36話  バレる

灰塚はいづか れん



「うっ……はあぁ」



ソファーで目を覚ましてから、俺は立ち上がってすぐ冷蔵庫に向かった。人の家でよくも馴れ馴れしい行動を取っているなと思いつつも、ペットボトルを取り出して喉に水を流し込む。

贅沢な日々だったな、とふと思った。

今日は土曜日、姉と約束した日付は明日の日曜日だ。一週間という時間はあっという間に思い出になっていって、目を開けたらもうGWの終わりが見えている。

色んなことがあって、色んなことを感じた時間だった。

ゆずりはをもっと知って、もっと彼女と打ち解けたこの一週間は、間違いなく楽しくて、幸せだった。



「……………はっ」



もちろん、こんなにだらだらしてもいいのかという不安はは残るけど。

……勉強しなきゃという義務感もあるし、何よりも父親からの小言も心配だった。

仕方ないかもしれない。10年近く重ねてきた習慣しゅうかんを今さら変えることなど、誰にだってたやすいことではないから。



「何ぼうっとしてるの?」

「………あ」



そこまで考えた途端、後ろから聞きなれた声が響いてくる。

振り返ると、杠が小首を傾げてこちらを見ていた。



「私も水ちょうだい。喉乾いた」

「どうぞ」

「ありがと」



…こいつも、段々と俺といるのに馴染んできてるな。

そりゃ一週間も一緒にいれば、当たり前のことかもしれないけど。



「それで、なんでぼうっとしてたの?あなたらしくないじゃない」

「考え事をしただけ。明日には帰らなきゃいけないしな」

「……そっか」



間をおいて飛んできた返事は、こころなしか寂しそうに聞こえた。



「バイバイ」

「いや、今日はここで寝るから」

「本当にあっという間だったね。そういえばその間、エッチは一度もしなかったな」

「ぷふっ!ケホッ、ケホッ!」

「ああっ、ちょっと!汚い!」



こいつ、誰のせいだと思って……!



