63話  眼鏡

朝日向あさひな ゆい



……なんだか、そわそわしちゃうな。

今、わたしは五十嵐いがらし君の家の前に立っていた。先週までもすらすらと出入りしてた家なのに、なんだか緊張してくる。

でも、もう逃げられない。そもそも、五十嵐君と約束までしたんだから。



「………よし」



大きく深呼吸をして、エントランスのチャイムを鳴らそうとした、正にその瞬間。



「…結さん?」

「………あ、歩夢あゆちゃん」



きっ、という音を立てて開かれたドアの中から、小さな女の子が姿を表した。五十嵐君の妹の、歩夢ちゃん。

咄嗟に、私は怖くなってしまった。心臓がぎゅっと握られるような感覚が走る。

なのに、歩夢ちゃんは前と全く変わってない純粋な顔もちで、わたしを見上げてきた。



「………お久しぶりです」

「………うん」



なんと言えばいいのだろう。まさか小学2年生にここまで緊張するとは、思わなかったのに…

でも、そんな悩みがすべて吹き飛ぶほどの声色で、歩夢ちゃんは言ってくれた。



「お帰りなさい」

「……………ぁ」



少し、情けない声が漏れたけど。

その挨拶が果てしなく嬉しくて、わたしは結ちゃんに駆け寄って、そのままその小さな体を抱きしめた。



「ちょっ……結さん?!」

「ありがとう……歩夢ちゃん。大好き」



抱き留められて歩夢ちゃんは一瞬体をビクってさせたけど、すぐに諦めたように力を抜いてくれる。



「……あの、恥ずかしいです……」

「…ダメ。もう少しこのままでいさせて?」

「私、もう迷子じゃないんでよ?」

「……そうだね。でもそれはそれ。これはこれなの」

「………もう」



こんなやり取りもいつぶりなのかな。やっぱり、来てよかったなと心底思った。

五十嵐君が勇気を出してくれたおかげで、わたしはまたこういう幸せに浸っていられる。

そうやって、どれくらい抱きしめたのだろう。家の中で出てきた五十嵐君はわたしたちを見た途端、またほっこりした表情で笑ってくれた。



「…えっと、一時間ぶりだね」

「………うん」

「……その、ご飯できたから、一緒に食べよ?」

「……うん!」



ウソ。

ご飯ができたから一緒に食べようという日常的な言葉が、こんなにも人を喜ばせるなんて。

まるで幸せな夢でも見せられているようだった。でも、これは現実。

………また、わたしはこの家でいられる。

その事実だけでも胸がいっぱいいっぱいになって、わたしは歩夢ちゃんを抱きしめた腕に、もっと力を込めていった。







晩ご飯を食べてから歩夢ちゃんと一緒にテレビを見た後、わたしと五十嵐君は二人きりで部屋に上がっていた。ギターと大きなスピーカーで満たされている部屋の風景が、どこか懐かしく感じられる。

………でも、思い出に浸っている場合ではない。

わたしは、もっと大切なことを五十嵐君に伝えなければいけないから。



「えっと、話ってその……昨日の告白の返事?」

「うん」



五十嵐君に告白されて、わたしは嬉しかった。

認めざるを得ない。五十嵐君が自分を好きになってもらうように頑張る、と宣言した時には、ものすごく心臓がドキドキしていたから。

わたしは、改めて固まっている五十嵐君に目を向ける。



「…………」



だから付き合えばいいんじゃない?と何度も思った。

わたしは、間違いなく五十嵐君に好意を抱いている。彼の人間的な魅力にハマっていて、時々見せてくれるカッコいい姿に何度もときめかされた。

付き合ってもいいんじゃないかなと、何度も思い返した。

……でも。



「曖昧な返事でごめんなさい。でも……答えをもう少し、先延ばしにしてもらっても……いいかな?」

「…………えっと、それって?」

「その、五十嵐君が嫌いだとか、付き合うのがムリだとかそういうことじゃないの。これはただ………その、自分の納得の問題だから」

「納得の問題って……」

「……わたしはね、ちょっとなんて言うか……めんどくさくて、重い女だから」



…ここ最近、気付いたことがあるとするなら。

それは私が、夢見がちな女の子だということだった。

好きな人とはずっと一緒にいたい。その人とそのまま結婚もしたいし、好きな人には私のすべてを捧げて……いつまでも二人で、共に人生を歩んで行きたい。

でも、これが現実的な考えではないということくらいは、私も知っている。

それに学生同士の恋愛なんて、長続きしないのが普通だから。その穴を埋めるほどの確信が、私にはまだなかった。



「わたしの家はね、両親の関係があまりよくないの。二人とも別々に行動してて、家に来てもろくにしゃべらないから。まるで家を借りた赤の他人のようにね。だから……それを何年も見てたらね、恋愛とか結婚に対する印象が、少し否定的になっちゃって」

