69話  抑えきれない気持ち

<杠 叶愛>



好きが漏れそうになるから、セックスをしなかったのだ。

肌が触れ合うという行為は、いつも驚くほど心の境界線をなくすから。ため込んでいた感情が洪水のように押し寄せて、頭を狂わせるから。

この気持ちが灰塚に流されたら、もうお終いだから。

だからこの気持ちは、彼と肩を並んで歩けるようになった時に伝えたかった。

私の理性は、そんな意志をいしずえにして成り立てていたのだ。



「……先にシャワー浴びさせて。さっき、汗かいたから」

「……分かった」

「…うん、ありがとう」



なのに性欲というものは、いつも簡単に私の理性を覆い隠す。脆い私のことだから当たり前かもしれないけど、仕方ないとも思った。

私のすべてを捧げたい人なのだ。初めて私に向き合ってくれて、一緒にいて幸せだと言ってくれた人だから。

そんな人とセックスをしたくないなんて、ウソに決まっている。

シャワー室に入って、私はなるべく念入りに体を洗い始める。彼には少しでも汚いところを見せたくなかった。

思い返すと失笑が出てしまう。まさか電車の中で数分視線を交えただけで、発情してしまう動物がいるだなんて。

それに……灰塚もまた、そんなケダモノだったなんて。



「………うっ」



灰塚は、女を見る目をしていた。私じゃなく、見惚れてしまうほどの女を見る目を。

それがたまらなく嬉しくて、つい頭に熱が上がってくる。

こんなに違うなんて。他の男の視線は不快極まりなかったのに、灰塚の視線だけは違う。恍惚こうこつな気持ちになって仕方がなかった。

これからもきっと、変わらないのだろう。



「ふぅ………」



シャワーを終えた後、私はシャワー室を出てガウンをまとってから部屋に戻った。



「上がったよ。えっと……灰塚も、シャワー浴びる?」

「…うん、そうするよ。待たせてごめんな」

「ううん、いいの」



いくらでも待つよ、あなたなら。

私自身よりよっぽど大切な、あなたのことなら。

私は、いつまでも待ち続けられる。



「……………」



灰塚がシャワーを浴びている音が部屋中に響き渡る。その間、私はベッドに腰かけて天井を見上げていた。

これからこのベッドで横たわって、彼とするのだろう。そしてその時にはきっと、天井なんかは見えないはずだ。きっと、彼の体と顔しか目に入らない。

体が火照り始めるのを感じて、私は少し唇を噛む。

化粧は全部落としてしまったけど、まだ唇にはじめじめとした感触が残っていた。俯いたまま、私はこの水音が止むまでじっくりと待った。

そしてシャワーの音が消えて灰塚が姿を表した時、私は即座に立ち上がって彼に寄り添ってから……

そのまま、彼を襲った。



「えっ……ちょっ、ゆずりは?」

「…………はい、づか」

「…………」



まだろくに髪も乾かしていない状態のに、私は彼の顔を両手で包んで引き寄せる。そのまま唇を重ねた。

久々に触れた彼の唇は想像よりはるかに暖かくて、思わず涙が出そうになる。それをぐっとこらえて、静かに目を閉じた。

じっくりとキスしてから身を引くと、唇の間にけられた唾液の端が目に入ってくる。

その状態でぼんやりと、私は彼を見上げた。



「………はいづか」

「………ゆずりは」

「……………」



告白したかった。

すぐにでもこの思いを伝えて楽になりたかった。隠すには、この好きはいささか大きすぎる。

もう、灰塚だって私の気持ちに気付いているのかもしれないと思った。

それでも彼は私を受け入れてくれる。それは単に彼の優しさのせいなのか、それとも彼も同じく私のことが好きだからなのか、それは分からないけど。

でも、どっちでもいいような気もした。

今、目の前にいるのが灰塚だと言う事実だけでも、私は幸せだから。



「………ほら、ベッド行こう」

「………まったく」



再びキスを交わしながらベッドまで行って、そのまま布団の上に倒れ込む。視界にはやっぱり、彼の存在しか映らなかった。

体が自分のものじゃないみたいにフワフワして、どこかへ飛んでいきそうで。

もっと抱きしめて、彼の首元にもっと顔を埋める。もうこの行為には快感と愛情しか残っていなくて、それがまた幸せで。



「す……………きぃ……」



耳をましても聞こえないくらいの小さな声で、私は思いをこぼしたのだった。







「………ねぇ、聞いた?」

「うん、なにを?」

「………えっと」



スプーンでオムライスを一口すくっている彼を眺めながら、私は少々顔を赤らめる。彼との行為の中で、私は確かに好きって言葉を漏らしていた。灰塚がそれを聞いたとしたら、もう何もかもお終いだというのに。

なのに灰塚はただ目を丸くしているだけで、私から直接聞くわけにもいかなくて……

結局諦めて、私はフォークでパスタの麺を巻いた。



「なんでもない……」

「…そっか」



ケダモノになってから2時間ほど経ち、私たちは無事人間に戻っていた。

あの乱れっぷりを見せた直後に顔を合わせて食事をするなんて、恥ずかしくて穴にでも入りたい気分だった。それは灰塚と同じだったのか、普段はもっと涼しい顔をするくせに今はまともに目を合わせてくれない。

