76話  唯一の後悔

灰塚はいづか れん



「暑いな……」



恨めしいほど晴れた空を見上げながら、ぼそっとそんなことを呟く。

芹菜せりなとの待ち合わせ場所である映画館の前で、俺はひとりぼうっと立ちすくんでいた。少し歩いただけでも汗をかくほど蒸し暑い夏だった。

とうとう耐え切れずに映画館の中に入って、俺は芹菜にメールを送ることにした。



「………大丈夫かな」



芹菜にメールした後、俺は無性にもう一つのチャットルームの会話履歴を見始める。ゆずりはとのチャットルームだった。

あの電話以来、杠はなんの連絡をよこさずただ沈黙していた。

連絡自体は普段からあまり取り合っていないから大丈夫だとは思うものの、何とも言えないしこりが残って頭をまぎらわせる。



『わたし、あなたに何もあげられないもん』



……何も、あげられないなんて。

目には見えないけど、言葉でも表せないけど、もう既にたくさん貰ったとのにな………



「…………」



……いいっか。こんなことは、顔を合わせて伝えた方がいいだろうし。

そんなことを思っていた瞬間、待っていたかのように手の中でスマホが震え出す。驚いて確認してみるとメッセージの相手は杠じゃなく、ほかならぬ芹菜だった。



『着いたよ~中にいるのよね?』

「……はっ」



思わず苦笑を漏らして、俺は『うん』と短く答えてからため息を吐く。

……いかん、今日は芹菜と約束した日だ。他の人のことを考えていると、芹菜にも失礼だろうな。

気を取り直して入口の方に目をやると、ちょうど張本人が建物の中に入ってくるのが見えた。

白いワンピースと共に黒いサンダルを履いた、ごく普通に見える服装だったけど……俺はつい、ぼんやりと芹菜を眺めてしまった。

中学の頃の芹菜は、いつもお洒落なものばっかり着ていたのに。

なのに今は趣向が変わったのか、その長い髪も含めて芹菜は全体的に大人気な雰囲気を漂わせていた。

やっぱり芹菜も変わったなと心の中で感心しながら、俺は彼女の方へ足を向けた。



「おはよう、芹菜」

「おはよう、連!どう?似合うかな?今日の服装」

「少しだけびっくりしたぞ。あの頃はワンピースとか嫌いだって言ってたのに」

「そうだよね。昔はとにかく可愛いものばかり探してたから。でもまぁ……高校生にもなったし、悪くないかなって」

「へぇ……似合ってるよ。よかったじゃん」

「本当にさらっとそんなこと言うな~この幼馴染は」



まぁ、そもそも元がいいから何を着てもお似合いなんだろうけど。

気持ちよさそうにニコッと笑う芹菜に対して、俺も同じく笑顔を返す。こんな生き生きとしたところは昔のままだった。



「じゃ、行こう行こう!何から見るの?アニメ?それとも恋愛モノ?アクション?コメディー?」

「アクションでいいよ。お前の映画趣味が変わっていないとしたら」

「えっ………」

「アクション好きなんだろ?映画館に来る時はいつもそればっかり見てたし」

「…………」



何故だか呆けた顔で、芹菜はその場で停止していた。

怪訝けげんに思った俺が首を傾げると、芹菜は急に我に返ったようにハッと息をして、それからまた笑い出す。



「覚えててくれたんだ。私の好み」

「そりゃ、いつも付き合わされたから……そんなに驚くことなの?」

「驚くよ~~!もう全部忘れられたと思ってたから」

「俺、そこまで薄情なヤツ……ではあるな。まぁ……」



そもそも芹菜と別れた原因自体が俺にあるのだ。俺の愛情表現が足りなかったから。

もし俺が精一杯芹菜を支えようとしたら、少しは結果が変わったのだろうか。

……それは分からない。

そしてこの先、分かる機会もないのだろう。

俺たちは、友達だから。



「ふふん~そうですな。でもまぁ、私にも非があったんだし。この話はここまでにしよっか」

「そうだな…過去のことを蒸し返すのも無駄だから」

「うん。これからきずいて行けばいいもんね。あ、映画もうすぐ始まっちゃう!ほら、チケット買いに行こ?」

「えっ………」



言葉の意味をさとすよりも前に、俺は芹菜に手首を引っ張られていた。

活気にあふれている芹菜の後姿だけは、あの頃と全然変わっていなかった。



「これから築けばいいって、お前」

「うん?だってデートでしょ?これが仲直りの第一歩なんじゃない?」

「…………そっか」



曖昧な答えを投げて笑って見せたけど、心の中ではそのデートという言葉が引っかかっていた。

……やっぱり、芹菜の中でこれはデートなのか。俺としてはお出かけのつもりだったのに………

