71話  鉢合わせ

<杠 叶愛>



「確か、ここであってるんだよね……」



スマホの画面と目の前の建物を交互に見ながら、ぼそっと呟く。

私は今、一生縁がないと思っていた予備校の建物の前に立っていた。

そう、これから灰塚が通うと言っていた予備校だった。まだ夏期講習が始まる前だからか、学生の姿はほとんど見えなかった。

唾を飲み込んで、私は中に入る。

一人でこんなところに来るのは初めてだなと緊張を覚えながらも、私は受付のお姉さんに近づいた。



「あ、あの……」

「あ、はい!ようこそ。夏期講習の申し込みに来たんですか?」

「えっ?あ……そ、そうです」

「はい、ではこちらへどうぞ」



あまりにもテキパキと進められて、ついぼうっとしてしまう。

とにかく、私は面談室という空間に案内されて、受付のお姉さんと向かい合って座った。

その人はさっそく、ある書類を取り出した後ににまっと笑って見せた。



「一人で来たんすか?珍しいですね」

「…やっぱりそういうものですかね」

「浪人をしている人ならたまたま一人で来たりするんですけど。でもまだ高校生なんですよね?」

「はい、高校2年生です。えっと、この書類は……」

「申込書ですよ。チェックしている部分にだけ、記入してくださいね」



言われるがまま、私はもらったシャーペンで一つずつ空欄を埋めて行く。受けたい講義のコース、名前や住所などの個人情報も含めて、私は滞りなくペンを進めた。

でも、ある箇所で私はピタリと手を止めてしまった。



「…………」



空欄の横には志望校という三文字が書かれている。生唾を呑んで、何度も目を瞬いても適当な答えが思い浮かばなかった。

理由は簡単だった。私の志望校は、灰塚がいる大学なんだから。

でも灰塚がどこに行きたいのかを知らないから、こうして詰まっているわけで。

……でも、灰塚ならきっと偏差値の高いところに行くはずだよね。思い切って、私はある大学の名前を記入する。

それを目の前の受付さんに渡すと、彼女は少々驚いた面持ちでこちらを見た。



「ここは……ずいぶんと腹をくくりましたね」

「はい」



そう言われても仕方がないと思った。なにせ、私が書いた大学はものすごく偏差値の高い、国立大学だから。

今の私の成績では入学どころか足元にも及ばない、そんなところだった。

彼女はもう一度書類に目を通した後、真剣な表情で私を見据えてきた。



「でも本気なんですよね?ここに行きたいという気持ちは」

「…はい。正直に言うと、この大学だけが目標というわけではないのですが」



目を丸くしている受付さんに、私は苦笑を滲ませながら言い加えた。



「…その、一緒にいたい人がいるんです。でもその人はすごく勉強上手だから、私もそれなりの覚悟をしないと、追いつけない気がして……」

「あらあら、そうだったんですか……じゃ、ここで夏期講習を受けてる理由も、もしかしてその人が通っているから?」

「………はい」

「あらあら」



手で口元を隠しながらも、受付のお姉さんは満面の笑みを浮かべてくる。私は恥ずかしさに耐えるのが精一杯で、とうとう顔を伏せてしまった。



「ふふっ、分かりました。志望校はこのままにして、講習を受けたい講座を自由に選んでくださいね。あ、その前に一つだけいいですか?」

「あ、はい!なんでしょうか」

「その……保証者の方を記入する欄が空いてますけど」



ああ、と声を漏らしながら、私はさっきよりびた口調で言う。



「それは……その、実はわたし、一人なので」

「………そうですか。もしかして身元引受人の方も、いらっしゃらないのですか?」

「遠い親戚なんですけど、それでもよければ。あ、お金はちゃんとありますから」

「はい、ではその親戚の方の名前を書いてください。住所は後で知らせてくださいね」

「はい」



叔父さんは果たして遠い親戚なのか、という疑問が頭をよぎる。たぶん遠い親戚という表現は間違っているのだろう。どう考えても近い親戚のはずだ。

でも、心の距離が遠かった。

私にとっては遠い存在だった。私に近い存在と言えば灰塚とゆい、強いて言えば五十嵐いがらし君くらいだから。

………本当に、私の世界は狭いんだなと自嘲じちょうしながらも、私は叔父さんの名前を書く。



「はい、これで終わりです。お支払い方はどうしますか?」

「ここで一時払いでお願いします」

