40話  頑張る理由

灰塚はいづか れん



姉と約束した日曜日、俺は家のドアの前で少しうろついていた。何年も生きてきた自分の家をぼうっと見上げながら、俺は考える。

杠と過ごした一週間は、本当にあっという間に終わってしまった。時間の流れがあまりにも早くて、荒々しい波にでも飲まれたような感覚だった。

そして、俺は今ここに立っている。夢が覚めて、俺は再び現実に引き戻されている。

それが惜しくて、思わずため息をついてしまった。



「……入るか」



家に入って俺は真っ先に自分の部屋に行かず、リビングに向かった。



「ただいま」



だいぶぎこちなかったけど、とにかく親への報告を欠かせたくはなかった。

両親に心配を掛けたのは事実で、俺に非があるのもまた否定できなかい事実なのだ。ちゃんと謝るのがなによりも大事なのだろう。

俺がリビングに入るや否や、さっそく母さんの視線が飛んでくる。

母さんは最初は驚いていたけど、徐々に顔を綻ばして駆け足で俺に近づいてきた。



「もう、心配したじゃない!」

「ごめん…本当に、ごめんなさい。でも日葵ひまり姉ちゃんからその……いろいろ聞いてたんでしょ?」

「それはそれ、これはこれ!目の届かない所にあるから……!もう、体は大丈夫なの?体調崩したりしてない?」

「大丈夫……改めて、本当にごめんなさい。その、父さんは?」

「病院。電話してみる?」

「…メールだけ入れておく。ありがとう」

「………そうね」



あまり良好では言えない父子の関係を見て、真ん中に挟まれた母さんはどんな思いをするのだろう。

俺はもう一度お詫びの言葉を口にしてから、自分の部屋に向かった。

一週間ぶりの部屋は、予想通り何も変わっていなかった。

飾り物の一つもない質素な雰囲気、パソコンとデスクの上にあるスピーカー、その他教科書と参考書諸々もろもろ



「………荷ほどきするか」



独りごちりながら荷物を片付けるために腰を屈めた時、思わぬ筋肉痛が走ってつい顔をしかめてしまった。

その筋肉痛の原因を悟って、今度は苦笑をこぼしてしまった。

……そっか、昨日の夜に杠としてたから。思い返すだけで少し顔が熱くなってくる。

本当に、獣みたいに相手を求めていた。それは単に不安に怯えている杠を慰めるための積極性なのか、もしくは……他の感情が交じっていたのか。

それは、今の俺じゃ分からないけど。



「………」



唯一断言できるのは、俺の中での杠の存在が段々と膨らみ始めているということだった。

彼女は俺の人生に色彩を添えてくれる。色んな感情を教えてくれる。レールの上を歩いている俺にとって、彼女はとんでもない厄介者だ。

……でもまぁ、これが幸せなんじゃないかな。

杠と過ごした一週間のGWは、既に俺の人生でもっとも幸せな記憶として刻まれているから。



「ぶううう……」

「うん?」



感傷に浸って気付かなかったせいか、日葵姉ちゃんは部屋のドアの前で頬を膨らませていた。



「連が他の女のことを考えてる~」

「違うから。そろそろ弟離れしてくれよ…姉ちゃんは今日帰りだっけ?」

「うん、夕方の18時。もう~酷いんだから。まっすぐに顔も出してくれないし」

「ごめんって。母さんになに言えばいいのか分からなくて、頭いっぱいだったから」

「ふうん………まぁ、信じてあげる。でもこの埋め合わせは夏休みにたっ~~ぷりとさせてもらうからね。分かった?!」

「はい、はい」



本当に元気だな…でもこんな明るさは正直に言ってけっこう好きだった。俺が日葵姉ちゃんに適えない、最大の理由でもある。



「連」

「うん?」

「こっち来て」



言うがままに足を運んだら、姉ちゃんは腕をパッと差し伸べて俺の頭に手を乗せようとした。つま先まで立たせていて、噴き出しそうになるのをぐっとこらえる。

仕方なく頭を下げてあげると、姉ちゃんは満足したのかいつくしむような表情で、俺の頭を撫でてくれた。



「……俺、もう高校生だけど」

「ダメ。ずっと子供でいて?姉ちゃんがいっぱい甘えさせてあげるから。ね?」

「理不尽なことを…ていうか、いつまでこうしてるつもり?」

「うむ、私が気が済むまで?」

「電車は?」

「今からキャンセルしちゃおうかな」

「…大学は?」

「休学する!」

「まったく……」



言葉ではああだこうだ言っても、結局俺は姉ちゃんの手を払ったりはしなかった。

やがて数分経ってから、姉ちゃんは小さな声で伝えてくる。



「信じてるからね」

「………」

「もし困ったことがあったら、真っすぐに私に相談してね。分かった?」

「………分かった」

「うん、よろしい」



ようやく満足してくれたのか、姉ちゃんはようやく手を引いてくれた。



「夏休みには帰ってくるから、その頃までは大人しくしててね?」

「ちょっと甘やかしすぎじゃない?」

「ぷふふっ、そうかな?まぁ、じゃ私はもう行くね」

「……うん。ありがとう」



元気に去っていく姉ちゃんの後姿を全部見届けてから、俺はドアを閉めた。






<杠 叶愛>



GWが開けて、中間テストも終わってからちょうど一週間が経った頃。

学校の掲示板に成績上位者の紙が張り出された時、生徒たちはいつになく騒ぎ始めた。



