73話 悩み
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「ただいま」
「あら、おかえり。遅かったわね?」
「まぁね……たまたま中学の友達に会って。あ、そうだ。夕飯は食べてきたから要らないよ」
「それは先に言いなさいよ~もう」
「ごめん、今度からはちゃんと連絡するから」
母さんの愚痴を聞きながら、俺は洗面台に向かって手を洗い始める。ぼうっと、鏡に映っている自分の姿を見て少し唇を湿らせた。
そして帰り際に、俺たちは土曜日にお出かけする約束をしていた。
……たぶん、芹菜は夏期講習が終わるまでずっと俺と一緒にいるつもりなのだろう。
歯を磨きながらぼんやりとそんなことを考える。芹菜が言い出したその言葉が、頭の中を駆け巡る。
『私と一緒に医者になろうよ、連』
あの言葉の中には、どんな意味が込められていたのだろう。
芹菜はいつも勢い任せにことを進めるように見えるけど、裏ではちゃんと計算をし尽くすタイプだ。そんな彼女が、あえて家から遠い予備校を選んでまで見出そうとした価値。
……自意識過剰かもしれないけど、たぶん俺と会うためなのだろう。
それがよりを戻すためか、それとも単に古い幼馴染に会いたかったからかは、分からないけど。
「…………
部屋に上がってから、彼女の名前を一人ごちる。
たぶん、俺の心の中はもう杠で埋まっている。果たしてそこに芹菜が入る余地はあるのか、自分でさえも答えられなかった。
心配性の杠のことなら、俺が芹菜と一緒にいるって聞いたら嫌がるかもしれないけど。
「………そうだ」
………そういえば、今週の土曜日は芹菜との約束で会えなかったっけ。日曜に行くってちゃんと連絡を入れておこう。
そう思ってスマホを取ろうとした瞬間、まるで待っていたかのようにスマホの振動音が鳴る。
でも差出人が、予想していたのとは違っていた。
意外とも言える名前を見て少し目を丸くした後、俺は電話を取った。
「もしもし、どうしたの?」
『………ムッ』
「……なんでまた怒ってんだよ」
『つ~め~た~い。せっかく久々に電話したのに、なんでこんなにつっけんどんなのかな』
「はい、はい。ごめんなさい。ちゃんと反省してる」
『女に慣れたからって、お姉ちゃんにまでウソをつく気?』
「………
困っている口調で言うと、
電話の向こうでも、姉ちゃんのニヤニヤしている顔が目に見えた。
『私、今週の土曜日から2週間ほど家にいる予定だから。お母さんにもそう伝えてね?』
「だから、そんなことは直接お母さんに言えばいいじゃん」
『やだ~いつもメールばっかで自分からは一度も電話してこないくせに。これは連が悪いんだからね?』
「……弟離れのご予定は?」
『前に言ってた気がするけど、後50年はムリ』
「それは嫌だな………」
50年か………つまり俺が60代になればようやく解放されるってわけか。あまり想像したくないな……
でも相変わらずの茶目っ気たっぷりの声を聞いてると、自然と口角が上がっていく。椅子の背もたれにもたれかかってから、俺は目をつぶってから言った。
「姉ちゃんは元気?」
『お母さんみたいなこと言わないの。そうだ、今週の日曜にどこか遊びに行こうよ!私スイーツ巡りしたい!」
「えっ…………」
『うん?どうしたの?』
「いや………その」
日曜日、という単語を聞いてちょっとだけ変な声が出てしまった。
だって日曜日まで予定が埋まってしまうと、今週は杠と会える時間がなくなってしまうのだ。
平日は夏期講習で一緒にいられる時間が限られてるし、時間が空いている土曜日は既に予約済みだから。
『………もしかして行かないとは言わないよね?ふふふふっ』
「こわっ……」
……でもまぁ、姉ちゃんには借りもあるんだし、杠も理解してくれるだろう。
「分かった。行こうよ、スイーツ巡り。付き合うから」
GWの間、俺を色々と助けてくれた姉ちゃんを
それに、杠はいつだって会えるから。
財布の中にある
「そうだ、俺予備校通ってるって言ったよね?」
『うんうん、成績落ちたもんね~』
「……期末ではちゃんと取り戻したからな。まぁ、とにかく今日が予備校の初日だったけどさ……たまたま、芹菜に会ったんだ」
『えっ!?芹菜って……あの芹菜ちゃん?
「そう、あの芹菜。で、今日色々と話してみたんだけど……」
さっきからぐるぐる回っていた言葉を頭の中で拾って、口に出す。
「あいつ、医者になりたいって言ってきてさ。それですごく驚いた」
『へぇ……あの子も結局は医者なんだ。中学の頃はよく反抗していた気が……あ、ごめん。これは
「ううん、いいよ別に。芹菜に悪い感情があるわけでもないし、もうだいぶ昔のことだから」
姉ちゃんはたぶん、フラれてたことを思い出したのだろう。
急に悪びれた姉の声に苦笑しながらも、俺はしみじみと言い続けた。
「それで、一緒に医者にならないかって言われてさ。まともに答えられなかったんだよ、俺」
『……そっか。確かに意外だね、芹菜ちゃん。昔はあんなに嫌がってたのに』
「そうだな。家族ぐるみで外食した時も、あからさまにおじさんに反抗していたし」
俺たち灰塚家と七瀬家は、親同士が知り合いということで昔からよく家族ぐるみで親しい関係を維持していた。
俺たちが別れてからは、少し疎遠になってしまったけど……それでも子供の頃の思い出は、まだちゃんと記憶の端っこに残っている。
「で、すごく不思議だったんだよ。まさかあいつがそんなことを言い出すとは思わなかったから……なんていうか、置いて行かれた気がして」
『……うん?置いて行かれるって』
「みんな、ちゃんと進路決めて前に進んでるから。ちょっと複雑だった」
そんな愚痴をこぼすと、電話の向こうからけっこう驚いたような声音で姉ちゃんが言ってきた。
『ウソ………連もそんなこと思うんだ』
「おい」
『ふふふっ、ごめんごめん。今のは冗談。それで、連はどう?医者になりたいって気持ち、ある?』
「……分からない。なったとしてもお父さんの病院は継がないかな」
『反抗期だもんね~ウチの弟』
「………姉ちゃん」
『ふふふっ、でも本当不思議よね。まるで、芹菜ちゃんが抱いていた反抗心が連に伝染したみたい。思春期来るのが遅すぎ」
「………………そうかな」
言われてみれば、確かにそうかもしれない。付き合っていた中2の頃、芹菜は色んな事にものすごいストレスを感じていた。
気性が明るいやつとはいえ、ストレスを全く受けない訳じゃないから。
そのストレスはたぶん家に対しての不満と自分の進路、そして俺との関係に対する心配とかが色々混ざっていたのだろう。
そしてそれは今、正に俺が抱いている悩みと同じだった。
「……………」
でも芹菜は、そんな悩みを乗り越えて医者になることを決めた。
ちゃんと成長して、一度壊れてしまった俺との関係を
今抱いているこの
杠との関係を、俺は手放すのか?
「………いや」
それは、俺が手放せられるものじゃないと信じたい。
今俺が感じているこの大切さは、所詮は思春期の多感による幻なのか。
………いや、違う。これはちゃんと本物だ。
『連?』
「あ………うん」
俺たちは、どんな風に変わって行くのだろう。
そのことを思うと、少しだけ心の中がずっしりと重くなったような気がした。
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