74話 何もあげられない
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夏期講習が始まってから3日。
その間、私は特に
毎晩メールでやり取りはしているものの、私は未だにも灰塚に同じ予備校に通っていることを伝えていない。ただ、遠くから彼の姿を眺める日々の連続だった。
バレると恥ずかしいからという理由もあり、密かに頑張りたいという気持ちもあったからだった。
「………」
本当に……笑える話。
わざわざ同じ予備校に登録したというのに、会いに行かないなんて。自分でも矛盾していると思いながらも、私は昼夜を問わずに勉学に励んだ。堂々と彼の隣に立つために。
そして私が初めてその噂を耳にしたのは、ちょうど講習が始まって4日が経つ頃だった。
「なぁ、可愛くね?めっちゃ綺麗じゃん、あの子」
「は?誰のことだよ」
「ほら、赤髪のロングで、いつもニコニコしていた子」
「ああ、なんだ。お前彼氏持ちに手出すんじゃねぇぞ」
「えっ?!ウソ、あの子彼氏いたのか?」
「知らんのか?灰塚だよ、あの灰塚。ウチの中学でずっと一位だったあの化け物」
「は……?あいつ、ここに通ってんの?」
「お前は本当女しか見てねぇな………」
後ろから漏れてくるその会話を聞いた瞬間、一気に全身の血が凍り付くような感じがした。
心臓が急激に鳴り始め、息が詰まった挙句に呼吸することもままならなくなって。まるで世界で一人取り残されたように、周りの声が全然聞こえてこなくなる。
……………中学でずっと一位だった、灰塚。
私が知る灰塚は一人しかいない。いつも私を包んで、私を救ってくれる灰塚は、一人しかいない。
なのに、その灰塚に……彼女?
私じゃ………なくて?
「……………」
私の時間だけが停止されたみたいに、周りの人間は時間の流れに追いついていく。気が付けば予冷が鳴って、授業が始まっていた。
当然、それからはまともに授業を受けることもできず、私は頭を打たれたように呆然とすることしかできなかった。
これが午後の最後の授業で良かったと思った。もし朝っぱらからこんな話を聞いたら、私の精神が持たないから。
「…………うっ」
どんな思いをして、どんな授業を受けたのかも全く憶えられず、私を置いて時間だけが流れて行く。
ほぼクラスの全員が立ち上がろうとした時に、ようやく意識が戻ってきた。
私は、あたふたカバンを取ってクラスから抜け出した。ドアを潜ってからすぐ、私は右の方へ視線を向ける。
すると、いつものように灰塚の顔が視界に入ってきた。でも………
「あ…………」
彼は、笑っていた。
とても自然な笑顔で、隣にいる女の子と笑い合っていた。その女の子を見た覚えが、私にはある。
あの時、ここを見学していた時に鉢合わせた子だ。
目に映っている通り綺麗で堂々としていて、自然と目を引いてしまうほどの圧倒的な存在感を持っている人。
灰塚の元カノ。
ぼうっと立ち竦んでいると、周りから怪しむような視線が飛んでくるのに気付く。でも気にしなかった。
見えるのはただ、二人だけだった。
肩を並べて、悔しいほど絵になっている二人の姿だけ。
「……………」
「だから、そうじゃないっ…………えっ」
「うん?」
次の瞬間、灰塚と目が合って、彼の表情が困惑に染まり始める頃に。
ようやく我に返って、私は急いで入口の方へ駆け出した。
「ゆずり………!!」
後ろからそんな声が聞こえた気がするけど、足は止まってくれなかった。
家に到着した時には、もう全身が汗だくだった。こんな真夏にずっと走ってたんだから、仕方ないのかもしれない。
体の不愉快さが頭の中まで染みつくように、どんどん嫌な感情が浮かび上がってくる。これらに対処できるほど、私は大人ではなかった。
カバンを玄関にほったらかしにして、私はさっそくバスルームへ向かう。できるだけ水の温度を低くして、頭から徐々に体を濡らしていく。
「はぁ………はぁぁ………」
私だけだと思っていたのに。
そんな笑顔を作れるのも、隣で並んで歩くのも、視線を
ずっとずっと、私だけに許されていると思ってたのに。
もうグラグラしそうなほど頭が冷えていくのに、
油断すると流しちゃうほど
そしてラフな格好で着替えてから外に出ると、ちょうどソファーに投げておいたスマホの振動音が響いてきた。
「…………」
差出人は、やっぱり灰塚だった。