ずっと握られている手首を見下ろして、俺は唇を湿らせた。







映画を見終わった後、俺たちは昼食を済ませてからカフェに向かった。俺の常連のカフェで、芹菜と最初のデートできたところでもある。

今思い返すと苦笑が出てしまう。中学生二人がこんなカフェに来て口にも合わないコーヒーを頼んでいたなんて、オーナーはどんな気持ちで俺たちを見ていたんだろう。

でも今は違う。

今は進んでコーヒーを頼めるほどには、2人とも成長した。



「ああ~楽しかった。久しぶりに心がいやされるよ、本当」

「お前でもそんなこと言うんだな。癒しなんか全く必要ないように見えるけど」

「あ、それ偏見だからね?毎日勉強漬けで大変なんだから。私にだって癒しは必要なの」

「分からなくもないな………それ」



芹菜が過激なアクションものを見たがる気持ちも少しは分かる。俺だって一人でいる時にはうるさい音楽ばっかり聞いてるのだ。ストレス解消のためには、仕方ないのかもしれない。



「やっぱ楽しいな、連と一緒にいるの」

「ほぼ2年間、自分からは連絡なかったくせにな」

「それは……もう、今それを言う?言っちゃう?あのね、私も女の子だよ?デリカシーとかないの?自分が振った相手に連絡するなんて、普通ならもっと足をすくむようなものだからね?」

「ごめん、ごめん。別に真剣に言ったわけじゃないから、気にしなくてもいいよ」

「ふうん……じゃ、2年間の空白を埋めるための約束をしましょうか」

「は?」



突然言われた言葉に呆けていると、芹菜は身を乗り出してきた。



「あのね、来週の土曜日、連の誕生日なんでしょ?」

「……覚えているんだ」

「当たり前だよ。忘れるはずないじゃない。そして、その日は夏祭り当日でもあるじゃん?」

「そうだけど……って、まさか」



一瞬にして不安が沸き起こって、胸が拍動はくどうを増して行く。

夏祭りの日は、既に杠と一緒に回るって決めているのだ。もし芹菜に誘われたりしたら厄介なことになりかねない。

にもかかわらず、芹菜は薄笑みを浮かべて言ってきた。



「うん、当たり。一緒に回ろうよ。夏祭り」

「…………」

「誕生日プレゼントは私です~って言いたいわけじゃないけど。まぁ、他に約束とかなかったらね」

「………ごめんな」



声色が低くなったのを自覚しながらも、俺は言い続ける。



「その日は……えっと、家族との先約があるから」

「…………そっか」

「……そう」



芹菜は一瞬眉を下げたけど、すぐにニコッとほほ笑みながら椅子にもたれかかった。

そして数秒間俺の目を直視してから、ようやく言葉を発した。



「あの人との約束じゃなくて?」

「………は?」

「ほら、予備校にいるじゃない。あのアッシュグレーの髪をしている、すっごい美人さん。もう噂になっているあの人」

「…………」



どう答えるべきか、俺は迷った。

ここで適当に誤魔化したら芹菜は納得はしてくれるのだろう。でも久しぶりに会った幼馴染に、自分に好意を寄せている子にウソを付くのは正直に言って良心が痛む。

それに杠のことを口に出すということは、間接的に芹菜の好意を拒絶することになるのだ。

久しぶりのお出かけでそんな言葉を口にするのは、あまりにも申し訳ない気がして。

なのに、芹菜は俺のことを全部見抜いたかのように、大きなため息と共に口を開いた。



「……本当だったんだ。カマかけただけなのに」

「…………いや」

「まぁ、いいよ。なんか尋常じゃないのは薄々気付いてたから。たった一回で見せつけられたんだもん。あの時に見せてくれた連の顔、けっこう印象的だったから」



……芹菜が言うあの時って。

たぶん予備校の中で、杠と初めて鉢合わせた時……



「………そんな顔してたっけ」

「自分だけ知らないなんて、あはは」



辛いはずなのに笑い出す芹菜に、俺はどんな言葉を伝えたらいいのか分からなくなった。

ただただ自分自身が恨めしかった。もっと器用であれば、もっと人当たりがよければ丸く収まったのかもしれないのに。

でも、芹菜は俺を非難することなく、ひたすら笑顔でいた。



「連はね、人間になったよね」

「は?」

「ロボットから人間になった。だいぶ変わったってこと」



俺が口をあんぐり開けているのにも係わらず、芹菜は言葉を付け加える。



「昔の連は……なんというか。人形みたいな感じだったんだよね。いつも家の方針に従って、ひたすら勉強して、それでいてすごく平坦な視線で物事を見ていて。まぁ、そこに惹かれて好きになったんだけど。でも昔はなんて言うか……こんな風に、優しさが直に感じられることはかったの」