「かしこまりました。もしよかったら、ちょっとだけ見学していきませんか?まだ講習が始まっていないため、今はクラスが空いていますから」

「……そうですね」



まぁ、特にすることもないし、いっか。



「分かりました。では見学させていただきます」

「はい、ごゆっくりどうぞ」



軽く挨拶を終えてから、私は面談室から出てゆっくりと建物の中を見回り始める。受付さんの言う通り今はどの教室も空いていて、静かな空気が漂っていた。

ぼんやりとクラスを眺めながら、私は考える。

灰塚の横に立つということが、本当に自分にできるのだろうか。

私は自分自信を信じられない。私には自己肯定感というものが存在しない。

それでも傍にいたいという切実さだけが原動力になって、私という歯車を動かしているのだ。その力は弱いけど、私にとっては断ち切れないほど強い結びだから。

……頑張ろう、それしかいないから。

そして再び深呼吸をして、廊下の角を曲がろうとした時。



「きゃっ!」

「うっ…!」



何か硬いものにぶつかってしまって、私はそのまま後ろに尻もちをついた。おでこがジンジンして一瞬視界が歪み始める。

小さな涙まで浮かべながら顔を上げると、とても申し訳なさそうにしている一人の少女が目に入ってきた。



「ご、ごめんなさい!大丈夫ですか?」

「あ……はい。なんとか………」



一度目をつぶってから開けると、今度は綺麗な手が視界に入ってくる。少しだけ骨ばっているけど白くて小さい、女の子の手。

その意味を察して、私はその手を握ってからほぼ引っ張られるようにして立ち上がった。私よりほんの少し背が大きいだけなのに、腕にこもっている力はとても強かった。

ようやく私は、その少女をしっかりと目にすることができた。



「…こちらこそ、ごめんなさい。ちょっと考え事してて」

「いえいえ、不注意だった私が悪いんです。そうだ、ここの受講生さんですか?」

「………えっと、はい。夏期講習だけ受けるつもりなんですけど……」

「ああ、そうでしたか」



………すごい美人だなぁ。

彼女にはもう大学生と言ってもいいんじゃないかと思うほど成熟な美しさがあった。整った顔立ち、腰あたりまで伸びた赤みのかかった髪は柔らかくなびいていて。

声色もすごく明るくて、全体的に笑顔がよく似合っていて。一目見ただけで、私とは対極にある人だなと痛感してしまう。

まぁ……第一印象で人を判断するのは、どうかと思うけど。



「髪、すごくきれいですね。アッシュグレーの髪だなんて」

「あ?いえ……それほどでは」

「この髪、もしかして地毛じげなんですか?!」

「あ……え、えっと……はい」

「すごい!こんな色の髪はテレビの中でしか見たことがなくて……あ、ごめんなさい!綺麗すぎて、つい見惚れちゃって」



会話のペースが早すぎてついていくのが大変だった。よくもそんなダラダラと誉め言葉が出るんだなと感心する。

……うん、私が感じた第一印象は、正しかったのかも。

目の前に立っている少女はものすごい陽キャだった。それも結とはちょっと違う、猪突的ちょとつてきなタイプの。



「肌もつやつやで真っ白で……羨ましいな~」

「あ……ありがとうございます……」

「私、七瀬芹菜ななせせりなと申します。よろしくお願いしますね」



そう言って、その人はに笑いながらいきなり手を差し伸べてくる。

……えっ、なんで今握手?なんかとっさに握ったりはしたけど……え?



「あ……ゆ、杠叶愛です。よろしくお願いします……」

「ふふっ、美しい名前。じゃ、機会があればまた会いましょう!ではまた!」

「あ………はい」



速足で消えていく彼女の後姿をぼうっと眺めてから、私は自分の手を見下ろす。

……なんだか、凄まじき嵐みたいな人だったな。あの人も夏期講習を受けるのかな………

まぁ、いいっか……そう思って踵を返そうとした時、ふと頭の中である記憶がよみがえってくる。



「…………芹菜?」



そう、灰塚が言っていたこと。

私を家まで送っていた時にこぼした、灰塚の言葉。



『要すれば、全く欠点が見つからない完璧超人。それが芹菜だった』



私は、再び振り返って彼女を目に留めようとする。

でも過ぎ去っていった嵐を見ることは、さすがにできなかった。

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