「……いきなりお前がエッチなんて言い出すからだろ!」

「……前から聞きたかったけどね。灰塚ってもしかして童貞?」

「…お前が卒業させてくれたんだろうが」

「うっ……じ、じゃなんでそんなに慌てるのよ。もう何回も………その……してきたんでしょ」

「……水を飲んでる間にそんなこと言うなよ。全く……」



…そういえば確かにこの五日間、エッチは全くしなかったような気がする。

一応俺たちはセフレだから、確かに変わっているのかもしれない。



「本当に性欲ないんだよね、灰塚」

「…何が言いたいんだよ」

「別に?なにも」

「…………言っただろ。別に、性欲が全くないわけじゃないから」

「…あなたもめんどくさいよね、本当」



言葉とは逆に、杠の口元はもうすっかり緩んでいた。それを見て、俺は少し驚いてしまう。

ここまでゆたかな表情をしている彼女を、俺はあまり見たことがなかったのだ。

…でも、そっか。浮世離れしてミステリアスに見えても、杠もただの女の子だから。頑張ったのに報われなかった、傷だらけの女の子。

だから、彼女を邪険に扱いたくなはなかった。



「セックスを拒むセフレなんて、可笑おかしい」

「うるさい」

「したいならすればいいのにね」

「…お前はもうちょっと、自分を大切にするべきだ」

「………」



セックスという行為には、それなりの意味と力がこもっている。

今の俺たちにとってあの行為は、もう快楽を追い求めるだけの手段ではなくなっていた。最初にした時とは、その意味が全然違う。

…過去の俺は、杠のことをここまで大切に思わなかった。

だから俺は心置きなく、彼女に性欲を吐き出していたのだ。でも今は違う。

大切だからこそ、できないことだってあるから。

互いの視線が10秒ほど交差した末に、杠はにまっと笑って話題を変えた。



「……食べたいものとかある?」

「は?」

「食べたいもの。冷蔵庫も空っぽだし、今日中には買い出しに行かなきゃ」

「……そうか」



話の切り替えの早さに苦笑しつつも、俺は天井を仰ぎながら考えを巡らせる。

食べたいものか…元々食べ物にはこだわらない性格だから、いざこうやってリクエストされると少し困ってしまう。

そもそも好きな食べ物とかも特にないのだ。今のところ浮かび上がるものもいない。



「…着いてから考えるか」

「え?」

「これからスーパー行くんだろ?」



そのまま肩をそびやかして、言い続けた。



「一緒に行こうよ、買い出し」

「…もう」



仕方ないなと言い加えて、杠はまた笑ってくれた。そして俺たちは部屋着のまま家を出た。

スーパーに向かう道すがら、俺は傍目に杠を追いながら考える。

並んで歩くことになんの違和感がないくらい、俺は杠と打ち解けている。異性にここまで心を許したのは、杠が初めてだった。

これからの人生の中で、彼女以上に心を許せる存在なんて果たして現れるのだろうか。



「…………」

「…はいづか?」



元カノの芹菜せりなとは付き合ってはいたけど、ここまで情が深まったような実感はなかった。

なにせ別れを告げられたその時さえ、俺はあまり動揺しなかったから。



「はいづか!」

「あ……ごめん」

「なにじろじろ見てるの。顔になんかついてた?」

「いや。ただ…ちょっとした考え事」

「なにそれ、変なの」



俺は、自分のことを薄情な人間だと思う。

友人関係も狭いし、感情も豊かな方ではない。でもそんな俺にだって、大切な人は確かに存在する。

俺の中にそういったわくがあった。その枠には俺を可愛がってくれる姉たちと母がいて、親友の響也がいて。そして…



「ほら、さっさと行くよ?」



杠がいる。

枠の内に、大切な人たちの間に杠叶愛かなという少女がいる。

いつの間にか俺の世界に入ってきて、俺に色んな感情を与えて、色んな表情を見せてくれる人。

その人の横顔を眺めながら、俺はにわかに言い出した。



「鍋にしよっか」

「うん?」

「ほら、作るの簡単だし、後片付けもラザニアの時よりは楽そうだし。あとお肉も食べれるし」

「あんたね………まさかまた」

「自意識過剰だよ。単に食べたくなっただけだから」

「………ふうん、それならいいけど」



もちろん、ウソだった。

杠の手間を考えて思いついたものだったけど、こんなこと本人に言えるわけがないじゃないか。だから俺は大人しく、口を噤むことにした。

スーパーに入って、俺たちはさっそく買い物かごに食材を詰め始める。白菜と豚バラ、しめじと人参……



「あっ、ごめん。俺にんじんきらい」

「……え?ウソ、信じられない。灰塚に食べ物の好き嫌いがあるなんて」

「お前な…一体俺をなんだと」

「それより、もう高校生でしょ?好き嫌いはよくないよ?」

「お前が人参を全部食べてくれれば、別に問題はないけど」

「やだ。あんたの皿にだけたっぷり盛るからね。人参の色しか見えないようにしてあげる」

「……悪魔?」

「ふふっ、知らなかった?悪魔です」



そう言い放つ杠の顔には嫌気なんて一つもなく、ただ純粋に面白がっているのが見えた。心地いいという気持ちと同時に、心が踊り出す。

やっぱり、杠との時間は楽しい。

そんなことを思いながら隣でギャアギャアうるさくするのを無視して、そのまま人参を棚に戻そうとした…ちょうどその時。



「………連?」



後ろから響いてくる声に、俺は一瞬ぴたっと体を強張らせた。

杠の声ではない。

これは、小さい頃からずっと聞いてきた人の声。

そのことに気付いた途端、氷でも落とされたかのように背筋がぞっとしてしまう。



「……連、でしょ?」

「…………」



振り向くと、手を口に添えたまま驚いている女の人が立っていた。

週末にも会った、俺をもっとも大切に思ってくれる人。

日葵ひまり姉ちゃんが、目を大きくしたまま俺と杠を交互に見ていた。



「……………」

「……………」

「………あ」



時間が停止したまま、杠の震える声だけが響き渡った。

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