83話  あなたのためなら

ゆずりは 叶愛かな



ドン、ドドンと響き渡る音を聞いて、私はベランダ越しで空を見上げる。



「花火………」



窓を開けると、打ち上げられる花火の音がより鮮明に轟いてきた。

果てしなく綺麗で、美しかったけど……言葉じゃ言い表せないくらいの悲しみも一緒にせり上がってくる。

…本来なら、灰塚はいづかとあの花火を一緒に見るつもりだったのに。

彼の誕生日をお祝いしながら、一緒に見たかったのに。

………でも今では、それはもう痛い女の妄想にしかならない。この道は私が選んだのだ。

後ろを振り向くと、さっきまで詰めていた幾つかの段ボールが目に入ってきた。今日は……ここまでにしよっか。



「明日、からでもいいよね……」



平日の間、私は転校の手続きを調べて叔父おじさんに引っ越しすることを伝えていた。

引っ越しの荷造りをするのは少し早い感じもしたけど、なるべく早く家を空けたかった。もし灰塚に知られたら、大変なことになってしまうから。

………うん、これでいい。

……家を空ける前に、ゆい五十嵐いがらし君にだけは、こっそりと言っておこう。



「……お風呂にでも入ろう」



うん。けっこう汗もかいちゃったし………いいよね。

バスルームに入って、私はとりあえずお風呂のお湯を沸かす。それから疲労が溜まった体をゆっくりと癒した後、化粧水と美容液、クリームを塗って肌のケアをしてからリビングに出た。

