80話  杠の気持ち

灰塚はいづか れん



芹菜せりな



ろくな挨拶もせずに名前を呼ぶと、彼女は座ったまま目を見開いて俺を見上げてきた。

予備校の講義室の中、時間が早いせいなのか生徒たちはほとんど来ていない。それでも俺は声を押し殺して、芹菜に問いただした。



「お前、何をした」

「………え?」



慌てて目を丸くしている芹菜に益々嫌味が差して、唇をぐっと嚙みながら言葉を吐く。



ゆずりはに、お前が何か吹き込んだんだろ?」

「…………連」

「何を言ったんだよ。いや、そもそもなんであんな勝手な真似をしたんだ。あいつは!!」

「……声が大きいよ、連」



一瞬叫びかけていたけど、その冷静な口調を聞いて我に返る。気付けば、周りの視線が俺たちだけに注がれていた。

仕方なく奥歯を食いしばって、俺は吐息を漏らしながら彼女の横に座る。芹菜は依然いぜんとしていたけど、顔には確かなかげりが差していた。

そしてさっきよりもっと沈んだ声色で、彼女は言ってくる。



「授業終わってから、お話しよっか」

「……………」



本当はすぐにでも大声で問い詰めたかったけど、肯くしかなかった。

それからは、文字通り地獄だった。焦りと怒りが心をむしばんでどうも集中ができなかった。走ったわけでもないのに息が詰まって苦しかつた。

時間が経つのがこんなにも遅かったのかと恨み言を言いたくなるくらいに、俺は怒っていた。

そしてついにすべての授業が終わって廊下に人波が出来上がる頃に、俺は横にいる芹菜に視線を向けた。



「……知ってるわよ」

「………」



そのまま俺たちは特に何も話さず近所のカフェに入って、向かい合って座る。

注文したコーヒーをテーブルに置くと同時に、俺は話を切り出した。



「なんで杠に会ったんだ」

「………杠さんが、あなたに言ったの?私が彼女を侮辱したと?」

「先に俺の質問に答えてもらおうか」

「……なんでそんなに怒ってるの?」



芹菜は呆れているよりも、悲しみを滲ませた目で俺を見ていた。



「……芹菜」

「…分かったよ。彼女に会った理由はごく単純に、気になったからなんだ。一目見ただけでも、彼女と連の間に何かがあるということは一目瞭然だったからね」

「……何を言ったんだよ、あいつに」

「何も言ってないよ。あなたが思ってるようなことは何も言ってない。そもそも私が、そんな卑怯な真似をして相手を落とそうとする人間に見える?」

「……………」



その質問にだけは、すぐに答えられなかった。そうするかもと言うには、俺は芹菜の性格をあまりにもよく知っているのだ。

芹菜は回りくどいやり方なんかしない。いつも正面突破で、まぶしいくらいに純粋で一途な性格をしている。賢いけど、時々バカだと思えるくらいに自分の感情に素直なヤツなのだ。

……俺はもう、数日前にも経験したじゃないか。よりを戻したいと、そう真正面から叩き込んできたヤツだから。

そのことを思い出すと、めらめらと燃えていた炎が一気に静まり返る。

唯一の可能性が、ただいま消されたのを感じた。

………じゃ、俺は本当に、ただ杠に…………



「そうね。強いて言うなら、宣戦布告をした。あなたのことを諦めないって」

「……………芹菜」

「じゃ、これからは私の番ね。あなたたち、付き合ってるの?」



釘を刺すような言葉に、俺は少し目を伏せてから否定する。



「……いや」

「……単なる友達、でもないのよね?」

「…………」

「…そうなんだ」



何を察したのか、彼女は一度ため息をついてから言った。



「誓って言うけど、私は杠さんを侮辱ぶじょくしたり、はずかしめたり、罵ったことは一度もないよ。もちろん嫌味の一つも言わなかった。私はただ、連をどれだけ好きなのかを彼女に伝えただけ」

「…………」



それから、芹菜は痛いくらいの直撃を打ってくる。



「私は、あなたのことを諦めないよ。連」

「…………」



その言葉に対して、俺はどんな反応をしたらいいのか分からなかった。

すぐに返事が分かっちゃうほど、俺はできた人間でもないから。








その後、俺は日葵ひまり姉ちゃんと一緒に目当てのカフェに来ていた。



「……やっぱり何かあったじゃん」

「何もなかったってば」



でも姉ちゃんは不機嫌そうに目を細めながらじっと俺を見据えていた。これは確実に俺が悪いのだけれど……でも、仕方がなかった。

どこから間違ったのか。

そんなことをほんの僅かでも思い出そうとしたら、思考が次々と尾を引いて頭の中を壊していく。だから姉といる時だけは、あえて何も考えないようにしていた。

あまり心配を掛けたくはなかったから。でも………

……それらを抑えられるほど、俺はまだ大人ではなかった。



「寂しいな」

「……なにが?」

「昔はウソなんてつかなかったのに。いつも思っていること、感じていることすべてその場で言ってくれたのに。でも最近の連はウソばっかりついてるし」

「…………別に、ウソなんか」

甘党あまとうな連がパンケーキを前にして憂鬱そうにしてるのは初めてだよ。何かあったからそんな顔をしてるんでしょ?でも連は、私に何も教えてくれない」

「………言って、何かが変わるわけでもないだろ?」

「私、あなたの家族だよ?」



そう言った姉ちゃんはもう少し俺の方に身を乗り出して、真剣な口調で伝えてきた。



「言って少しは楽になるかもしれないじゃない。そのための家族なんだから」

「………姉ちゃんに迷惑をかけたくはないよ」

「そんな辛気臭い顔される方が迷惑なの!何で分からないのかな、もう。確かにお互いある程度の秘密は必要かもしれないけど、だからといって一人でグダグダ悩んだりかかえ込んだりしなくてもいいじゃない!」

