんね?」

「う……ぐっ」

「ぷふふっ」



………ああ、もう。

これじゃ、バイトに集中できるはずがないじゃん……それに朝日向さんを一人、水着姿でいさせるのは確かに危険すぎるし。バイトよりは、朝日向さんの方がよっぽど大事だから。

はあ……仕方ない。



「……他のバイトさんに頼んでみるから」

「うん?よく聞こえなかった」

「他のバイトさんに代わってもらうから!だから、その……一緒に行こう」

「……あはっ、はははっ!!」



何がそんなに可笑しいのか、朝日向さんはついにき出してしまった。もう我慢できないと言わんばかりの顔で、口元を手で隠してずっと笑い声をあげている。

僕は、ひたすら羞恥に耐えるしかなかった。

悔しいけど、でもこんな時間を幸せだと思う自分がいるから。それがまた悔しいけどね……



「うん。一緒に行こ?プール」

「……分かった」

「あっ、ごめんって~ほらほら、こっち見て?機嫌直して?そもそも私が他の男に絡まれたって、ついていくはずがないじゃない」

「…なにそれ。じゃさっきの言葉はナシで」

「それはダメ。五十嵐君は私と一緒にプール行くの。これはもう取り返せない決定事項だから、観念しなさい」

「なんて理不尽な………」

「うん?今何か言った?」



でも朝日向さんの笑顔が可愛すぎて、腕を軽く握られただけでも、心臓をバクンと鳴らせる自分がいて。

やっぱり僕は朝日向さんには永遠に適えないんだと、今度も思い知らされるのだった。

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