そして、私はもう一度床に散らかっている段ボールを見下ろして苦笑する。



「……………」



今日はもう寝よう。そう思って、そのまま部屋に入ろうとしたその矢先。

ぴん、ぽんと。

玄関のチャイムの音が、家中に響いてきた。



「………え?」



一瞬にして、氷でも落とされたかのように背中がぞっとしてしてしまう。

頭が真っ白になって、ただただその場に立ちすくむ。いや、そんなまさか……



『ゆずりは』

「………………」



聞き間違いなんか、するはずがない。

これは私が愛する人の声なんだから。これは……

………灰塚の、声。



『……杠?』

「………あ」

『…………』



しばらく経って静かになったと思うと、いきなり棚に置いてあったスマホが鳴った。

直にそれを取って内容を確認する。それは電話ではなく、灰塚からのメッセージだった。



『もし開けてくれなかったら、一晩中ここで居座るから』

「………………………」



……ずるい。

スマホを握っている手が震え出した。どうして、どうしてそんな酷いことを言うの。

私は……あんなにあなたを拒んでいたのに。



「………はぁ」



……勝てるはずがない。彼なら本当に言うことをそのまま実行するだろうし、何よりも彼は……私がこの状況を放っておくわけがないって、既に知っているから。

結局わたしは、彼の思い通りに玄関に向かって、ドアのノブを捻るしかなかった。



「…………あ」

「……………」



すると、この前よりずっと汗ばんだ灰塚の姿が視界に映ってきた。

前髪はもう汗で濡れてびちょびちょになっている。今でも息を切らしていて、着ているシャツの所々は汗で濡れているのが見えた。

夏祭りの会場からここまでずっと走ってきたってことを、私は容易に察することができた。

だから、喉が詰まって何も言えなくなってしまう。

彼もまた、いつもの平然とした様子ではなく、言葉に迷っているようにだいぶ間をおいてから言ってきた。



「………入っていい?」

「…………だ、だめ。帰って」

「入りたい」

「………どうして来たの」



その質問に対して、彼はニッコリと口角を上げてから言う。



「まだ、伝えていないことがあるから」

「………………」



………それが全部伝わったら、私はきっと壊れてしまう。

砕け散って、バラバラになって、それでも……それでも、嬉しさに耐えられなくなるに違いない。

私は言う。自分を守るために。



「帰って。私たちもう終わったじゃん」

「あの時、俺は何も言ってなかったけど」

「私の中ではもう終わったの。これ以上は何も聞きたくない」

「……そんな風にして、本当にいいのかよ」

「当たり前でしょ?だから言ったじゃない、あの時に」



あなたの彼女にはなれないって、体が引き裂かれるような思いをしながらも言ったんだから。

今になって取り返すつもりはなかった。だから………



「……そっか。じゃあの時の答え合わせを、ここでしてもらおうか」

「何を言ってるの。私は、何も聞きたくないって言っ……!」



断りの言葉を口にしようとしたのに。

なのにその口はあっという間に塞がれて、暖かい感触だけを体中に流れ込ませる。

いっそう濃くなった彼の体臭と、馴染んだ感覚が私を支配していく。間もなくして、私は気付いた。

さっきまで私は、キスをされているのだと。



「………な、なにをし……ううっ!」



何かを言おうとするとすぐに唇が覆いかぶされて、言葉がまともに出なかった。ただただ恋しい温もりだけが心をむさぼる。目が見開かれて、全身に力が入ってるのに。

それでも、抵抗することはできなくて……



「これ、はなし………うっ!」

「…………」

「………うっ……はぁ……ううっ……」



………どうして。

どうして、どうして、どうして。

どうしてこんなことをするの……どうして、私はこんなにももろいの。

たかが数回キスされたくらいで簡単に心臓が降りて、目じりに涙を浮かべて、彼の腕にしがみつくように手を置いて………



「ぷはあぁ!はぁ………はあぁ……」

「ふぅ………はぁ……」



キスが終わった頃にはもう、私は唇をぱくぱくしながら彼を見上げることしかできなくなっていた。



「……入るぞ」

「…………」



灰塚は滑り込むようにして私の横をすり抜けて、中に入っていく。

私は壊れた人形のようにただぼうっと突っ立って、さっきのキスの感覚を蘇らせた。

………ああ。

ずるい。ずるいよ、こんなの酷すぎるよ。灰塚………








結局、彼を家に上げた後に私はソファーで腰かけて、何度も指先を唇に当てながら彼を待っていた。

酷く汗をかいて不愉快だったのか、彼は入ってすぐバスルームに向かってシャワーをし始めた。寝泊まりでもするつもりなのか、コンビニでパンツとシャツまで買ってきている。



「……………バカ」



……………さっきのキスって。

どんな意味があったのだろう。アレは………アレはただ、私を襲うための前置き?それとも心がこもっているもの?

あの時の答えだと言っていたから、もしくは絶対に私を恋人にするという……そういう宣言みたいなもの?

……どのみち、灰塚にこんなキスをされたのはこれが初めてだったから、私はおどおどしているばかりだった。

これじゃダメだと思う背徳感と同時に、とんでもない嬉しさが込み上がってくる。

こんなにも好きだったのかと、自分自身に呆れてしまうくらいに。



「ふう……」

「…………」

「…………」



モヤモヤしていたところで、灰塚はついにシャワーを終えてリビングに出た。

彼はコンビニで買った白いシャツを着て、少し目を伏せている。



「灰塚」



私は固唾を呑んで、彼に向かって言い放った。



「どうするつもりなの」

「……なにが?」

「私を襲うつもりなの?言っておくけど、もう私たちセフレでもなんでもないから。もちろん恋人でもないし、友達ですらないし。私たちはただ……赤の、他人なの。だからさっきのキスは――」

「赤の他人のために、わざわざこんなことまでするんだな」



すぐに冷淡に言い捨てて、彼は膝を曲げて段ボールの中の品物をあさり始めた。



「………なんなのよ、あなた」

「なにが?」

「あんなに怒ってたのに。私に失望してたのに!!なのになんで今さらしれっとした顔で私にあんなことができるの?分からない。全然理解できない!!あなたは一体――!」

「……あった。家出した時に、お前と一緒に勉強してたやつ」



また私の言葉を遮って、彼は一つの参考書を手に取ってから立ち上がった。

………忘れられるはずがない。彼に教えてもらった、数学の参考書なのだ。



「持っていくつもりだったんだな、これ」

「…………っ」



唇をぐっと噛んで恨めしい視線を送る。でも灰塚は全く気にしないと言わんばかりの顔で、その参考書の表紙を見ながらため息をついた。



「この家に来る前にさ、芹菜のヤツに言われたんだ」

「……なにを?」

「今の俺の心には杠しかいないって、そんなことを言ってた」



そして、彼は大きな息を吐いてからクスリと笑い出す。



「正にその通りだったよ。いつの間にか、お前のことしか頭に入らなかったんだ。お前に怒ってたから、失望したから忘れようともしてみたんだ。でも……結局できなかったんだよ。ほんのちょっとでも気を抜いてると、お前のことしか浮かばなくて」

「……………」

「おめでとうさん。まんまと言う通りになったね。前に言ったでしょ?俺に初めてキスした時に、必ず俺の人生を壊してやるって」

「…………それは」

「言葉の通り、俺の人生はもう壊れた。お前がいないと……杠がいてくれないと、俺はたぶん本格的に壊れてずたずたになるのかもしれない。俺はもう………周りにあるすべての物から、お前を思い出してしまっているから」



