79話  別れ

ゆずりは 叶愛かな



なんで……あんなことを口走ってしまったんだろう。

会いたいって、なんであんなに気楽に言ったんだろう。また本心を漏らしてしまった自分の弱さに反吐が出そうになる。

私は、こんな自分が本当に大嫌いだ。

だから絶対に、あの人には勝てない。



「……………」



私にはできない。あの人以上に灰塚はいづかを幸せにできる自信が、私にはない。

流れていた時間がまたぴったりと止まる。私はまた立ち止まって、後ろにある自分の影に取りつかれる。

それは過去の亡霊だった。何度も何度も両親にののしられながら、ただただ自分のもろさをなげいていた過去だった。

灰塚との関係がそれなりに安定してからは、度々訪れる悪夢も見えなくなっていた。

でも今、目を開いている今、それはまたどす黒いかたまりになって頭の中で蘇ってくる。私を食って、むさぼる。

化け物が言った。お前にはできないと。

灰塚を幸せにすることが、お前にはできないと。



「………うっ」



分かっていた。釣り合っていないということくらいは、誰よりも私自身が分かっていた。

灰塚は誰よりも素敵な男の子。私は過去に取りつかれて彼にしがみつくだけの子供。

私たちの関係は、いつもこうだ。

私はいつも彼に救われるばかりだった。いつも、自分の不幸な過去を巧妙に利用して彼との距離を縮んできた。

彼の隣に立つ資格なんて、端から存在しなかったのかもしれない。

……それでも、夢を見ていたのに。

彼と一緒に笑える夢を、ずっと見ていたというのに。



「………………ううっ」



でも、これなら彼に別れを告げられる。他にいい人が現れたんだから、私は諦めることができる。

彼はもっともっと、幸せになるべき人だから。

目に浮かんだ涙を拭って大きくため息をこぼすと、ちょうど家のチャイムの音が響いてくる。まぎれもない、灰塚だ。

私の好きな人だ。



「………うん」



さっそく立ち上がって、私はドアを開く。するとずいぶんと汗ばんで、もう肩で息をしていると言ってもいいくらいぐったりしている灰塚が目に入ってきた。

想像もつかなかった姿に、私は驚く。

彼は何度も呼吸を整えてから私を見た後、少しだけ眉をひそめてから言った。



「……泣いてたの?」

「えっ?」

「目じり、腫れてるから」

「………」



自分の目じりをそっと撫でてみると、確かなひりつくような感覚が伝わってきた。

……本当、いつまで泣き虫なのかな。私は。



「入って。とりあえず」

「……ああ」



彼を家に上がらせて、私はさっそく冷たい水を用意する。そのままカップを彼に手渡すと、彼は少し私の様子を伺ってから受け取ってくれた。



「ありがとう」

「うん……」



どうして走ってきたのよ。なんでそんなに必死になってるの。

外は暑いんでしょ?私はただ会いたいって、一言口走っただけなんでしょ?

なのになんで………なんであなたは、私のためにここまでしてくれるの?

なんで、私にそこまでとらわれるの?