「…うん」

「それにわたしは、一度付き合った人とは……なるべく、関係を長く保ちたいの。絶対に両親みたいにはなりたくないから。だからその……付き合う人との相性とか、その人の性格とか、色々悩んじゃの。ほら、高校生の恋愛って長続きしないと言うじゃない?わたしはその言葉が……本当に、大嫌いだから」

「うん」

「好きな相手とは、愛している人とはずっと長続きしたいから……だから色々悩んでしまうんだよ?こんな風に思うのはちょっと変かもしれないけど、でもわたしはあっさりとは付き合えない。どうも色々考えちゃって……ご、ごめんね。わたし、今すごくドギマギしているかもしれない。でもその……」

「いいよ。朝日向さん」



暖かい声色で放たれたその言葉に、わたしはうつむいていた頭を徐々に上げた。

五十嵐君は、笑っていた。



「頑張るね。朝日向さんが僕を選んでくれるまで、朝日向さんの中で決着がつくまで、努力するから」

「……五十嵐君」

「朝日向さんが必死に説明しようとしてること、うまく伝わったよ?僕のことですごく悩んでいたことも、僕に申し訳なさを感じていることも。その上で、向き合おうとしてくれたことも、上手く伝わった。だから安心していいよ?朝日向さん」

「……………うっ」



…思わず、片手で口元を覆ってしまった。

五十嵐君はわたしのすべてを受け入れようとしてくれる。

……ありのままのわたしを認めてくれる人が、今目の前にいる。それは、どんなに幸せなことなのだろう。

胸が爆発しそうになって、言葉を紡ぐのにいっぱいいっぱいになって。



「これからも、家には来てくれるんだよね?」

「うん……それは間違いない」

「よかった……ありがとう。頑張ります」



…やっぱり五十嵐君は、人が良すぎる。

純粋で優しくて、かっこよくて包容力もある。一見弱弱しい印象の中で、挫けることのない強さを持っている。

だからもし、他の女の子たちがちょっとでも五十嵐君の魅力に気付き始めたとしたら………狙われるかも、しれない。

…それは、いや。強烈に嫌気がさした。思うだけで胸が苦しくなる。

その事実に気付いた瞬間には、もうわたしは自分を止められなかった。

思わず、私は口走る。



「五十嵐君、まだメガネ持ってるんだよね?」

「うん?あ……うん。一番下の引き出しの中にあるけど。なんで?」

「それ、見せて?」



彼女でもなんでもないのに、こんな行動をするなんて間違っているのかな………いや、間違ってるよね。

でも……五十嵐君の周りに、女の子たちが近づくくらいなら。それでわたしが思い悩むくらいなら。

こんな幼稚ようちで勝手な真似をした方が、ずっとマシだから。



「ほら、こっち見て?」

「うん?あ………」



大きく見開いている五十嵐君の瞳を直視しながら、わたしは五十嵐君の顔にメガネをかける。

そのついでに、ピシッと整えてある髪も手櫛てぐしで乱す。まるで前の五十嵐君を再現するみたいに、何度も彼の前髪をかき乱した。

五十嵐君は驚きながらも、わたしの行動に何の抵抗もしなかった。

再び席に座ってから、わたしはようやく笑うことができた。



「………えっと、朝日向さん。これは……」

「……やっぱりね?わたしは、こっちの方がいいかも」

「うん?」



小首をかしげる五十嵐君を可愛いなと思いながら、わたしはまた笑った。



「わたし的には、眼鏡をかけている時の五十嵐君が、もっとかっこよく見えるな」



……言えない。

あなたを独り占めにしたいからだなんて、絶対に言えない。

……どうやら、私はどうにかなっているようだ。



「分かった」



髪がぼさぼさになっている五十嵐君の顔さえも。



「朝日向さんがいいなら、このままにするね」



こんなに、かっこよく見えてしまうから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る