淡々と、感情の揺れがほぼ感じられない口調で彼は言う。

彼は目を半開きにして、私じゃなく思い出が込められている教科書を眺めていた。

わたしは………



「………わたしは、あなたが、私で壊れて欲しくなかった」



ずっと隠してきたその本音を、らす。

そうしたら、彼はようやく私を見て微笑んでくれた。



「うん、知ってたよ」

「………………」

「お前にどう思われているか、俺はずっと前から知ってたんだ。だからお前に恋人にはなれないと聞いて………ものすごく、つらかった」



灰塚は、その教科書を再び段ボールに入れずに、そのままテレビ台に置いて私に近づいてくる。

首を振ることしか、私にはできなかった。



「だからもう、俺に選択肢なんてないんだ。お前と一緒にいること以外の選択肢なんて俺にはないから、だから………」



ちょうど私の一歩前まで来て、何度も口ごもって、そっぽを向いて……

彼は、ようやく言葉を紡ぐ。



「……待つことにしたよ」

「……………」

「いくらでも、いつまでも俺は待つよ。お前が、杠が…………か、叶愛が……俺の隣に来てくれるまで。もう一度、頑張りたいと思ってくれるまで、ずっと待ち続けるよ。叶愛の帰るべき場所になるまで、俺の隣に戻ってくるまで……いつまでも、待つから」



………………

か…………な?



「……これを、伝えたかったんだ」



今まで見たことがないほどに、灰塚の顔は耳まで真っ赤になっていた。

すぐ前で立っている彼の唇がぶるぶると震えて、私にまでその緊張が伝わってくるようだった。

でも私は、そんなことなんてどうでもいいくらいのショックを受けていた。

………………叶愛かなって。

それは、私の名前。どうして名付けられたのかも分からない、私の下の名前。

それを灰塚が、愛している人が呼んでくれた。

ずっと待つって、言ってくれた。



「………………っ」



洪水のような感情が、堰を切って私を飲み込む。



「…………くっ」

「……泣くなよ、お願いだから」

「ううっ………ああっ……うっ………」

「ほら、叶愛」

「ああっ……うっ……っ……」

「………全く」



いつもの苦笑を浮かべて、彼は私の前で膝を曲げて。



「泣くのは、これで最後にしてくれよ」



溶けそうなほどの温もりを、私に伝えてきた。体が包まれて、一気に私の中で彼の匂いが広まっていく。

ただ泣くことしかできなかった。

胸元に顔を埋めてずっとずっと泣き喚く。いつも泣いてばかりで迷惑ばかりかける自分が嫌になってくる。

それと同時に言い表せないほどの愛が溢れてきた。この人じゃないともう生きられないんだと実感した。



「好きだよ」

「バカぁ……言うな……」

「好きだよ。大好きだよ。叶愛のことが、本当に大好き」



私を抱き留めながら耳元で囁かれたその声に、また涙が溢れ出てくる。結局耐え切れずに、私は両腕で彼を強く抱きしめた。

どれくらい抱き合って、どれくらい泣いたのだろう。

ようやく私はピリピリする目元をこすって、その名前を口にした。



「………れん」

「うん」

「………れん。連……」

「うん。ちゃんとここにいるよ」

「……バカ」



思わずほほ笑みが垂れてきて、顔がどうしようもなく緩んでしまう。

全身が雲の上に浮かんでいるようだった。そんな体を、彼はいつも優しく支持してくれる。

この温もりが、私の全部を肯定してくれる。



「………好き」

「うん」

「ううん……愛してる。私も、連を愛してるよ」

「………うん」

「ずっとずっと、ずっと前から……初めて命を助けてもらった時から、ううん。初めて会った時からきっと……ずっとずっと、大好きだったの」

「うん」

「……ありがとう。こんな、なにもあげられない私を……好きになってくれて」

「違うよ。俺はもう全部もらったから」



連は愛おしそうに親指で私の頬を撫でてから、言葉を紡いでくれる。



「叶愛にすべてをもらったんだ。我儘を言うことも、大事な気持ちも、愛という感情も……なにもかも、全部もらったから」

「……………」

「ぷふっ、幸せそうな顔して」



それから満面の笑みを浮かべて、連は少し首を傾げてから言った。



「今年の誕生日プレゼントは、この笑顔でいいよ」

「………うん」



そのままお互い眺めながら、私たちはどちらからともなく唇を合わせた。

初めてしたキスは私の一方的なものだった。でも今度は違う。

今度は、ちゃんと連からも唇を当ててくれる。嬉しくて、幸せで、ありとあらゆる温度が溜められているキスだった。

その長いキスの後、私は彼の顔に両手を添えてから言う。



「待っててね」

「うん」

「……連のためなら、わたしはどこまでも頑張れるから」



そう。私のすべてを救ってくれたあなたのためなら……

私は、なんだってできるから。

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