67話 胸の苦しさ
<灰塚 連>
『再来週にはそっちに行くから、ね?』
「何が言いたいんだよ」
『週末には予定を空けておくように』
「はい、はい」
たぶん、GWの最終日にした約束のことだろう。夏休みになったら、一緒にどこかへ遊びに行くっていう約束。
電話の向うで、
『もうすぐ夏期講習だよね?連ももう受験生か~」
「いや、まだ受験生じゃないから。予備校行くのも、父さんに無理やり押し付けられたもんだし」
『ぷふふっ、でも良かったじゃない。期末テストには学年首席を
「……俺もあの時は死ぬ気でやったんだよ。学校を通いながら予備校に行くなんて、地獄じゃあるまいし」
『苦労するな~期待される
「……俺、病院を受け継ぐ気ないけどな」
ちょっとしんみりした口調になってしまう。ベッドで横になったまま、真っ白い天井を見上げた。
昔から、俺には未来に対する欲望がなかった。
自分が何をしたいのか、どんな風に生きたいのかという当たり前の設計図が俺にはなかった。俺は間違いなく、今も抜け殻だ。
俺の欲しいモノなんて、一体何なんだろう。
父の病院も、名誉も、医者という職業も、どうも肌に合わない気がする。
そんな人生の中で俺が唯一、自分自身の意志で選択したのは……
『もう、そんなに焦らないの』
「……うん?」
『連はまだ高校2年生なんだから。大人になっても、何がしたいのか分からない人もたくさんいるんだし。だから大丈夫。ゆっくり考えて、自分の意志で決めればいいの』
「…そうかな」
『まぁ、お父さんはあまり喜ばないかな~絶対に連に後を継がせるってもう決め込んでるし』
「ムカつく」
『ぷふふふっ、大変だなぁ~でもまぁ、私は連の見方だから。一緒に反抗でもしてあげよっか』
「…お願いだから甘やかさないでよ。俺が徹底的にダメになったらどうする気だ」
『私が
「…………言われた通り、週末は空けておくから」
『あ、今照れたでしょ~ねぇねぇ、ビデオカメラONにして?早く顔見せてよ~~』
「おやすみ。じゃまた後で」
『あっ、ちょっ!』
姉の言葉をまるっきり無視して、俺は通話を切った。
………本当、どこまで俺に甘いんだ、この姉は。
「……まったく」
心地いい笑みを浮かべたまま、俺はもう一度大きな息を吐いて天井を見上げる。焦らない………か。
そのアドバイスに、だいぶ救われたような気持ちになった。父の圧力が差し迫っている中で、俺がもっとも聞きたかった言葉なのかもしれない。
……俺は、いつになったら未来に目を向けられるのだろう。
未来の俺の隣には、誰がいるのだろう。
目を閉じて再び考えを巡らせようとした瞬間、再びスマホが震え出す。姉ちゃんが怒ったのかなと確認してみたけど、差出人は姉ではなく、予想外の人物だった。
電話に出ると同時に、俺は上半身を起こして壁に背中をつけて座った。
「もしもし」
『うん。夜遅くにごめんね。その……今、電話大丈夫?」
「構わないけど……珍しいな。明日にも会えるだろ?どうしたんだよ、急に」
明日は土曜日、つまり杠の家に訪ねる日だった。
本当になんとなくだけど、俺たちの間には必ず週末に彼女の家で会うという暗黙的な決まりができていた。俺も杠も、驚くほどにその決まりをすんなりと受け入れている。
問いかけた質問に対し、杠は何故かもごもごとした口調で言ってきた。
『いや……その、明日は外で会えるかなと思って」
「……外?家じゃなくて?」
『うん。外』
「……………もしかして、ラブホ?」
『ち、違う!!この変態!!」
「いや……」
………そもそも、俺たちセフレなんだが。なんでそんなことで恥ずかしがるんだよ。
……最初のあのクールなヤツはどこに行った。
でも思い返せば、確かに最近はほぼセックスをしてなかったような気がする。
俺は元々あまり杠に手を出さないけど、杠も最近は確実に誘う頻度が減っていた。今さらながら少し疑問を抱いてしまう。
どちらかというと、セックスに積極的なのはいつも彼女の方だから。
『……もしかして、したいの?』
「……………いや」
『…今、返事に迷ってた。したいんでしょ?』
「……したくないと言えばウソになるけど。でも大丈夫なの?最近は……その、避けてるように見えたし」
『……誰のせいだと思ってるのよ、バカ』
「え?これ俺のせい?」
『…ヘタレ童貞。自分からはなんにもしてこないくせに』