まだ化粧水も塗ってないというのに、私は待ちきれずに電話を取ってしまう。
「………もしもし」
『もしもし。俺だけど』
「………うん」
『………真っ先に言っておくけど』
用件も教えずに、灰塚は深呼吸をしてから話を切り出した。
『お前が思っているような、そんな関係じゃないから』
「……………元カノさん、でしょ?」
この質問だけは予想できなかったか、灰塚は息を呑んで沈黙を保っていたけど、間もなくして話してくれた。
『………そうだよ。前に話した、
「…………」
『でも今はただの友達だからな。俺はこれからもそのつもりでいるから、安心していいって……言いたかったんだ』
「……………………」
『俺は、芹菜とは付き合わないよ』
「……………そう」
なんで。
私は立ったまま、その場に崩れ落ちる。
こんなのずるい。全部見透かされて、どこまでも私の気持ちを
嫌になるほど、灰塚は私が聞きたい言葉だけを言ってくれて。
『ちゃんと、分かってくれたか?』
「……たぶん」
『……たぶんだな』
「………仕方ないじゃん」
自分自身がズレていることくらいは、ちゃんと分かっているつもりだった。
たぶん他の女の子なら、こうして大げさに捉えたりしないのだろう。
ただ肩を並んで歩くだけで浮気、みたいな邪険なことを考えるなんて。そもそも私たちはまだ恋人でもないから、浮気という単語にもいささか
でも、あの時の私は、確かに浮気されたと思っていた。
その感覚を味わった以上、大抵の言葉ではどうも安心することができない。自分でも、めんどくさいとは思っているけど。
『……今からそっちに行ったら、信じてもらえるのか?』
「えっ……でも、もうすぐ夕方……」
『俺の事情なんて気にしなくていいから。杠が俺に会いたいと言うのなら、俺は行くよ』
「……………」
『……なんで、何も言わないんだよ』
泣いてるから。
日差しを浴びて氷が溶けるみたいに、目から水玉が落ちているから。泣いてることを気付かれたくないから、必死に堪えているのに。
なんで……なんであなたはそんなに優しいの。
どうすれば私は、あなたと隣にずっといられるの?
「……灰塚」
『うん』
「あなたは……私を甘やかしすぎ」
『…………』
「……………なんで、そんなにバカなのよ。バカぁ………」
私が泣いているのを察したのか、灰塚はしばらく何も言ってこなかった。ただただ私の泣き声を聞いて、泣き止むまで待っててくれて。
そして私がようやく我に返ったところで、彼は断定的な声で言った。
『今からそっちに行く』
「……ううん、いいよ。来なくてもいいよ。私、耐えられるから」
『ウソつくなよ……週末にも会えないから、今でも……』
「……えっ、会えないって。なんで?」
『……土曜日に、芹菜との約束があるんだよ。言っておくけど、そういうことじゃないから。あくまで溜まっていた話をするだけだから。そして日曜は、日葵姉ちゃんにGWの時の埋め合わせをしなきゃいけないし』
………本当に、この男は。
「……それを今言っちゃうんだ。この鈍感男」
『…………変にごまかすより、ちゃんと話した方がいいかと思って』
あんなに優しいのに、こんなにも不器用だなんて。
不安が込み上がってくるのに、そのギャップに愛おしさを感じてしまって、もうなにがなんだか分からないほどぐちゃぐちゃになっていた。
複雑で、定義づけることができなくて、手に負えないほどの大きな塊。
でも、私は笑っていた。苦笑ではあっても、とにかく笑っていた。
それでいいんじゃないかと、思った。
「ううん、いいよ。会いたいけど………会いたいけど、会わない。あなたにとやかく言う権利なんて、ないからね」
『………杠』
「わたし、あなたに何もあげられないもん」
『なに言って………』
ソファの布ににおでこをつけてから、私は思う。
「だから、いいよ。灰塚は、私のことを気にしなくても、いい」
私は何もあげられないから。彼に与えられる事って、何もないから。はなから私たちの関係って、私が一方的に彼に救われる方だったのだ。
だからいい。これでいいと思った。二人が歩いている所を思い返すと、ますますそう思ってきた。
彼が時々私を振り向いてくれるのなら、構わないと。
本気で、私はそう思っていた。
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