81話  看護学科

七瀬ななせ 芹菜せりな



正直に言おう。私は気持ちよかった。

れんの顔を見る限り、二人の間で何かあったということは簡単に察することができた。たぶん、彼女と大喧嘩したか、それとも別れを告げられたかのかのどっちなのだろう。

だからこの状況は、私にとって大きなチャンスだった。



「……………」

「……………」



私は基本的に目的を達成するためには、いかなる手段も厭わない。ずるいと言っても返す言葉がない。

ゆずりはさんに対する純粋な好奇心はもちろんあった。でも私は、元々彼女を圧迫するために会っていた。

一緒に歩いている私たちを見て、彼女が逃げ出すように走って行ったから。それを見て、気弱な人かなと思ってちょっとカマをかけてみただけだったけど……まさかこんな風に当たるなんて。

どの道、わたしには喜ぶことしかない。

なのに。



「…………連」

「…………」



なのに、どうしてこんなに罪悪感が湧くのだろう。連の横顔を見てると自然と分かってくる。

色彩のない目、機械的に黒板の内容を書き込む手つきと噤まれた口。既視感のありすぎるその姿を見て、心の中で鋭利えいりはりに刺されたような痛みが走る。

………連は、昔に戻っていた。

何も感じていないように見えた、物事に全く興味を抱かなかったあの頃に。

彼の苗字通り、灰になって。

胸が締め付けられて、授業どころかまともに息をすることさえできなくなる。



「ここで、線を引くとこの図形が二つに分かれて………」

「…………」



悪いことをしたとは思わなかった。私はただ私のやり方を押し通しただけで、別に彼女を侮辱ぶじょくしたわけでもないから。

誓って、私は正々堂々と戦おうとした。

でも結果がこれだなんて、認めたくない。彼女が………

連の中での彼女が、こんなに大きい存在だったなんて、認めたくなかった。

普段いつもしれっとしている連には珍しいあの怒り。そして今の表情。

それは全部彼女がもたらしたもので、連が明るくなってもっと笑うようになったのも間違いなく……彼女のおかげで。



「さぁ、授業はこれで終わりにしましょう。みなさん、明日からは週末なのでちゃんと今日の分を復習して来てください。ではまた週明けに」

「は~い!ありがとうございます!」

「ありがとうございます!」



授業が終わると、連は若干目を転がせてからようやく自分のノートを見下ろして、淡く苦笑いを零す。



「……帰ろっか、連」

「………そうだな」



筆箱と参考書をカバンの中に入れて、私たちは立ち上がる。周りの人はそれぞれのカバンを背負って廊下に出ていた。

その行列に身を任せて、私たちも共に廊下に出る。



「そうだ、連。今日………」



どこかに寄って行かない、と言いかけたところで。

私は見てしまった。連が視線を次々と移しながら何かを必死で見ようとしているのを。

………たぶん、アッシュグレーの髪をしたあの少女を目に留めたくて。



「うん?あ、ごめん。なんか言った?」

「………今日、どこか寄って行かない?」

「あ……ごめんな。今日はちょっと用事あるから」

「……そう」



あの人のことなの、とはさすがに言えなかった。

とにかく廊下を通り抜けて予備校のエントランスにまで着いた瞬間、連は先に手を振ってくる。



「そうだ。俺、化学の先生に質問したいことがあったから。先で帰ってよ。待たなくていいから」

「うん、分かった。じゃね!また明日」

「ああ、また明日」



それがウソだということを、私はすぐに察した。

だって、あの賢い連が先生に何かを質問するなんてありえないから。だから私は帰るふりをしてトイレに一度足を運んだ後、すぐに戻って予備校のロビーの中を確認した。

予想通り、連は受付さんの前で何か話をしていた。

なるべく音を立てないようにゆっくりとガラスのドアを開けて、隣に本棚が設置されたスペースに密かに足を向ける。けっこう隅っこにあるから、たぶん気付かれることはない。

幸いと言うべきか、ロビーでの話し声ははっきりと聞こえてきた。



「あの………ちょっとお聞きしたいことがあるのですが」

「うん。なに?」

「その……杠叶愛かなっていう、銀髪の子がいるじゃないですか」

「あ!うんうん、杠ちゃんのことね。よく覚えてるよ。どうしたの?」