「…………」
なぜ、杠ほど綺麗な女の子を自ら抱かないのか。
それには二つの理由があった。一つは、俺はまだまだ彼女を抱く資格がないと考えているから。そしてもう一つは……
……大切だから。
体だけを求めているんじゃないって、教えてあげたいから。無下に扱いたくないから………なんだけど。
でもこんな恥ずかしいこと、本人に言えるかよ………くそ。
『…じゃ、お望み通りラブホにも行ってあげる』
「は?いや、いいよ。嫌なら俺は別に――」
『うるさい、このヘタレ。根性なし』
「……もしかして恨まれてるの?俺」
『さぁ、自分で考えたら?』
「………」
……勘弁してくれよ。俺みたいな機械に乙女心なんか、理解できるはずがないだろ。
項垂れながら小さく唸っていると、杠はさっきより澄んだ声色で言った。
『とにかく話を戻すけど。別にラブホをメインにしたいわけじゃないの。その……いつも部屋でくつろぐのもなんだし、たまにはどこかに出かけるのもいいんじゃないかなって』
「なんだ、そういうことか……ていっても、行きたいところでもあるの?」
『…だから色々と考えてみたけどね』
…考えたんだ。俺とのお出かけに。
『喫茶店巡りとかはどうかな、と思って』
「へぇ、喫茶店か……」
『うん。ほら、灰塚もコーヒーとかスイーツとかけっこう好きなんじゃない?だから一緒に楽しめると思って』
「まぁ、それはそうだけど……杠は大丈夫なの?無理に俺に合わせたんじゃない?」
『甘いものを嫌う女の子って、たぶん世の中にはいないと思う』
「ぷふっ、そっか」
言葉を聞いているだけでも、俺の事情をよく考えてくれていることが分かる。素直に、嬉しかった。
体の芯が暖かくなって、ついつい口の端が吊り上がっていく。益々、明日が楽しみになってくる。
「じゃ、そうしよう。待ち合わせの時間は?」
『えっ……?あ、その………え、えっと。ちょっと』
「…なにを慌てているのか。まぁ…いつもの時間でいいんじゃない?ほら、いつも11時くらいに会ってたから」
『………じゃ、11時で。それと……待ち合わせ場所は、駅前で』
「そういえば、喫茶店とか事前に調べておかないと。行きたいところでもあるの?最近SNSで流行っているお店とか」
『…ううん、灰塚が調べる必要はないよ。わたしがだいたい調べておいたから』
その言葉に、自然と目が丸くなってしまった。
「えっ……本当に?」
『ウソついてどうするの。ちゃんと調べて、コースも決めておいたから…あなたはただ、私に付いてきてくれればいいの』
「……………分かった」
『…これで用件はお終い。他に言いたいことは?』
普段の杠らしい淡白で素っ気ない言葉。
でもその声が震えていることを、俺は容易に察することができた。緊張している姿も目に浮かんでくる。
俺を思って、杠が調べてくれたのか……申し訳なさと同時に、何とも言えないむず痒い感じがして、胸が苦しくなる。
……これって、デートなんだろうか。
もしくはただ友達同士のお出かけなのか。その境界線が薄くなってきた今、俺は確実に混乱している。
「いや、特には……じゃ明日11時に駅前で集合ってことで、いいよな」
『うん、それでいい』
「……………」
『…………き、切らないの?』
「いや………」
『……………』
……なんだろ、これ。
お互い無言のまま10秒くらいの時間が過ぎていく。
何も喋らないのに電話はずっと繋がっていて、どうすべきか分からなかった。明日にもまた会えるのに、なんで電話を切らないのか。
…答えを出すも前に、俺は心を決めて最後の挨拶を口にした。
「…じゃおやすみ、杠」
『………』
電話の向こうで息を呑む音が聞こえてくる。
間もなくしてその音は、溢れるほどの優しさを込めた声に変わって行った。
『うん…おやすみ、灰塚』
「………うん、おやすみ」
「うん………」
電話を切って、俺は通話時間が表示された画面をぼうっと眺める。しばらく固まったまま、そうしていた。
いくら深呼吸をしても、胸の中で暴れている感情がとどまってくれない。
………俺は、自分が思ってた以上に杠を大切に思っている、というわけか。
少し苦笑をしてから、俺は部屋の電気を消してベッドに潜り込んだ。
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