82話  叶愛

灰塚はいづか れん



俺は、頑張らなくてもいいと言った。

ゆずりはの昔話を聞いた後。ぼたぼたと涙を流している彼女に、俺は頑張らなくてもいいって言っていた。それは間違いのない俺の本心だった。

そんな俺に、今さら頑張ってくれよと言える資格があるのか。



「……十分前か」



他人からの視線なんかどうでもいい。

そんなくだらないことよりは杠の方が大事だった。彼女が願えば、俺はすべてかなぐり捨てて彼女の傍に駆けつけるだろう。

でもそれは、杠が望む関係性じゃない。

だからあいつは俺の傍から離れたのだろう。だから芹菜せりなに……譲ったのだろう。

酷く虐待をされてきた彼女に、再び頑張るという選択肢は容易いことではないのを俺は知っている。ある程度は理解しているつもりだった。



「……………」



…………俺の我儘で彼女を束縛するのは、果たして正しいことなのか?

杠にムリを言うのは、果たして彼女の幸せに繋がるのだろうか。

………いや、繋がらない。繋がるはずがない。

離れることよりも、苦しんでいる姿を見る方が……よっぽどつらいのだ。



「よう、連」

「あ………」



賑わいている会場の中、後ろから聞きなれた声が響いてくる。

振り返ると、そこには普段とだいぶ変わった様子の芹菜が気恥ずかしそうな笑みを浮かべながら立っていた。白と青を組み合わせた花柄の浴衣を着て、胸元まで伸びた赤色の髪を綺麗にまとめている。

通りすがりの人も目を移すような魅力的な姿を前に、俺はしばし言葉に詰まっていた。



「ふふっ、そんなに驚くことなの?」

「いや……そりゃ驚くだろう。お前の浴衣姿を見るの、けっこう久しぶりだから」

「そうだね。最後に見たのは中学の時だったもんね?あの時も連の誕生日だっけ」

「……そうだな」

「親御さんは?けっこうお祝いされてたんじゃない?」

「お前との約束があるって言ったら、ずいぶんと上機嫌で行って来いと言われた。気にすることはないよ」

「うん、よかった」

「……それと、可愛いよ。浴衣姿」

「………ふふっ、うん。工夫した甲斐があったね。ありがとう」



なんだか、こうして和服を来ている姿を見ると普段と違っておしとやかな雰囲気を感じる。

芹菜は大和撫子やまとなでしこのような柄じゃないけど、基本的には尽くす側の人間だから。



「じゃ行こっか!いっぱい楽しもう!」

「…俺の感想を返せ」

「うん?何か言った?」

「いや、何も言ってない」



下駄を履いているにもかかわらず、芹菜は俺の手首を引っ張って人だかりの中に入っていく。握られた手首を見下ろしながら、俺はしばし苦笑した。

そう、芹菜は杠とは何もかもが違う。

真逆と言ってもいいほどだ。目の前にいる人がもし杠だったら、きっと手首を握る方は彼女じゃなくて俺なのだろう。恥ずかしがり屋のあいつは、いつも自分が先に立つのをはばかるから。

