78話 違和感
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「おはよう!連」
「おはよう……」
呆然と挨拶をした後、俺は芹菜が隣で腰かけるまでずっと彼女の横顔を眺め続けた。
「体はもう大丈夫?」
「な~に?心配してくれたの?」
「そりゃ、するだろ普通は。昨日ずっと体調悪そうに見えてたから」
「ふふん……そうなんだ。連は私のことが心配なんだ」
「……なんだよ」
突然にして芹菜が顔を突き出してきて、思わずたじろいでしまう。周りの人もいるのにそんなことには気にもせず、芹菜はずっと俺に視線を注いだ。
いたたまれなくなって、俺はぷいっと視線をそらす。それと同時に、前のお出かけの時に芹菜が言った言葉が頭の中で
よりを戻したいと、芹菜は言っていた。
あれはたぶん……まぎれもない本音なのだろう。
「お前……人が見てるだろ」
「ふふっ、うん。今日はここまでにしておくね」
芹菜がようやく体を引いてくれたおかげで、俺は安堵の息をついて再び姿勢を戻した。ちょうど先生が講義室の中に入ろうとしているところだった。
「…………ふうぅ」
唇を湿らせて、俺は芹菜には気付かないよう小さなため息をこぼす。どうすればいいのかが分からなかった。
先週の週末は芹菜と
「…………」
セックスのためじゃなくても、ただ会って顔を見て話をしたい。
そういう気持ちが沸き起こってる最中にまた芹菜の言葉が混ざってきて、頭がごちゃごちゃになる。
………昔はこんなに悩んだこと、なかったのにな。
「思春期か……」
小さく言って、俺は手に取ったシャーペンを走らせた。
授業を終えて家に帰ってくると、リビングで呑気にお菓子を食べている姉の姿が目に入ってくる。
日葵姉ちゃんは、ソファにもたれかかったままドラマを視聴していた。
昔よりは余裕ができたんだなと苦笑しながら、挨拶をする。
「ただいま」
「あ、おかえり~どう?楽しかった?」
「遊びに行ったわけじゃないからな。母さんは?」
「お買い物。そうだ、明日もお出かけしない?新しいラーメン屋オープンしたんだって!」
「昨日だって散々カフェ巡ってたんだろ?ちょっとは休ませてよ」
「……むっ。それはGWの時の埋め合わせでしょ?今度は夏休みの分なの」
「俺は姉ちゃんの執事か」
「いいね。一生こき使ってあげるから」
「……………」
俺が目を細めると、姉ちゃんは大きな笑い声を上げて自分の隣の席をトントンと叩いてくる。舌鼓を打っても、姉ちゃんの緩んだ表情は全く変わらなかった。
いつもなら手を洗って大人しく姉ちゃんの隣に座るんだけど、今日は別の用事があるから。俺は立ったまま口を開いた。
「今日はパス。この後用事あるから」
「ええ?!なんの用事?!」
「それを姉ちゃんにいちいち説明する義務はないだろ?」
「………お姉ちゃん拗ねた」
ポンポン、とまたソファを叩いて姉ちゃんが言う。
ある意味では、もっとも恐ろしい脅迫だった。
「……いや、座らないから」
「お姉ちゃん拗ねた!」
「…………座らないから」
そのまま部屋へ行こうとした瞬間、後ろから声が響いてくる。
「ふん、どうせ叶愛ちゃんなんでしょ?いいね~~モテる男は大変ですね~~ふんだ!」
「…あんた小学生か」
「ふん。ちなみに本当に拗ねたんだからね?早く機嫌を取ってくれないと、もっと拗ねちゃうかもよ?」
「………はぁぁ………明日には時間、空いてるかも?」
「うん。じゃしょうがないね。明日一緒に行こうね~母さんに明日の夕飯は要らないと言っておくから」
「あ………もう」
半分呆れたまま項垂れると、姉ちゃんはまた愉快に笑ってから立ち上がる。そのまま俺に寄って、ポテトチップスを一個取り上げて俺の口元に差し出してきた。
意図を察した俺は大人しくそれを口でくわえる。飼いならされている気分だったけど、そこまで悪い気はしないのが悔しかった。
とにかくそうしていると、姉ちゃんは心底嬉しそうな顔でニコッと笑って見せた。
「いってらっしゃい」
「………あ、もう」
その顔を前にしたらもうどうでもよくなって、俺は苦笑してからため息交じりに言った。
「行ってきます」
「うん!」
……姉ちゃんには一生勝てないかもな。まぁ、いいっか。
そのまま荷物を置いて手洗いだけをして、俺は家から出てポケットからスマホを取り出した。そしてさっそく、ある人に電話をかける。
相手は、思ってた以上に早く電話に出てくれた。
『……もしもし』
「杠。その……今からおうち行ってもいいか?」
『えっ、今?』
「うん、今」
『…………灰塚』
「………?」
歩みを止めて、俺はもっと顔をスマホにくっつけて音を拾おうとする。比較的に静かな街の中、俺は杠の声だけに集中していた。
彼女は何かを言おうと息を吸って、また吐いて。何度もその行動を繰り返しながら、必死に何かを紡ごうとしていた。
段々と、心の底から違和感が膨らみ始める。
「……杠?」
『…………』
どうしたのだろう。思わぬ反応に俺は戸惑う。
いつもならしれっとした口調でいいよとか言ってくるヤツが、どうして今日に限ってこうも思い悩んでいるのか。
杠を紛らわすものの正体を、俺は知らない。だから声により力がこもっていった。
「どうしたんだよ」
『……………』
「……もしかして今日は、行かない方がいいとか?」
『違う!ち……違う……けれど』
「…本当にどうしたんだよ。杠」
こんな反応は初めてだから、少しずつ焦りが積もっていくのを感じた。とにかく杠が俺に何かを隠しているということだけは、しっかりと伝わってくる。
……まぁ、即答でイヤとは言ってなかったし。とにかく行って話を聞いてみるか。
「俺、行くからな?」
『…………灰塚』
「うん」
『………ごめん』
「………………」
何に対して、謝っているのだろう。
顔を合わせていない一週間の間、彼女に何が起きたのだろう。不安が益々加速して、気付けば俺は速足で歩いていた。
大きなしこりが腹の中に残って、吐き出そうとしても喉につかえているような感覚だった。
「それは、嫌っていうこと?」
『……違う。違うの』
それから大きく息を吸って、彼女は切なげな声色で言う。
『会いたいよ。灰塚に、会いたい……』
「……今すぐ行くから」
『………うん』
「……待ってろよ」
通話を切った瞬間、頭より先に体が動き出した。
駆け足で走りながら、俺は予備校で杠と鉢合わせた時のことを思い返す。
もし、彼女がなんか誤解をしているというのならば。
ならその誤解を解いてあげたかった。もう知っているのだ。
俺の心は杠で埋まって、たぶん芹菜が入り込む空間はどこにもなくて。
愛という感情を、杠にしか感じられないということを、もう知ってるから。
俺は唇をグッと噛みながら、夏の空気を切り裂けてただただ走って行った。
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