「……………」

「でも今は違うの。連は前よりずっと優しくて明るくなった。それに、一人でいる時にたまにすごくニヤニヤしてるし。それで思いついたわけ」

「…………」

「ああ、これは何者かに変えられたんだなって」



かけられた言葉に、俺はひたすら驚くことしかできなかった。

自分では全く感じていないことだったのだ。優しくなったとか、明るくなったとか……自分を説明している言葉のはずなのに、どれもすんなりと納得ができない。

それに、何者かに変えられたと言った芹菜の言葉が、強く心を打ってきた。

……その何者かが誰なのかは、考えるまでもないのだろう。



「その人でしょ?あの綺麗な子」

「……………そうだよ」

「やっぱりか~付き合ってるわけ?」

「いや、付き合ってはいない。ただ……ちょっと複雑な関係だから」

「へぇ、まぁいいよ。どの道、大切な存在だと言うことはちゃんと伝わったから」



返す言葉もなかった。杠は大切だから。

たぶん、他の誰よりも。



「でも、私も同じだよ?」

「………は?」



いきなり変わった口調に目を見開いて顔を上げると、芹菜はさっきとは少し違う形の笑みを浮かべていた。

好戦的で自信満々な笑顔。俺が知っている七瀬芹菜という人間に一番よく似合う、そんな顔。



「私も、連が大切なの。2年間ほとんど連に連絡はしなかったけど……連のことをずっとずっと思っていた。一日も欠かずに、ずっと」

「…………芹菜」

「私はね、後悔することが大嫌いなの。だからいつも最善を尽くしてきた。私が目指す、完璧な人間になるために。だから………もう二度と、後悔はしたくないんだよね」

「…………」

「知ってる?私はね、人生でたった一度だけ、後悔したことがあるの」



俺は、幼い頃からずっと芹菜を見てきた。

豪傑ごうけつで愉快で、活気に満ち溢れているこの幼馴染をずっと傍で見守ってきた。

俺は知っている。芹菜は失敗したことがない。

いつも正しくて、頑張り屋で、周囲の人を思いやるほどの懐の深さも備えている。七瀬芹菜はそんな人間だ。

そんな芹菜がおかした、唯一の失敗。



「私の後悔はね、連なんだよ?」



俺の存在。



「あなたと別れたことだけが、私の唯一の後悔なんだ。私が……あなたをどれほど頼っていたのか、あなたにしかないその特別さがどれほど私に必要なのか、離れてから気付いたんだよね」

「…………」

「………昔の私は、連が私に全く関心がないと思っていたの。自分から何かしてくることもなかったし、何を考えているのかも分からなかったし、いつも傍にいるだけだったから。私はもどかしくて、怖かったの」

「……あの頃は、悪かったな」

「ううん、違うの。私にはそれがもっとも必要だったんだ。連はいつも私の愚痴を聞いてくれたし、一緒にいたいと言った時には駆け寄ってくれてたし、私の機嫌が悪かったらいつも自分から先に謝ろうとしてたから。あの頃の私は……目に見える形で、愛情を感じたかったけど」

「………芹菜」

「だからね、連が必要なの。連がいてくれれば、きっと私はどこまでも挫けずに進んでいける。辛くなった時も、ストレスが溜まった時も……連に合って、話をして、共に時間を過ごせば、必ず楽になれるって……私は信じてる」

「……買い被りすぎだよ」

「違う、あなたには何かを変えられる力がある。とっても静かだけど、とっても強い力が」



そして芹菜はもう一度深呼吸をしてから、言い放つ。



「もう、連も気付いているよね?私が何故ここに来たか。どうして私が、電車で40分以上もかかるこの予備校に通い始めたのか」



芹菜は、すべてを燃え尽くすような熱い眼差しで。



「私はね、連。あなたとよりを戻しに来たの」



俺に、そう伝えてきた。



「他に好きな人がいたって、私は構わない」



びっくりするくらいの熱を、言葉に宿しながら。

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