「何かあったよな。杠」

「…………」

「…言えないことなの?それとも、単に言いたくないこと?」

「ううん……違うの」



……言わなきゃ。今度こそは、ちゃんと言える。

もう言えるのだ。あの人がいるから。

あの人ならきっと、灰塚を幸せにしてくれるはずだから。



「あのね……灰塚」

「うん?」

「……前々から、考えていたんだけどね」



息を大きく吸って。精一杯決意を固めて。

心臓がちぎれそうになっても。体が押しつぶされそうな痛みが走っても。それでも……私は、言う。

日葵ひまりさんが去った後につむぐことができなかったあの時の言葉を、今なら言える。

彼女が……いるから。




「もう………やめようか。私たち」

「…………………」




それを聞いた灰塚はそのまま体を強張らせて、目だけを見開いて私を凝視してきた。

何を言われたのか、分からない顔だった。

しばらく沈黙してからようやく、彼は震える唇を無理やりに動かす。



「…………は?」

「………………」

「…………今、なんて」

「やめるって、言った」

「……なにを?」

「私たちの、関係を」



聞き終えた瞬間、彼は項垂れてから大きく息を吸って、また吐いた。

何度も何度もその仕草を繰り返して、言葉の意味を反芻するかのように何度も呼吸を重ねて。

手に持っていたコップを食卓に置いて、全身を震わせて。

私はその姿を見ていられなくなって、顔を背けてしまう。

膝に力が抜けて、私はそのまま座り込んてしまった。



「…理由を教えてくれないか」



ようやく顔を上げた灰塚の表情には、いつになく憤怒ふんぬが埋め込まれていた。



「……私はきっと、あなたの重荷しかならないの」

「……………は?」

「私は、あなたになにもあげられない。輝く未来も、幸せも、何もあげられない。私はね……灰塚。どうしても、あなたの恋人にはなれないの。なれる自信が………ないの」

「…………」



何を言い出したのか、もう自分すら分からなくなっていた。仕方なかった。

私の頭は、灰塚に別れを告げたその時から、ずっとずっと真っ白になっているから。



「セフレって言うのは、いけない関係なんでしょ?あなたのためにも、そして私のためにも……この関係は、早く終わらせた方がいいと思うの」

「……………」

「この先、あなたはもっともっと高いところに行ける。私なんかには手も及ばないところまで高く飛んで、光を浴びて生きて行けるの。でも、私にはできない。私がこの先もあなたの隣に居続けたらきっと、足手まといにしかならないから。あなたは、もっともっと、素敵な女性と……」

「……芹菜せりなに会ったんだな」



断定的に言い切れる灰塚に驚いて、私はつい顔を上げて彼と目を合わせた。そして酷く、愕然した。

見たことのない顔だった。

こんなに怒りを露にしている顔は、見たこともなかった。



「芹菜がお前に何かを吹き込んだんだな。違うか?」

「………吹き込まれてなんか、ない」

「だったらなんでそんなこと言うんだよ。芹菜がお前をさげすむようなことを言ったから、お前が…!!」

「違う!」



つい高く声を上げてから、私はぶるぶる首を振った。



「違う……違う。違うの。七瀬ななせさんとは……確かに会ったけど。会って、色々話してたけど。でもあの人は私を蔑むようなことなんか、一言も言ってなかった!」

「………なら、なんで」

「私が……私がそう思ったの。私が感じたのよ!!あなたならきっと、七瀬さんの方がもっとお似合いだって……!」

「ふざけんな!!!!!!!!!」



気付いた時にはもう、押し倒されていた。

灰塚の手に両手首をしっかりと固定されたまま、私は襲われていた。大きく見開いた目には、めらめらと燃え上っている灰塚の顔が見えてくる。

息を荒くして、完全に理性を失った顔が。

あんなに優しかった……彼が。



「ふざけんなよ。誰が決めたんだよそんなの!!お前が………お前が決めるなよ!!!俺が一緒にいたい相手は俺が決める。他人の身勝手な視線なんか知ったことか。俺の未来をお前が勝手に決めるんじゃねぇ!!!!!」

「………はい………づか」

「お前は………お前は!!!なんで……!」



そして、今度は悲しみの感情を浮かべて。



「なんで、なんで信じてくれないんだよ。なんで………」

「………………」

「……お前にとって、俺は。所詮その程度の存在だったのかよ」

「……ち、ちがっ」

「俺たちは、簡単に一言でお終いにできるような、そんな……そんな関係だったのかよ」

「……………っ」



失望。悲しみ。憤怒。怒り。呆れ。虚しさ。諦念。

ありとあらゆる感情が混ざり合って漂って、私の息を詰めらせる。どれだけ謝罪しても許されそうになかった。

彼の顔は今すぐにでも崩れそうなほど危うくて、乾いていて。



「本音だったんだ」

「……」

「一緒にいるって言った言葉。あれ、ウソなんかじゃなかった。本音だったんだよ。俺は、ずっとお前と一緒にいたかったんだ」

「………………」

「どうやらお前は、違ってたみたいだけどな」



違う。

私だって一緒にいたかったの。あなたとずっとずっと、未来永劫離れることなくあなたの傍にいたかったの。私の好きは、本物なのに。

腕首を掴んでいる手が震える。どんどん痛みが増して行って骨が折れそうになった。

でも、この痛みの方がよっぽどマシだった。少しでも気が散るから、ずっといい。

悲痛さにまみれた灰塚の顔を直視するよりは、苦しくないから。



「…………はぁ」



何度も喉奥でつかえたはずの息をこぼして、灰塚は私を拘束していた手を解く。

そのまま何も言わず、彼は体を起こして、そのまま出て行ってしまった。

恐ろしいほど、彼は何も言わなかった。

何十分も床で仰向けになっていた私は、まだ力がろくに入らない腕を上げて手首を見る。

彼が刻んだ赤い痕が残っていた。それを胸元に抱き寄せて、全身で包んで。

また、私は泣き始める。



「うううっ………かあっ……かっ……うああああ」



だって、できないんだよ。

私にできるはずがないじゃない。あなたの隣を歩くなんて、そんなの……!

他に、他に選択肢がなかったの。思いつかなかったの。私はそれほど、自分自身を肯定できる人間じゃないもん。

私はまだ、ユリの死体を前にして泣き叫んでいた、15歳のバカな女でしかないから。

犠牲という単語しか、思い浮かばなかったの。

これが、あなたに与えられる私のすべてだった………

あなたの前で消えることしか、思えなくて………



「ああああ………うううっ………うぅっ……ああああ……!!!」



…………なんで。

わたし、こんなの………なんで………

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