……一緒に、来たかったのに。

デートをしている時に、ちゃんと約束してたのにな。一緒に行こうって、花火を見ようって……

腹の奥がじんわりと熱く、苦しくなるのを感じる。いけないだと思って、俺は大きく深呼吸をした。

何をしているんだ、俺は。これじゃ芹菜に迷惑じゃないか……



「……連?どうかしたの?」

「いや、気にしなくていい。そうだ、射的でもするか。あそこに屋台やたいあるだろ?」

「うん!そうしよう。中学の頃は……たぶん私が勝ってたよね?」

「今度は違うぞ。なんなら勝負しようか?先に二発当てた方の勝で」

「あっ、いいね。それじゃこうしよ!負けた人は、勝った人の言うことをなんでも一つ聞いてくれること!」

「……何を要求するつもりなんだよ」

「うん?もしかしてビビった~?男のくせに、女の私に射撃で負けるわけないよね~?」

「………ウザいな。乗ってやる。勝負だ」

「ふふっ、そう来なくちゃ」



そのまま屋台に向かって、俺が先に料金を支払ってから銃を構えた。

こういうモノはどう扱えばいいのか分からないけど、まぁ……適当に感でやればいいっか。



「一応聞いておくけど、欲しい景品とかはあるの?」

「ううん、ないよ?私、欲しいものは自分で取っちゃうタイプだから」

「お前らしいな……本当」



口角を上げて、俺は片方の目をつぶってなるべく大きめのおもちゃを狙った。色々うるさく言われるかもしれないが、勝負の世界は厳しいから。

案の定、息を止めてゆっくりと引き金を引くと、狙っていた景品は簡単に落ちた。



「おお~~やるじゃねぇか、少年」

「ありがとうございます」



少し得意げに芹菜の方を見やると、彼女は少し不機嫌そうに頬を膨らませていた。



「ふん、これくらいは私にだってできるもん」

「はいはい」



銃を手渡してから、俺は彼女の後ろに立って芹菜の後ろ姿を眺める。銃を構える姿勢は文句のつけ所がないくらい完璧で、さすがに芹菜だなと感心した。

……これがもし杠だったら、たぶん姿勢がめちゃくちゃになったのだろう。あいつもたった一発も当てられなさそうだ。とにかく不器用だから……

考えているうちに芹菜が引き金を引く。コルクの弾丸は可愛いぬいぐるみに的確に当たって、周囲からの嘆声が上がった。

どこにでもあるような、茶色のクマのぬいぐるみだった。



「………………」



…………クマの、ぬいぐるみ。

俺が初めてあいつにあげた、プレゼント………



「どう……って、連?」

「うん?あ……いや、ごめん。ちょっとぼうっとしてた。やっぱすごいな、お前」

「………うん、まぁそれならいいわ。さぁ、連の番よ」

「うん」



…………くそ。

よみがえってくる。杠との思い出が、あいつの緩んでいる表情が、嬉しい時の言葉遣いが、大切にぬいぐるみを抱いてすやすやとしている寝顔も、全部全部蘇ってくる。

唇をグッと噛んでも消えなかった。何度も心の中で悪態を吐いてもせり上がってくる。栓をしても、溢れ返る。

くそ………くそ………



「………えっ、外したじゃねぇか。まぁ、次だ、次」

「………はい」



忘れられていないのだ。

あの灰色の柔らかい髪の毛を、俯いて赤面している白い肌を、俺にぎゅっとしがみついてきた華奢な体も………



「ふふっ。この勝負もらったわ」

「……へぇ、せいぜい頑張ることだな」

「……そうね」



あえて明るい口調をして後ろに下がる。芹菜は少し間をおいて俺の表情を伺っていたけど、すぐに銃を手に取ってくれた。

最低だ。最悪だ。