「その……あの子、今日まともに出席したのかが気になって」



連は、いかにも真摯な口調で言っていた。



「ううん、来てないよ。体調不良だって連絡を受けてたけど」

「…………そうですか」

「……えっと、なにか問題でもある?」

「いえ。それはないんですけど」



あからさまに落ち込んでいる声色で、連がそう言う。零したため息の声が人のいないロビーの中に響いた。

それを見て何かを察したのか、受付さんはすぐに言葉を紡いでいく。



「………もしかして、喧嘩でもしたの?」

「はい?」

「あっ、違うの?だって灰塚君と杠ちゃん、けっこう親しい仲なんじゃ…」

「待ってください。どういうことですか?」

「………まぁ、言ってはいけなかいような気がするけど……仲直りするためなんだし、別にいいっか」



それから放たれた言葉は、私の心にもぐっとくるような内容だった。



「登録の手続きをしている時にね。杠ちゃん、一緒にいたい人がいるって言ってたよ?追いかけたい人がいるって」

「………それは」

「そうか、それは灰塚君のことだったんだ。通りであの志望校か」

「ど…どういうことですか?教えてください。あいつ、志望校なんて一度も」

「え?まだ聞いてないの?」

「……………」



私はほぼ凍り付いたまま、そのことを耳にする。



「杠ちゃんの志望校、国立の看護学科だよ?ちなみに大学も灰塚君と同じところだったような気がする」

「…………かん、ご」

「うん。まぁ、今の成績じゃD判定どころかE判定だよって言ってたけどね。なのにそれでも頑張りますと言い切るから、すごく印象に残ってたの」

「…………………」



本当に、本当に長い間、連は何も言わなかった。

ただ大きく息を吸って吐いて、看護学科と言う四文字を飲み込もうと必死に努力しているようにさえ見えた。

私はただ息を詰めらせて、その会話を聞いていた。



「……そうですか」

「………うん。あの人が通うところなら、自分も通いたいって、そう言ってたよ」

「そう、ですか……はっ……はっ………」



それ以上は耐え切れなくなって、私はつい速足で建物の中を飛び出してしまった。

夏の分厚い日差しを浴びながら、大きく息を吐く。

…そっか、彼女も努力をしていたというわけか。

そして連の反応から察するに、連はまだ彼女のことを忘れられていなくて……



「………とんでもないな、本当」



……どうやったら勝てるのかな、本当。

どうしても、灰色の髪をしたあの綺麗な少女に勝てる気がしない。

前が見えない。暗くて、不安定で、何も映らない。欲しいものがこんなにも遠くにあるような感覚は、人生で初めてなのかもしれないと思った。

………諦めたくないのに。



「……………っ」



唇をぐっと噛みながら、私は家に向かう電車に乗る。何度も心の中のざわつきを鎮めて家について。

明日の日付を確認しながら、私は考えを巡らせた。

諦めたくない。

明日は連の誕生日だ。それと同時に夏祭りの開催日でもある。このチャンスをものにしなければ、たぶん連の心を揺さぶるのは不可能。

だから私は、電話をする。ほんの僅かな隙でも突っ込むために。

七瀬芹菜の生き方は、これだから。



『もしもし』

「こんばんは、連。今時間大丈夫?」

『まぁ……どうしたの?』

「あのね、明日の夏祭り………」



こんなに緊張した経験今まであったっけ。これは連だけだ。

あの子だけが、私を緊張させる。



「……一緒に、花火見に行かない?」



その質問の意図を、連ならすぐに察するだろう。

明日は連の誕生日だ。連にとっては、誕生日に家族以外にも一緒にいたい相手がいるはず。

そしてそれは私か、もしくは彼女であるはずだ。



『………花火か』



そして連は、そんなことを一人ごちりながら……



『うん。行くか』



どこか断定的な声で、私に伝えてくれた。






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あけましておめでとうございます!皆様にとって良い一年になりますように。

この1年間、本当にありがとうございました。来年もまたよろしくお願いいたします。

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