60話  友達のまま

朝日向あさひな ゆい



「今日はお疲れさま。ごめんね?歩夢あゆが面倒かけちゃって」

「ううん、いいよ。すごく楽しかったしね」



答えながら、わたしは五十嵐いがらし君の背中におんぶされている歩夢ちゃんに視線を移した。

……よっぽど疲れているのかな。まぁ、電車に乗った時からずっとうとうとしていたし、仕方ないよね。

その可愛らしい顔を眺めてると、つい穏やかな気持ちになって……わたしは歩夢ちゃんのもう片方の頬を指でそっと突いてみた。



「うううん……」



寝言みたいな声を洩らしながらも、全く起きる気配がなくて。

それがまた可愛くて、わたしは歩夢ちゃんに愛らしさを感じてしまう。



「…汗臭くないのかな。僕、今日ずっと走り回ってたのに」

「歩夢ちゃんはブラコンだから、きっとお兄ちゃんの汗の匂いもOKなんじゃないかな?」

「……そんなマニアックな趣味を持った妹に育てた記憶はありません」

「ぷふふっ。ああ~明後日からまた学校か……行きたくないな~」

「………朝日向さんでも、そんなこと言うんだ」

「なに~~わたしだって普通の高校生だからね?学生が学校を行きたがるなんて、ありえないじゃん」

「学校ではあんなに楽しそうにしてるのに?」

「……五十嵐君もずいぶんと言うようになったね。こんなにツッコミを入れてくるなんて」

「そうかな……確かに、慣れたかもしれないね」



予想外の返事に少し驚いて、わたしは彼の横顔を見上げる。わたしよりちょうど頭一つ違うほどの高さだった。

夕焼けを浴びていつも以上に大人しく見える、五十嵐君のの横顔。



「朝日向さんとこうしているのも、慣れてきたかも」

「………そうだね。わたし、五十嵐君のバイトが入ってない時は、いつもお家にお邪魔してるから。先週はほぼ毎日行ってたし、香澄かすみさんにもお会いしたし」

「………うん」



振り返れば、自分でびっくりするほど不思議な事件の連続だった。

初めて五十嵐君の家に尋ねた時は、単なる暇つぶしのつもりだった。一人でいる時間にきたから、楽な男友達と一緒にいたら、少しだるい日常も変わって行くのではないかと、期待していたのだ。

……でも、五十嵐君の家にいる時間の意味が、段々と大きくなっていった。

私の中での歩夢ちゃんが。あの家の風景が、みんなで食べる食事の大切さが。今まで感じられなかった家族の暖かさが。

それと………



「ありがとうね、朝日向さん」



私の中での、五十嵐君の存在が……物凄く、大きくなってしまった。

いや、大きくなったのに限らず、五十嵐君はもう私の心を染め上げようとしている。

照れくさそうにしてるけど、真剣に感謝を伝えてくるこの純粋さに。

時々見せる男らしさに、家族思いの優しいところに……おぼれてしまって。

気が付けば、彼のことばっかり考えていて。

今みたいに、彼の横顔に夢中になって。



「これからも、ウチに通ってくれると嬉しいな」



これが人々の言う好きという感情なのか、それとも単なる友情なのかは分からない。

わたしは、誰かを好きになったことのない女だから。

でも、そんな鈍感な自分でも分かることがあった。



「……………」



五十嵐君は、すでに私の中で特別な存在になっている。

他の男の子たちとは違う、友達や親友とも違う感じの、特別な存在に。

そして私は本能的に察する。これは超えてはいけない線だと。押し殺さなきゃならない感情だと。

決して抱いてはいけない、苦痛まみれの思いだと。



「………うん」

「美味しい料理、たくさん挑戦するから」

「………うん」

「………あ、もう着いたね。朝日向さんの家」



彼には他に好きな人がいるから、これ以上はダメだと理性が叫ぶ。

………わたしは、傷つきたくないの。

ドラマだったのかな、恋は炎のように体を飲み込むという言葉があった気がする。もしそれが本当だとしたら、わたしは恋なんてしたくない。

……………友達のままがいいから。

逃げるのが楽だから。むしろ、逃げるのが正しいから。



「バイバイ。また明日」

「…………うん」

「…どうかしたの?朝日向さん。顔色悪いよ?」

「ううん、そうじゃない。本当に、そうじゃない」

「……歩夢のことでまだ気にしているのなら、本当に心配しなくてもいいからね?こうしてちゃんと無事でいるから、気にしないで」

「………うん」

「歩夢のこと、そこまで思ってくれて……ありがとうね」



……ほら、いつもこう。

いつも素直に本音を伝えてくる。予想もしなかった時にポツンと距離を縮めてくる。

………こんなのずるいよ、五十嵐君。

あなたはわたしを……揺さぶりすぎ。

涙が出そうになるのを必死に我慢して、わたしは精一杯の笑顔を作って見せる。



「うん。わたしもありがとう……また学校でね!」

「うん、バイバイ」



別れの挨拶の後、五十嵐君は振り向いて、歩夢ちゃんを背負いながらどんどん遠のいていった。

わたしは、その姿を目に焼きつけて、脳裏に刻み込む。

……五十嵐君を好きになれない女の子なんて、いないはず。

だから、相談役はここまでってことでも………いいよね。

こうべを垂れて、わたしは家のドアを開く。

家の中は、背筋がゾッとするほど寒かった。



「…………うっ」



自然と膝の力が抜けて、玄関に座り込んで、わたしは泣き出す。

大声も出さずに静かに泣いた。

五十嵐君にも、歩夢ちゃんにも、誰にも聞かれないように、静かに……



「ああっ………ううっ…!」



それでも、大声を出さずにいても。どれだけ自分の気持ちを押さえつけようとしても。

どうしても、涙は止まってくれなかった。



「あああん………ううう……うっ……あああ……」



…こんなの、知らなきゃよかった。

涙でぐちゃぐちゃになったまま、わたしはスマホを取り出してから、メッセージアプリを起動する。

そして打った。

もう家に行くのは止めるね、という……自分の心臓に針を差し込むような、痛々しい文章を。

打って、送って、私はまた……泣き続けた。

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