何度も自分を責め続ける。俺は何のためにここに来たのか。幼馴染である芹菜と遊ぶためだ。友人と楽しい時間を過ごすために、そして………

少しでも、杠を……杠の影を、ほんの少しでもなくすために、ここに来たというのに。

俺は…………一体。








「はい、たこ焼き。熱いから気をつけろよ」

「ふふっ、は~い」



当たり前と言うべきか、射的の勝負は俺の負けだった。

集中ができなかったのだ。自分に対する嫌悪感と杠に対する恋しさが混ざって射的どころではなかった。そんな顔を直に芹菜に見せなかったのが、ほんの少しの救いだった。

結局、俺は芹菜の言われるがままにたこ焼きをおごった。

もっとムリな要求をされるとばかり思っていたから、少し不思議だった。



「な~に、その後ろめたい顔。何されると思ってたのよ」

「……さぁ?少なくともたこ焼きよりは重いものを要求されると思ってた」

「ふふっ、まさか~わたしそんな酷い人間じゃないよ?心外だな」

「…とにかく、足は大丈夫なの?下駄履いてるから歩き回ると痛いだろ?」

「ううん?全然。最近の鼻緒はなおは足が痛くならないようになってるからね。いくら歩き回っても平気だよ?」

「ならよかった。ソースは零さないように」

「私、子供じゃないんですけど~」

「はい、はい」



とにかく、その後にも俺たちは色々な屋台を回った。歩きながら焼いたトウモロコシとりんご飴も食べて、金魚すくいをやって……この広い会場を、いっぱい歩き回った。

でも俺の中にはむくむくと、罪悪感だけが膨らんで仕方がなかった。

杠のことが、ろくに頭から離れてくれなかった。

芹菜に集中しなければいけないのに、俺は……気付けば杠のことを思っていて、密かに悩んでいた。決着をつけなかったこの関係をどうするべきか、うだうだと考えていた。

芹菜にはそんな姿を見せたくなかったので表には出ないようにしてたけど……心が、思うようには動いてくれなかった。



「そろそろ花火でも見に行かない?私、穴場知ってるから」

「えっ、どうやってそれを……?ここで花火見たことないだろ?」

「ネットで調べたから。もう、今は情報化社会ですよ?灰塚君?」

「………はぁ、本当勝てる気がしないな」

「ふふっ、ならよし。じゃ行こう!」



芹菜はそれを知って知らずか、俺の一歩前を歩きながら明るい声を出してくる。

その後ろ姿についていくことしか出来ず、気付けば俺たちはいつの間に大きな階段を目の前にしていた。



「最後まで上がれば花火が全部見える……って言ってたけど。あ、今上がっている人たちもいるから、たぶん間違いないみたいね」

「へぇ……こんなところがあったんだ。ていうか、その靴で本当大丈夫なの?」

「当たり前じゃない。私、七瀬ななせ芹菜だから」

「………はっ、そうだった」



どこから溢れ出る自信なのか。やっぱり、芹菜には一生勝てる気がしない。

しばらくの間、俺たちは何も話さずに階段を上って行った。

なるべく芹菜に気をつけて歩調を合わせながら上っていると、汗が滲み出て少し不愉快になる。祭りの熱気におおわれた体は、ずいぶんと汗ばんでいた。

それでもなお、芹菜は笑顔を忘れずに俺の手を握ってくれる。

こんなヤツにこれほど好かれるのは正直に言って、天運だとしか言いようがないと思った。

芹菜は本当に、素敵な女の子だ。

俺はそのことを、痛いくらいに知っている。



「よし、開始まであと十分。楽しみだなぁ~」

「そうだな……」



適当にベンチに腰かけて、俺たちはまだ何も光っていない空を見上げる。周りには俺たちみたいな男女ペア、もしくは家族連れの人たちが多く、みんな期待に満ちた目をしてだいぶぎわっていた。