つまり、ものすごく気まずかった。

薄っすらと見える首元を見ただけでも、さっきの場面が浮かび上がって頭をわずらわせる。赤いあとが付いているのを見て、また顔を伏せてしまった。

うううっ………私のバカ。なんでキスマークなんか付けて……ラブホを先に行くんじゃなかった……



「……美味しいよな、この店」

「う、うん………」



お互いほぼ無言のまま食事を終えて、私たちは街の反対側にあるカフェに向かった。

そこでコーヒーと店のスペシャルメニューであるケーキを注文した後、また沈黙が降りてくる。

何かを言わなきゃと思って、私は先に話を切り出した。



「あの……灰塚」

「うん、なに?」

「その………」



真っ白になった頭の中で流れ込むのは、意外にも謝罪の言葉だった。



「さっきはごめん…」

「え?なんで?」

「その、首元を吸っちゃったから……痕も残ってるし」

「ああ……これか」



苦笑を浮かべてから、灰塚は親指でその痕を撫でてみる。申し訳なくない気持ちと同時に顔に火が昇ってきて、またちょっと俯いた。



「その……痛かったらちゃんと言ってね。手当というか……絆創膏はちゃんと買うから」

「うん?ああ、いいよ。少しジンジンしてひりつくだけだし、それによく見えるところでもないし……注意深く見ないとみんな分からないんじゃないかな」

「ならいいけど……」

「まぁ、それはそれとして。ここのお会計は俺がするから、今回はちゃんと財布をしまっておくように」

「えっ?」



つい目が丸くなって顔を上げると、灰塚は頬杖をついたまま少々目を細めて私を睨んでいた。



「ラブホでもそうだっだし、さっきのレストランもそうだし……杠にお金があるということはちゃんと知ってるけどさ、ここは俺に払わせてくれよ。俺にもメンツっていうものがあるから」

「…そんなの、別に気にしなくてもいいのに」

「……俺、やっぱりお前のことが心配になってきた」

「えっ、なんで?」

「何もかもあげようとするからだろ。悪いヤツに目を付けられたらどうするつもりなんだよ」

「……はああぁ」

「……なんで今ため息?」



筋が通っているように聞こえて、全く的外れの発言に少しだけムッとしてしまう。

私を何だと思っているのよ。そもそもそんな悪い人にお金を使うはずがないじゃない。こう見えて、人を見る目はそこそこあると自負しているから。

……あなただから、使ってるのに。

なのにそんなことも知らないで、よくもそんなことを…………このバカ。大嫌い。

………大好き。



「灰塚、私のことを全然信じないよね。前に従兄いとこの時もそうだったし」

「いや………あの時はその…………」

「うん。あの時は?」

「………その度は、大変申し訳ありませんでした」

「ぷふふっ、よろしい」



一発やり返したと思うと自然に顔がほころぶ。やっぱり、彼といる時間は楽しかった。私がもっとも自然体で笑っていられる時間だから。

雰囲気もだいぶほぐれて来たわけで、私は本題に入ることにする。

別にラブホに行くのだけが……目的ではなかったから。



「そう、灰塚。その……再来週にね、夏祭りがあるじゃない?」

「うん、そうだな」

「えっと………その………」



ほぼ言葉を絞り上げるようにして、私は口を開く。

………いや、開こうとした。



「い………い………」

「い?」

「い………一緒に……」

「一緒に?」

「い………いか……」

「…ぷふっ」



次の瞬間、いきなり前からものすごい笑い音が聞こえてくる。



「ははっ、あははははっ!!」

「ちょっと!!」

「あははっ!あは……はははっ……ああ……お腹痛い。ははっ……ああ……ごめん。ごめん。でも……いや、ごめん。こんなに笑ったの久しぶりだな」

「ううっ………くううぅぅ」



その笑い声のせいなのか、店の中にいる何人かの客人たちがこちらを振り向いてくる。そしてその疑問の眼差しは、次第に生暖かい物へと変わって行った。

………もうやだ、死にたい……



「ごめんって。俺が悪かったよ。本当にごめん。でも……あのさ、なんでそんなに緊張するの?俺たち、さっきまでも……その、あんなことしてたのに」

「………知らない。灰塚なんかとっとと死んじゃえ……」

「あははっ、悪かったって。じゃ、こっちから言うわ」



それから灰塚は、少し前のめりになって私の顔を覗き込んでくる。とっさの熱い視線に身動きが取れず、私は吸い取られるように彼と目を絡ませた。

その笑顔を崩さないまま、灰塚は言った。



「夏祭り、俺と一緒に行かない?」

「……………」

「返事は?」

「…………もう」



……どうも心が先走って、思う通りにはいかない。

叫びたい気持ちになるのを必死にこらえて、私は言った。



「………行く」

「うん、行こう」

「………うん」



……ああ、もうダメかも。

彼の顔を見ながら、私はぼんやりとそんなことを思う。一刻でも早く大人になって、灰塚の手を取るようになればいいのにと。

叶うはずのない思いだけを抱いて、私はずっと彼と目線を合わせていた。

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