「マジかよ……!あの灰塚が二位だと?!」

「おいおい、なんで……!こ、こんなことが起きるのか!!」

「………勝ったぁあああああああああ!!!ついに勝ったぁぁぁ!!!灰塚ぁああああああ!!!!!!!!」



その一方、掲示板に掲げられた貼り紙を見て、私は背筋に氷でも落とされたかのようにぞっとしてしまった。

一位の名前欄に、灰塚の名前がいない。

当たり前のように下に書かれていた500点という点数も…見えない。

灰塚の成績が、落ちてしまった。

誰のせいかな、という低い声が頭の中で響く。これは……これは……

私の………せい?



「……………あ」



…そう。私といたから、テスト前の大事な一週間を、私と一緒に過ごしたせいで。

もし私がいなかったら、灰塚は今度も……

分からない。頭がごちゃごちゃになってもう何も思い出せなかった。

……いや、私のせいじゃない。私がいなかったら、私が彼の人生に現れなかったら、彼は間違いなく今回のテストも一位だったはず。

でも当の灰塚は一日中それを気にする様子もなく、いつも通りにしていて。

もう何が何だか分からなくなって自分一人で悩んで過ごしていたら、いつの間にか放課後になっていた。

そして灰塚は、何も言わず先に席を去った。



「……………」



その姿を見たというのに、私は足を動けなかった。あの教室に行ってもいいのかという確信が立たないまま、たじろいでいた。

不動の首席だったのに。

本人は別に気にしてないと言ってたけど、なんとも思わないはずがない。そしてここ最近、灰塚をまぎらわせたのは間違いなく私で……

そこまで考えを巡らせたその矢先、突然にしてスマホが震えた。



『今日は来ないの?』



そのメッセージを見て、何度も深呼吸をしてから、私は足を運ぶ。

ついた教室の窓際まどぎわには、いつもと変わらない状態の灰塚がペンを取って教科書を見下ろしていた。まるで何事もなかったかのように、ごく平然としている。

私は少し罪悪感を感じながら、彼の向かいに腰かけてから、口を開いた。



「……その」

「なに?」

「………あの」

「……うん?」

「だ……大丈……夫?」



うじうじとした私の声を聞いて、彼は私と視線を合わせた後、少し間を置いてから…



「ぷふっ」



いきなり、噴き出した。



「ちょっ……なによ!せっかく人が心配しているのに」

「いや、全く予想通りだったから。そっか、だからすぐに来なかったのか。前に言っただろ?お前の考えていること、なんとなく分かってきたって」

「……なにを言ってるの」

「お前が勝手に罪悪感にさいなまれて、また自分を否定するんじゃないかと心配したんだよ」

「………あんた」

「成績落ちたのは100%俺のせいなのにな。まぁ、全く悔しくないと言うのはウソになるけど、でも俺の普段の行いのせいだし。2位もほぼ奇跡だと思うから、俺は満足してるよ」



彼はあくまで平たい口調で言っていた。慌てているのはむしろ私の方だった。

私はさっきからずっと視線を泳がせて、もたもたしている状態だった。

そんな私の反応を見て、彼は言ってくれる。



「そして俺は、今の方が幸せだから」

「……え?」

「前より、今がずっと幸せだから。だから大丈夫」

「……………………」



色んな感情が、一気に湧き上がってくる。

無防備なタイミングでいきなり掛けられた魔法のような言葉。それは灰塚からもっとも聞きたくて、私がもっとも願っていた言葉だった。

感動すら覚えてしまって、私は彼の顔を直視できなくなる。

顔を伏せたまま、私は立ち上がった。



「えっ、どうした?」

「……トイレ」



それ以上の返事を返さないまま、私トイレの個室に駆け寄って、へなへなと床に座り込む。どうしても顔を見れなかった。

あの楽しそうな表情を見ていたら、涙がこぼれそうになるから。

……なんで。

なんであんなことを平然と言うのよ。なんで私が聞きたい言葉だけ、的確に察して言ってくるの。なんで、なんであなたはこんなにも………



「………はぁぁ……」



また涙が出そうになるのをぐっと耐えて、私は懐の中からハンカチを取り出す。

あの時、灰塚が私の命を救ってくれた時にもらったハンカチ。

それを顔に近づけて、息を吸い込んで、また吐いた。彼の匂いはもう薄くなっているけど、構わなかった。

初めて私を救ってくれた人。

初めて、私に暖かさを感じさせてくれた人。

好き。本当に大好き……傍にいたい。

彼と並んで一緒に未来を歩みたい。彼と、いつまでも一緒にいたい。

頑張りたい。

頑張りたいという感情が、こく自然にせり上がってくる。



「……………」



私の人生は、もう終わっている。

本来なら私はもう、あの教室で飛び降りて死んだはずだった。その終わった人生を彼に救われて、私は今こうして生きている。

だから、頑張ってみようと何度も自分に言い聞かせた。

好きな人と同じ未来を描く夢を、見てしまったから。

杠叶愛とって生きる理由はきっと、これだけでも十分なんだから。


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