「…………………」



俺が俯いて沈黙だけを重ねていると、姉ちゃんは両手に顎を乗せてから、にまっと笑って見せた。



「私、聞きたいな。連が抱えている悩み」

「……………………」

「お願い」

「……………はあぁぁ」



……いつも調子狂うな、この姉には……

でも、本当に言って何かが変わるのだろうか。関係はもう終わったのに、今さら後戻りなんてできるのだろうか。

昔の俺なら、たぶん適当に誤魔化して済ませようとするだろう。こんな無意味で心配ばかりかけることを言っても、どうせ取り返しがつかないから。

でも、今の俺は………



「杠がさ」

「うん」

「俺とは……付き合えないってさ」

「………………」



結局、すがりついてしまう。

彼女の存在を、このまま消したくないから。

なんて無様なんだと自分を罵りたくなった。なんでこんなに不器用なんだろう。もし俺が他のヤツらと同じく普通で、もっと杠の心を汲むことができたら、もっと懐が深かったら………

……………杠と付き合えることだって、できたかもしれないのに。

なんで俺は、こんなにも………



「最初はさ、芹菜が杠に何かを吹き込んだんだと思い込んでたんだ。だから芹菜に駆けつけて色々話してたんだけど………あいつは確かに杠に会ってはいたけど、別に何も言ってないんだって。未だに俺のことが好きだから、諦めないと言っただけで」

「……そっか」

「…………俺は、単に杠にフラれただけだったんだよ。でもそれを芹菜のせいにしようとしたんだ。フラれたという簡単な事実が…どうしても、飲み込めなくて」

「…………」

「俺は………」



あいつともっと、一緒にいたかったのに。

あいつが幸せな笑顔を自然に浮かべるようになるまで、見守ってあげたかったのに……



「違うよ」



どす黒い泥沼に飲まれかけていたその時、ふと姉ちゃんの声が頭で響く。



「連はね、女心というのか分からなさすぎ」

「………は?」

「まぁ、第三者からこんな発言をするのはどうかと思うけど………でも、私の直感だけで言うとね」



項垂れていた首を上げると、姉ちゃんの顔が目に入ってくる。

微笑ましい表情だったけど、どこか寂しそうにしている感じがあった。



「きっとね、叶愛ちゃんは連のことが好きすぎたんだよ」

「………………………」



その言葉を聞いて、俺は口をあんぐりと開けてしまう。



「は?」

「本当に分からないの?はぁ………ほら。前に私、叶愛ちゃんと二人きりで話したことあったじゃない?私はその時にもう気付いてたのにな。叶愛ちゃんは既に連にメロメロだよ?」

「………いや、そんなはず」

「だってあの子、両親に言いつけると言われた時、真っ先に自分よりも連のことを心配してたんだもん」

「…………」

「そして私は、叶愛ちゃんの気持ちも少しくらいは理解できるかな」



ひたすら慌てている俺に向かって、姉ちゃんは次々と言葉を紡いでいく。



「叶愛ちゃんから見たら、芹菜ちゃんという壁は高すぎるもんね」

「………それってつまり、杠が芹菜を意識しているとでも?」

「うん。まぁ、私は芹菜ちゃんをよく知らないからあくまで推測のいきなんだけど……ほら、あの子頭も良くてすごく可愛いじゃない。おまけに連の幼馴染で元カノだし、叶愛ちゃんとは真逆ですごく積極的な性格してるし」

「…………」

「自分と彼女の間にはあまりにも差があるから、芹菜ちゃんにゆずろうとした……まぁ、パッと見たらそんな感じかな。叶愛ちゃん、あまり自己肯定感があるようには見えなかったから」



一つの言葉が、頭の中で蘇ってくる。

自分はこの先、あなたの足手まといにしかならないと。あなたはもっと素敵な女性と会うべきだと。

あの時の俺は、芹菜が勝手に何かを吹き込んだのだと信じ込んでいた。

それ以上に俺を信じてくれない杠に腹立って、俺が思っているよりも杠に好いてもらっていないことにショックを受けて、まともに考えが回らなくなっていた。

でも………もし、あの言葉が本気だったとしたら。

本気で俺の未来を心配して、杠がそんなことを口走ったのだとしたら。



「………………」

「これはあくまで私の推測に過ぎないけどね。でも………全くありえない話でもないと思うな」



姉ちゃんの口調が心配で弱くなっているのを感じながら、俺は俯いてぐっと唇を噛んだ。

ふざけんなよ、と大声で叫びたくなってくる。

拳を握った手に力が入って、爪が肌に食い込む。それでも抑えられなかった。

なんで、そんなことお前が気にするんだよ。

俺が……俺が何とかしたら済む話なのに。なんでお前が勝手に決め付けて、勝手に諦めるんだよ……

俺は……お前のことが、ちゃんと……



「……………」

「…………ごめん、姉ちゃん」



結局のところ、問題は何も解決されないまま。

俺はただただ深い息をついて、俯くだけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る