でも、芹菜の声ははっきりとその騒ぎを切り裂いて、俺の耳に届く。



「連」

「………うん?」

「今日は楽しかった?」

「…………」



口角を上げて、俺は肯く。



「うん、楽しかったよ。芹菜は?」

「私も。夏祭り、男と来たことはなかったからちょっと新鮮だった」

「ごめんな。上手くエスコート出来なくて」

「ええ~いいのに、気にしなくても。純粋に楽しかったから」



そしてまたちょっと間が空いて、俺たちは沈黙を保った。

なんだか変な空気だった。芹菜は何かを言いたそうにずっと口をもごもごしていて、俺はさっき質問されたことを反芻はんすうした。

楽しかった。

間違いなく、芹菜といるのは楽しい。昔も今も変わらず、いつも元気いっぱいなこの幼馴染が、俺は好きだった。

そう、好きだった。

異性としてではなく、多くの思い出を共有した幼馴染として。だから…………



「来年の夏にも、一緒に来ようね」

「………………」



この質問に答えることが、できなかった。

今、俺に求められているのはきっと優しいウソだ。

真意のこもっていないウソを吐くと、今日と言う時間は楽しい思い出になって二人の時間軸に刻まれるのだろう。

………でも、俺はそうしなかった。

歪で、不安定な関係は一度だけでいい。

これ以上、曖昧あいまいな行動で芹菜を傷つけたくないから。



「……………ごめんな」

「……………」



花火が上がる。

色とりどりの花火がぱんと大きな音をかせながら散る。

周りにいる人たちも一緒に舞い上がって、空に開かれる壮観を目に溜めていた。

俺たちもまた、その綺麗な光景を見上げていた。



「………………そっか」



段々と、芹菜の目じりから涙が浮かび始める。

尻目にそれを確かめて、ぐっと目を閉じて、俺はまた空を見上げた。

終わることなく、赤と朱の色が空中で散っていく。

自分に対する嫌悪感と、芹菜に対する申し訳なさだけが残った。



「………私ね」

「うん?」

「知ってたんだ、実は」



轟音の中でも、芹菜の声は不思議なくらい透き通って、俺の耳まで届いてきた。



「あの時、戸惑っていた連を見て、すぐ気付いた」

「………なにを?」

「今の連には、あの人しかないってことを」



……………そうだな。



「綺麗だね、花火……」



何も言い返すことなく、俺はただ芹菜の横でぼんやりと空を眺め続けた。








「別に、送ってくれなくてもよかったのに」

「そういうわけにもいかないだろう」



帰り道、俺たちは街角に停車されている黒い車の横で話をしていた。

芹菜は電車じゃなく、運転手さんの車に乗って帰るらしい。



「ありがとう。優しいね、連は」

「……………違うよ、俺なんか」

「あのさ」



芹菜は相変わらず満面の笑みを湛えて、さらっと言う。



「私、まだ諦めてないから」

「………………芹菜」

「まぁ、今のところはあの人に負けてしまったけどね。でも人生は長いし、それにたとえ私がフラれたとしても………幼馴染だという事実だけは、変わらないじゃない」

「………うん、そうだな」

「絶対に後悔させてやるからな~覚えてろよ、この野郎」

「……覚えておく」



なんだかすっきりしたような口調で言い残してから、芹菜は車の後ろ席に乗って手を振ってくる。



「じゃね。また明後日、予備校で」

「ああ、また週明けにな」



そして、その車はあっという間に俺の目の前から姿を消した。

すごいなって、純粋に思った。

本当に、芹菜はすごい。俺なんかより全然できた人間だ。ぶん殴られて罵られても仕方ないと思っていたのに。

目を閉じて項垂うなだれた後、俺はまた大きなため息を吐く。夏祭りはもう終わった。

…………でも、まだ日付は変わっていない。

スマホを手にとって、俺はある人に電話をかけた。



『もしもし~連?どうしたの?今じゃ祭りも終わってるんじゃ――』

「その………姉ちゃん」

『…うん?』

「俺………たぶん、外泊するかも」



そのとんちんかんな言葉を聞いて、さすがの姉ちゃんもしばらく何も言わなかった。



『………は?外泊って?えええええ?!』

「ちょっ………!あの、えっと…………その」

『…へぇぇ~じゃなんで私に電話したの?そんなの、お母さんやお父さんに直接言ったらいいじゃん』

「理由、もう知ってるだろ…」



恥ずかしくてぐっと唇を噛んでると、向うからは面白がるような笑い声が聞こえてきた。



『ぷふふふっ』

「………なんだよ」

『ううん、連も青春してるなって』

「……俺のこと、疑ったりしないの?」

『基本的には信じてるから。いいわよ。お父さんには私がどうにかして説明しておくね。でも、その前に一つだけ教えて』

「なにを?」



顔を上げると、姉ちゃんは何を聞いてるのかと言わんばかりのつっけんどんな声で言った。



『決まってるでしょ?芹菜ちゃんと叶愛ちゃん。結局どっちなの?』



ぶるぶると、口が震え出す。

気恥ずかしくて言葉が思うように出てくれなかった。もう、頭で何度も刻みつけた名前だというのに。

芹菜曰く、今の俺には彼女しかいないと言う。

正にその通りだ。今の俺には、あいつしかいない。



「…叶愛かなだよ」



俺には、叶愛しかいない。

その名前を口にして、俺は再び熱気が込められている吐息を吐いた。

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